1 月のない夜
かつて、神様はいなかったらしい。
そんな壮大な台詞が、突如蘇って少女の頭を占めた。
『らしい』という曖昧な助動詞付き。確実性に欠ける、どこかふわっとした表現だ。しかし少女がまだ十七歳で、かつて歴史の授業を全て机に突っ伏して潰していたことを踏まえれば妥当といえる。
もう顔も覚えていない歴史の教師によると、神なき時代──神仏その他、有難的存在がいるかいないか、そんな些細なことで論争が起こっていた時代は終わりを迎えたそうだ。ほんの三十五年前に。
最後のは受け売りの表現のため、それが適切かどうかは知らない。少女にとって重要なのは、そのとき自身が生まれていなかったこと、それだけだ。
話を戻して当時、突如人々の前に現れたのは目に見えて、触れ、言葉を使い──それぞれに埒外の力を有する、人ではないモノたち。しかも沢山。本当にいっぱい。
二十一世紀は、新しき神世と同時に始まったのだ。
特にここ日本においては、それは新時代の幕開けに他ならなかったらしい。かつて無宗教の国とすら呼ばれたこの国は、新参者の胡乱な神々があちらこちらで根付くのに十分な土壌を備えていた。
その結果がこれだということだけ、生まれも育ちも神世の少女は知っている。埒外の存在が闊歩とまではいかずとも光に潜んでいることが公になり、しかして世界は少女のような一般人が普通に生きられる程度にはきちんと取り繕われていて、人の頭の中身だけが多種多様に食い違うようになったこの新時代。
『お困りですか? 我らの神を崇めましょう』
少女の時間感覚が狂っていなければ、時刻は深夜一時を過ぎたあたり。東京都内某所、宵宮市内某地の夜道を疾走する少女の真横でそんな文言が通り過ぎていった。
ちょうどこんな風に、そこの電子掲示板に、チラシに新聞に。勧誘文句を携えた、よりどりみどりで選び放題の神様たちがいるのが今の世界で。
なんてタイムリー。路地のポスターに印刷された神様は、見事なまでにぴたりと少女の状況を、苦境を言い当てた。──本当に、なんて煽りだ。
「──っなら、今! 助けてよ!」
ぷちん、とツインテールを振り回す少女の中の何かが切れる。声をひっくり返して叫んで、後悔。ただでさえ少ない酸素を余計に消費しただけだった。
だけど、足を止めるわけにはいかない。
「なん、でっ、くるの!?」
少女は振り向くと、それがまだ追ってきていることに思わず悲鳴をあげる。
「──ァ、ア」
呼応するように、少女を追うそれが声を上げた。一体どこから音を発しているのか、そのあまりの不気味さに少女の喉がひゅっと小さく鳴る。
それは一見して人間のようだった。手足は四本、大きさ的には多分成人男性。両腕をだらりと伸ばし、人と同じように二本の足で歩いて走る。更には目を凝らせば布を纏っているのが見てとれる。あれは服なのだろうか。
繁華街に近いこの場所は、時間が時間なこともあって人っ子一人見当たらない。結構叫んだ気がするのだが、誰も出て来やしない。東京は薄情だ。──もっとも皆んな、悲鳴だの「助けて!」だの慣れっこなのかもしれないと少女は思った。『噂』だって周知の事実かもと。
今日は新月、月明りもないかわりに寂れた下町特有の、濁った色の電飾看板だけが頼りなく少女の足元と行く先を照らしている。もちろん明滅しながらも照らし出されるのは、振り返った先にいるそれも同様で。
下半身だけ見ればギリギリ不審者──少女なら真っ先に通報を考える程度の──の範疇。路地で出くわしたそれの、その上半分が最初に光の下に現れたとき、少女は異常を確信したのだ。
──頭が首からぶら下がっている人間など、間違いなくこの世に存在しない。
喉は潰れているはずだ。骨は完全に折れたようで、文字通り首の皮だけで重い頭部を支えているそこの、一体どこから音を出せるのか。人体の不思議に少女の顔は恐怖を通り越し、口角はいっそ上に引き攣り始めた。嘘だ、全然笑えない。
幸い、ぶらぶらと絶え間なく揺れる頭部に引き摺られ、重心の安定しないそれ──どう見てもゾンビな怪物の速度は遅い。このまま走り続ければ、いつかは撒けるだろう。
問題はそれまで少女の体力が持つかだった。
「はっ、はぁ、っ」
もう何分もこうして逃げ続けている。もっと運動してればよかった。悔やんでも遅く、キリキリし始めた胃の痛みに腹を抑えて少女はただ走る。「~~!」電池の切れた立て看板に大振りに振った腕をぶつけて、目尻に涙が浮かんだ。
今いる路地は狭すぎる、もっと大通りに向かうべきだと分かっていても、焦りと恐怖と暗闇に押しつぶされそうな現状では、ただ前に向かうしかない。
近頃、街にゾンビが出る。夜になると動き出して、朝になると消えている。不思議な幽霊ゾンビ。
そんな噂を耳にした。
『変なの』が街に出ることなんて日常茶飯事。ましてやゾンビなんてきょうび聞かない古い映画みたいな超ビッグネーム、どこかの団体のパフォーマンスかと思って聞き流していたそれに、まさか自分が追いかけられるなんて思ってもみなかった。
映画好きだった友人のことが頭によぎる。グロいのとか本気で無理な自分に、いい笑顔でスプラッターを見せてきた友人のことを。
そんな少女が知っている、学んだ、映画の法則は一つだけ。
──可愛い女の子は死なない。それだけだ。
古今東西、そうと決まっている。例を挙げるまでもない。ツインテールを揺らし、一心不乱に前を見据える少女はいたって真剣な目。
もしも少女が声にでも出していて、かつ誰かが聞いていれば鼻で笑いそうな理屈だが、生憎夜の街に人気はなかった。本当に生憎、だ。
「メ、──」
「っ!」
ぬるい息が首筋にかかる。少女は息を弾ませた。否、幻覚だ。ただ、思ったより声が近くてびっくりしただけ──声が、近い?
意を決して再度振り向く。笑ってしまうほどの近さで、窪んだ空洞と目があった。
「ひ、──きゃあッ!?」
かつて目玉があったであろう、そのがらんどうに気を取られ、足がもつれる。派手な悲鳴をあげて、少女は見事にすっ転んだ。アスファルトに擦れた膝がじんじんと熱を持つ。
「グ、……ィ」
「や、来ないでっ」
今度こそ、幻覚ではない。ぞっとするほど冷たい吐息から逃げるように、少女は震えながら地面に手をつき後ずさる。立てない。少女を見下ろすゾンビが、一歩一歩、距離を詰めていく。
逆さまに揺れるゾンビの頭には、目も鼻も唇も存在しなかった。
血の気のない相貌に、真っ黒な底なし穴が四つ。頭髪も千切れてほとんどなく、頰が比喩でもなんでもなくゴッソリ削れていて、骨は浮くどころか丸見えだ。
顔の全面に付着した赤黒いものは本人のそれか、返り血かどうかも分からない。
──ああ。めっちゃくちゃ、本物だ。
現実から逃れたくて場違いな感想を抱く少女を前に、ゾンビの数本だけ歯を残した口が開くと、
「メ、……グミ」
「え?」
少女は目を瞬かせる。聞き間違いだろうか、声に聞こえたような。それも明確に意思を持った。
めぐみ。恵?
「っユユ、甘蔗ユユ! 人違い、っ!」
意思疎通ができることに一縷の望みを賭けて、少女──ユユは慌てて名前を口にした。声を上擦らせ、間違いを訴える。ユユはただのユユで、全然襲われる謂れもなくて、お願いだから早く間違いに気づいて来た道戻ってどっかにいって。
自分で言っていて、その馬鹿らしさに泣きそうだった。
──ゾンビに人間の違いが認識できる? そんな話、聞いたこともない。聞いたことないってなんだ。ここまできてフィクションのことでも考えてる? 余裕すぎ。
──そもそもめぐみってなに? 聞き間違いかも。『目、食う』とかだった気がしてきた。
絶対そっちでしょ。
「違う、から、ユユ、」
至極当たり前に、応答はなく。
気づけば、訴えは涙声に変わっていた。
「たべないで」
力が抜ける。怖い。なんで、こんなことになったんだろう。
──ただ、アレを探しにきただけなのに。
「かなちゃん……っ」
ユユは腕を掻き寄せ、縮こまってぎゅっと目を瞑る。
あの子は、こんなことに巻き込まれていたのだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「──大丈夫よ」
飛び込んできた声に、ユユが目を見開く。涙で滲んだ視界に映ったのは、ゾンビへと銀に光るものを翻した和装の女性で。
刀身がひらめき、それでもう、仕舞いだった。
「……ァ、ガ」
ひどく静かな断末魔が、秋の夜をそよがせる。
バッサリと上段から背中を両断されたゾンビは一度、一際大きく痙攣して。息も詰まるような心地の中、ユユが瞬きをした後には、その姿は跡形もなく消えていた。
「あら、消えた」
「ぁ、……え」
異様な光景に、ユユはひたすら呆気に取られた。
変なものに襲われて、変なものがいなくなって、今──助けられ、た。
ようやく理解が追い付いたユユだったが、何故か事をなしたはずの女性もしげしげと今しがた異形を斬り捨てた刀を見つめ、首を傾げている。不思議なことに、刀身は汚れ一つないまっさらな抜き身を晒していた。
「不思議ねえ……」
「ふしぎ、って……ていうか、その」
どうやら女性にとっても同じく想定外だったらしい、ということだけ分かった。言葉選びがどうも浮いている気もしたが、今は些細なこと。ぺったりと力の抜けた足を地面につけ、ユユはすっかり固まった首を無理くり動かし、小さく頭を下げる。
手は、組まない。
「ありがとうございました。……ほんとに」
つい先程までの、あの閉塞感、絶望。助かった生き残ったとすっぱり忘れて切り替えられるほど、ユユは図太くはない。
まだ、手足は小刻みに震えている。
心からの謝礼。声を揺らし、言葉を絞り出したユユに女性はさっぱりとした笑みを返し、
「ええ。無事でよかったわ」
その言葉に、ようやく緊張がほぐれていくのをユユは感じた。
そうしてあらためて見た、女性の年齢は二十代前半程度に見えた。腰まで届く長さの茶髪に、やや伏せられた柔和な雰囲気を醸し出す垂れ目。
最初は和装かと思ったがよく見ると和物は上半身のみで、それにロングスカートを合わせた和洋折衷だった。ユユが座り込んでいることを加味しても、百七十センチは優に超えるであろう長身。
月があれば照らされて映えたであろう顔は、今日に限っては薄明りの野暮ったい看板の下、ピンクと白の蛍光色に色づいている。そこに思案げに細い人差し指がちょん、と唇に乗せられたかと思うと、パッとその顔がこちらを向く。
「ところであなた、今困ってる?」
「はい?」
虚をつかれ、思わず素で聞き返したそれに返答はなく。
忘れていたと言わんばかりに、女性は刀に目を向け、「あら忘れてた」 と──言わんばかりではなく、言った──次の瞬間にはキンという小気味よい音がして、刀は鞘に納まっていた。
ただもはや、そんなのはユユの気にするところではない。
ユユは顔をしかめ、重い足取りで立ち上がる。その先ほどとは打って変わった苦い顔に、女性は小首を傾げた。
「……助けてくれて、感謝はしてます。けど、そういうのやらないんです」
「そういうのって?」
「宗教。だから、ごめんなさい」
「ああ、違うわよ」
着物の袖を口元に当て、女性は優雅に微笑む。
「そうね、自己紹介しましょう。私は結城。結城美曙。──『神宿相談所』で働いてる」
美曙と名乗った女性の長い茶髪が風になびき、ユユを見下ろす瞳が柔らかにたわむ。優しげながらも凛とした声が、秋の夜をすっと通り抜けていった。
「……相談所」
「あれに心当たりがないなら、この話はなし。あんなのに襲われるなんて不運だったわね、でおしまい。けど、もしあるなら」
「あるなら?」
「私たちに任せてもらえない? そのお困りごと、さっさと解決しちゃいましょ」
その言葉はユユに、言葉にしがたいほどの衝撃を与えた。
ゆっくりと俯き、ユユは唇を噛み締める。
善意だということは分かる。見るからに厄介ごとに巻き込まれた子どもに対し、救いの手を差し伸べたくなったのだろう。
そもそも神が存在するこの時代において、救いとはもはや義務だ。迷える子羊は、よってたかって完膚なきまでに救われる。それも先着順で。相談所とやらが何かは分からないが、詐欺の可能性を考慮するのを躊躇われる程度には助けられた自覚もユユにはあって。
けれど同時に、すぐさまはいとは頷けない理由もあった。
「……あ、りがたいん、ですけど」
──人に頼るなんて、馬鹿らしいのだ。効率が悪く、成功率も低い。人間が何人いたって、何になるというのだろう。神様だって──だというのに。
今どき誰もしないほど前時代的な作業へのハードルは、ユユにすらあった。
言葉に詰まり、落ち着けなさげに視線を揺らす少女に美曙は軽く「そこまで重く考えなくていいわ」と告げた。
「というより、むしろお願いしたいの。あの──ゾンビは、私たちの調査対象でもあるから。無理にとは言わないけど、協力お願いできないかしら」
顔を上げると、美曙は眉を下げて微笑んだまま、ただじっとユユの反応を待っていた。調査とはまた聞き慣れない単語だったが、それを口にしたのが刀を手にした常識外れの美女という要素が加われば、それは転じて『いかにも』な誘いで。
「……それなら、行きます」
どちらかといえば、助けてもらった恩があるからという、消極的な思考からだった。
元より、彼女が巻き込まれていたとしたら、関わらない選択肢はないという冷静な思考が挟まったのもある。──その相談所とやらがユユの役に立つかどうか考えるのは、後からでもできることだろうと。
「依頼する?」
「そこに! 行ってから、決めます。だから──案内してください」
そんな小生意気なことを言い放ったユユに、美曙は一拍おいて、どこか満足げに相好を崩す。
「ええ、もちろん」
きゅっと上がった口の端から、容姿に不釣り合いな八重歯がチラリと覗いた。
◆
そこは決して治安がいいとは言えない宵宮市の中でも、一層曰く付きかつ札付きの繁華街。昼でも夜でも子どもは近づくなと言われる、四方を注連縄に囲われた都内唯一の『自治区』。
ゾンビに襲われた場所から歩くこと十数分。通りをいくつも抜けた先、呻きたくなるほど雑多で煌びやかなネオンサインに紛れるようにひっそりと、その相談所は佇んでいた。
「ようこそお客人。ご依頼かな?」
長い足を組み、指も組んで、顔の角度は右斜め上の二十度弱。
やたらと格好つけて気取りきった青年のテノールボイスが、物語の始まりを告げた。
二話目は18時、三話目は20時半に続けて公開予定です。