ザマァされる第一王子はまんまとヒロインに惚れてしまった
気が付いたら死ぬ前に読んでいた悪役令嬢転生物のザマァされる第一王子に転生していた。
何を言って……とお決まりの台詞を口にしたいところだが、まぁ悲しきかなここで十七年の歳月を既に体験してしまって今に至るので、もうそういうもんだと諦めて久しい。
トラック転生の次の次くらいに多い病死転生をしてしまった俺が今生において自我が確立した瞬間に思ったのは、「やってらんねぇ~~~」だった。
高身長高学歴高収入(予定)、実家は太く家族仲は円満、特技は野球で趣味はアニメ鑑賞、クラスの皆はだいたい友達。そんな陽キャまっしぐらのオタクだった俺は順風満帆極まりない人生を送っていた。
にも関わらず、そろそろ就活すっかなぁ~とのほほんと構えていた大学三年生の夏、不治の病が発覚した。そしてあまりに早い半年が過ぎて、俺は色んな未練を抱えながら、それでも大切な家族や親友たちに前を向いてほしくて、やりきったという顔を取り繕って死んだのだ。
そしてふと気が付いたらキラキラな世界のキラキラな王子様(四歳)になっていた。
感覚的にいきなり記憶が甦ったというより、頭の中にあった前世の知識が自我の形成に合わせて徐々に表出され、ある日繋がった、という感じだった。
とはいえこれが本当に転生なのかひょっとして憑依なのかイマイチ判断は付かないため、気持ち的には幼気な四歳児の人生を乗っ取ってしまった罪悪感が勝っている。俺なんにも悪くねぇのになんでこんなカルマ背負って生きないといけないんだ? 起訴も辞さない。
やってら(ry と思いながらも我ながら根が真面目なので渋々王子様(幼児のすがた)を全うしていたところ、どうにもここは同じくオタクだった(というより俺の影響でオタクになった)妹に勧められ病院生活の間に読んでいた悪役令嬢小説のような世界だと気が付いた。タイトルは忘れたが、世界観に覚えがあった。そして五歳の誕生日に婚約者として紹介された公爵令嬢が「本当にゲンパラのイルケルだ……」と呟いていたのが決定打となった。
生憎ゲンパラが何の略かも忘れたが、なにせ転生物にも造詣の深いオタクだったので令嬢の振る舞いの端々に転生主人公らしさを感じてしまったのだ。
(入院中ジャンル問わずメチャクチャ漫画も小説もアニメも鑑賞しまくってたのに、なんでよりにもよって女性向けジャンルの悪役令嬢小説かな……転生するなら他の作品が良かったな……世界的大ヒットの某少年漫画とか……)
などと最初は思ったが、その漫画は今の世界のウン十倍キャラクターが多くストーリーも長く、そしてウン百倍は治安が世紀末だったので、ある程度の要所を押さえればハッピーエンドが確約されているこちらの方で良かったかもしれないと数秒後には考え直した。なんちゃってヨーロッパだから公衆衛生も整ってるしね。そこが中世基準だったら危うく病んでた。
あくまでいちオタクとしての俺の好みを言うのであれば、そりゃあ派手で複雑な伏線が散りばめられている大長編の方が好きだが、いち登場人物としてなら平和へのルートがキッチリ示されている一巻完結物の方が良いに決まっている。
それに記憶が正しければこの小説は一巻で終わることもあって国家引いては世界規模の何やかんやはなく、乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった主人公が処刑フラグを回避しようと家庭環境を修復したり、避けていたはずの攻略対象と何故かことごとくエンカウントして恋愛フラグを乱立させたり、どうしてか転生者でもないのに性悪だったヒロインに嵌められそうになってそれを華麗に打ち返したりと、そういうある種王道ザマァ悪役令嬢物だったはずだ。
そして俺はその性悪ヒロインにまんまと引っ掛かって婚約破棄を宣言し、直後ザマァされて廃嫡され平民に落とされる第一王子である。
つまりヒロインに現を抜かさないだけで勝ち確なのだ。こんなに分かりやすいハッピーエンドの条件があろうか。なんだったら複数人の攻略対象を警戒しなければいけない数多の世の転生悪役令嬢たちよりよほど楽な立場だ。
というわけで、俺は中身社畜三年選手の姉さん女房である婚約者をそれは尊重した。今の肉体では俺の方が一つ年上なのだが、まぁ社会人未経験の呑気な学生やってた俺よりは世間に揉まれた彼女の方が人間として出来ているはずなので、人生の先輩としてそりゃあ丁寧に接した。
結果、十七歳現在、悪役令嬢とは円満な関係を築けていると思う。というより、元々ハイスペックなこの肉体に前世からかなり要領の良かった俺の経験が組合わさり、小説よりもそして小説の中のゲームよりも麗しい『乙女ゲームの栄えあるメイン攻略対象・第一王子様』が爆誕している。
そう、俺は自己肯定力あふれるタイプのオタクだった。
さすがに国を背負った経験はないのでプレッシャーを感じないことはないが、ぶっちゃけ今生は余生だと思っているところもあるのでどちらかというと気楽に構えているし、加えて世界情勢は安定しており国政も大きなヘマ(婚約破棄とか)をしなければ磐石かなぁという具合である。
そう、俺はとても薄情なタイプの転生者でもあった。
なんたって前世に未練タラタラなのに、どうして中身享年二十一歳の小僧が転生したからって新しい人生に前向きになれるのか。しかも読んだことのある小説の世界だ。
前世楽しんでいた転生物の主人公たちは男女関わらず早々に第二の人生を現実として重々しく受け止め、誠実に歩みを重ねていたが。俺にはどうにもできそうになかった。
この世界は現実で、血肉の通った人間が生きていて、未来の施政者たる俺の身の振り方一つで国民が死ぬ。
知識として頭に入っていても、欠片も理解と実感は伴っていなかった。
ここは余生だった。というより、今も俺は病院のベッドで寝ていて、死ぬ間際に長い夢でも見ているのではないかと思う。
キャラクターではなくプレイヤーとして、液晶越しに鑑賞するようにこの世界を眺めていた。
なんなら、こんな世界で十七年を体感するくらいなら、病院生活でも良いから前の世界で家族や親友と過ごしたかった。
かといって、「じゃあ元の世界に戻れるかもしれないから小説通りにストーリーを進めよう」とは思えなかった。
それほどに、どんなに「これは夢かもしれない」と逃避をしようと、あの日の最期は生々しかった。
これが最期の一呼吸だと自覚しながら息を吐いたのだ。あれ以上先に、俺の人生が続いているとは思えなかった。
帰る場所がないのなら、どんなに当事者意識を持てなかろうと、今の居場所を死守するべきだ。
そういう打算で、俺は今生を舐め腐った気持ちで生きていた。
表面上は完全無欠の第一王子様を演じきるスペックを持ち合わせてしまっていたこともあって、「まぁ日本出身の令和男子としては絶対王政とか身分制度とか違和感すげぇから王位継いだら適当に立憲君主制に移行して徐々に議会に力持たせて貴族制は廃止して良い感じのところで退位して田舎で一人で隠居してぇな~~~」などとヘラヘラしていられたのだ。
悪役令嬢も本来ならこの年にはゲームとは似ても似つかない愚昧な第一王子を見限って「ここはゲームの世界じゃなくて現実なのね!」と色々立ち回っていたはずだが、如何せんハイスペックな俺なので未だにここをゲームの世界だと思っており、ぶっちゃけ俺に懸想してくれている。
まぁ俺もオタクなのでね。美少女にうっとりと熱い視線を送られて嫌な気はしない。妹に軽蔑されようとハーレム物だって嗜んでいた俺である。というかあいつも逆ハーレム物を読んでいたので同じ穴の狢だ。
前世多少は恋愛経験も積んでいたが二次元の嫁は別なのだ。あとちょうど病気が発覚してから死ぬまではフリーだったし、前世に未練はあるがロマンス小説のように操立てしたい相手はいないので問題はないと思う。
それにここが悪役令嬢物の世界だというのなら、ザマァ系ではなく「婚約破棄を覚悟していたのに婚約者に溺愛されて困ってます」系の世界線になるよう振る舞った方が平和なのでは? という気もしている。どこまでもプレイヤー目線なのは自分でもちょっと乾いた笑いしか出てこない。
何度か悪役令嬢に自分も転生者であることを打ち明けようかとも思ったが、どうも前世で乙女ゲームの第一王子を推していたらしい彼女に「ここはゲームじゃなくて君が主役の悪役令嬢小説の世界だよ」と告げるのも残酷かなぁと口を噤んでいた。
転生物だとあんまりフォーカスされないが、転生なんて体験させられて正気でいられる方がおかしいのだ。
俺も逃避しているのに、彼女が「好きなキャラクターがいるから」と無自覚だろうとどうにか折り合いを付けようとしている状況にケチをつける気にはとてもじゃないがなれなかった。
そんな風に、やってらんねぇ~~と愚痴りながらグダグダとあと数十年を適当にやり過ごすのかと諦観していたある日のことだった。
俺は「ヒロイン」に出会った。
「は?? か………かわいい…………………顔がいい…………………」
周囲に人がいなくて良かったと信じてもいない神に感謝した。こんな迂闊なことを口走るくらいには横っ面を張り倒されたような心地だった。
小説では冒頭の登場人物一覧と二ページ程度の挿絵でしか顔が描かれていなかった性悪ヒロインは、とにかく顔が良かった。はちゃめちゃに、とんでもなく、可愛かった。
前世すらも含めての、人生初の一目惚れだった。好みが服着て歩いているとはこの事かと膝を打たざるを得なかった。
(えっっっかわいい。マジでかわいい。これは小説の第一王子もトチ狂うし乙女ゲームの攻略対象だって恋に落ちるわ。あの顔面なら許されるわ)
冷静な部分が客観的に見れば悪役令嬢も同じくらいの高顔面偏差値だぞと囁くが、俺は前世でも正直綺麗な女優さんより可愛いアイドルさんの方がタイプだったので、あのヒロインは本当に、どうしようもなくストライクど真ん中だった。
いやなんで女性向け乙女ゲームのヒロインが男受けする顔してるんだ……? あくまでここはやはり乙女ゲームじゃなく悪役令嬢小説の世界であの子はそのヘイトを稼ぐ役だからか……?
爽やかな笑顔を貼り付けたまま混乱状態に陥った俺に、ヒロインは追い討ちをかけるように、それはそれは可憐な笑みを浮かべて見せた。
「助けていただきありがとうございます。わたしはフェリハ・キラズって言います。あなたは?」
久しぶりに聞くこざっぱりとした挨拶に、思わず感動してしまった。
第一王子なんてやっていると、手紙で例えるなら拝啓的な頭語に始まり時候の挨拶を挟まないと会話の本題にすら入らないことが多いのだ。日常トークすらも始める前に二、三言は必要性の感じられない美辞麗句が述べられる。なんなら会話自体も相手が最高敬語を使うのでむやみやたらに長ったらしくて堅っ苦しい。
「怪我がなくて何よりだ。私はイルケル。この学園で生徒会長をしている。フェリハ嬢は新入生かな? 見惚れるのは分かるが、気を付けなさい」
ありがちな貴族の令息令嬢が通う学園の、よく晴れた入学式の朝だった。
いよいよ「ゲーム」が始まるとのことでピリピリしていた悪役令嬢に少し気まずさを感じてしまい珍しく護衛も撒いて一人で駄々っ広い庭園を散策していたところ、誰もいないと思っていた視界にふと人影が入ってきた。それこそがヒロインだった。
途轍もない衝撃に思わず語彙力ゼロの前世口調を口走り、顔には何とか感情を出さないままこちらには気付いていない少女を呆然と眺めていると、楽しげに庭園の薔薇を注視しながら歩いていた彼女はお約束のように小石につんのめって転びそうになった。
割と近い距離にいた俺は慌てて駆け寄ると手首を掴んで転倒を阻止したのだ。
「え! 生徒会長ってことは……イルケル殿下!? そんな、わたしったらなんて失礼を」
俺が誰かを理解したフェリハは、途端に青ざめてワタワタと慣れない動きで制服のスカートをつまみ貴族令嬢らしい挨拶をしようとする。
「ああ、気にしなくていい。学園内に身分を持ち込むことは禁止されているから、私も今はただの生徒会長だ。それよりもう式前の新入生点呼が始まるはずだから、早く行きなさい。今度は転ばないように」
「は、はい! ありがとうございます!」
もうそんな時間!? とやはり令嬢らしからぬ軽やかな駆けっぷりを披露しながら慌ただしく彼女は立ち去っていった。
その背中を見送り、さて俺も戻らないとな……と内心の動揺をどうにか落ち着けようと苦心しつつ踵を返すと、中庭を見下ろせる二階の窓からこちらを食い入るように見詰める悪役令嬢に気が付いた。
婚約者の前で別の女、しかも敵役であるヒロインへ一目惚れをかましたという途方もない居心地の悪さを感じつつ、それをおくびにも出さずいつものように気さくに微笑みながら手を振ってみたが、彼女は思い詰めたような顔のままぎこちなく振り返してくるだけだった。
そしてブツブツと口を動かしながら顎に手を当てて何事か考え込み始めてしまう。
『出会いイベント』
『どうしよう』
『イルケルルート』
『やっぱり』
『処刑』
『修正力』
王族の嗜みとして読唇術をかなりの精度で修得している俺は、聞こえないはずの彼女の呟きをいくつか拾い上げていた。
そして、足を進めつつも内容に首を傾げる。既に古い記憶となった小説のストーリーを思い返すが、ヒロインと第一王子の初対面は入学式よりさらに前の高位貴族の夜会だったはずだ。確かゲームのプロローグのさらに序盤も序盤でその夜会に至る選択肢を選ばなければ逆ハーレムルートが開けないとかで、まんまとその夜会に潜り込んで全ての攻略対象と顔を繋いだヒロインが入学式でいきなり全攻略対象から祝いの言葉を受け取るシーンに悪役令嬢が鉢合わせる、というのが小説の中盤だったはずだ。
ちなみに第一王子は心から祝いを述べるが、他のザマァ要員ではない攻略対象は王子に引き連れられて仕方なく、というのが実情だった。しかしそうとは知らぬ悪役令嬢はよりにもよって数ある破滅エンドの中でも悲惨な処刑が待ち受ける逆ハーレムルートなのかと恐怖するのだ。
しかし、悪役令嬢の蒼白っぷりを見るに、先ほどの一連の出来事は正規の「第一王子ルート」の「出会いイベント」だったらしい。
確か第一王子ルートも悪役令嬢の末路は処刑だとかで小説の主人公も前世の推しである第一王子に泣く泣く警戒をしていたはずだ。そしてその警戒もあって早々に「こんなのゲームのイルケル様じゃない!」と王子の愚昧っぷりに目が覚めるのだ。
なので王子には未練もなくただただ「準備はしているけれど、よりにもよって攻略対象が全員敵に回る逆ハーレムルート……生き残れるかしら……」と震えるのだ。無論ほとんどの攻略対象は悪役令嬢が本命なのてその恐怖は杞憂でしかないのだが。
だから俺はそもそもそれっぽい夜会には適当な理由を付けて行かないようにしたし、入学式の今日も不要なフラグを立てないよう攻略対象共も引き連れず一人で行動していたのだ。悪役令嬢だって「ひとまず逆ハーレムルートではない!」と分かりやすくホッとしていたはずなのに。
というか彼女は俺が読唇術を使えることや、何ならある程度の心理学を修めて他人の考えが表情や動きから読み取れることだって知っているはずなのに、あまりに無防備過ぎて時々心配になる。主人公補正のせいか誰も彼女の迂闊さに気付かず、勘違い要素もある小説らしく毎度良い感じに曲解されてしまっているが、ストーリー後の世界ではその補正が続くのか分からないのだ。
まぁそれは俺にも言えることだが、どちらかというとザマァ要員としてマイナス補正が付いてるはずなのに完璧王子様をやれている時点で怖いものはあんまりない。有能なんだよな前世から……。
相変わらずの自己肯定力を発揮したところで、ハッとあることに気が付いた。もしや俺は物心ついてからここを別の悪役令嬢小説と間違えていたのではないか? と。
何せ妹から十数冊は借りて読んでいたのだ。いかに優秀な俺とはいえストーリーが混ざることだってあったかもしれない。
だとしたらどれだ。ヒロインは性悪ではなく正統派で悪役令嬢とも友達になり第一王子ではなく別の攻略対象とくっつく話か、それとも悪役令嬢が他の男とくっつく話か。
……はたまた、「悪役令嬢小説の主人公」が死ぬ前に生きていた俺のとは違う令和ないし平成日本で存在していた乙女ゲームの世界という、ややこしく鶏が先か卵が先かじみた場所なのか。
(やってらんねぇ~~~~)
いつもの心の口癖を呟きながら、入学式会場である大講堂へと向かう。十七年、物心ついたころから数えれば十三年ほど指針としてきた前提がよりにもよって今日崩れるとかありえていいのか。
ここが何の世界であれ、今日この日がシナリオ開始もしくは節目のひとつだろう。なんてタイミングで訳の分からんことになってくれるのだ。
そういえば、とフェリハ嬢のことを思い出す。彼女に演技をしている様子は見られなかった。つまり、彼女が俺の上を行く演技の手練れか、もしくは少なくともすぐに尻尾を出す三流の性悪ではない可能性が高い。というか普通にいい子な気がする。あんなに可愛いんだから悪い子な訳がない。性格って顔面に出るって言うし。あんなに邪気のない顔付きだったのだ。うん。性格もいいはずだ。
……いや、俺は何を考えているんだ。参ったな、魅了持ちか? それなら俺のこのバグりっぷりも頷ける。
そう、厄介なことにこの世界。剣も魔法もあるタイプのネット小説にありがちな、なんちゃって乙女ゲームとなんちゃってRPG要素が混ざり合ってる場所なのだ。
使ってる言葉が日本語で。散りばめられている要素がどうにもネット小説もしくはタテコミ系で。
どうしてここが、誰かの頭の中で創り出された世界だと思わずにいられるだろう。何か、ストーリーなりルートなりが存在してしかるべきだと、思うだろう?
プレイヤーの俺は、その筆者の求める道筋を丁寧に、しかして自分の不利にはならないように歩いていくだけなのだ。死ぬまで。間違っても当事者意識など持たず。現実なんて見詰めずに。
とりあえず様子見かな、と。日和見主義の日本人らしいことを考えながら、俺は高鳴る胸の鼓動と、何度も脳裏に蘇る愛らしい少女の笑顔に気付かないふりをした。
様子見も何もやはりフェリハ嬢はヒロイン的な何かだったらしく。
あちこちで問題の中心となりその度に生徒会長である俺が出動する羽目になった。
すげぇなヒロイン……さすが攻略対象との接点に事欠かない女……。なお俺は妹に勧められてかつて何本か乙女ゲームもプレイしたことがある男なのでヒロインたちのエンカウント力の高さは承知している。あいつらすげぇよな。しかも命懸けで仲間と恋人を守ったりするんだぜ。かっけぇよな……。
そんなしょうもないことを考えながら、フェリハ嬢を挟んで言い合いをしている男子生徒たちの肩を叩く。ヒートアップしていた彼らは「ああ゛!?」と威勢よくこちらを振り返ったが目の前にいるのが俺こと第一王子様だとわかると一気に顔色を悪くした。
「やぁ。またフェリハ嬢に迷惑を掛けているのかな」
「いえ殿下! 俺はこいつがフェリハ嬢に強引なことをしているのを止めようとしただけで!」
「違います殿下! 強引なことをしていたのはこいつの方です!」
どっちが先でもいいが、こんな人気のないところで言い争っているだけで既に後ろめたいことをしている自覚が透けて見える。フェリハ嬢は逃げようにも二人の手が届く範囲に立たされているので難しいようだった。
他に人のいない場所に非合意で婦女を連れ込み、あまつ迫り、それを咎めた男も彼女を逃がすでなくただ言い争うばかり。抵抗のできない女性に対しての言い寄り、なおかつそれを邪魔する相手へのマウント行為の見せ付け。脅迫現場と言っても差し支えない。
身分制度が息をしているこの世界であるが、やはりネット小説が元だと思われるだけあってふんわりと現代的な倫理道徳も息をしているときがある。それにこれは該当する。
例えフェリハ嬢が一番爵位の低い男爵家の子女で、かつテンプレ通り市井で暮らしていたのをある日突然引き取られたほぼ平民とはいえ、彼らの行いは眉を顰められてしかるべきものだった。
この国で言う警察及び軍隊に相当する騎士団に突き出すほどではないのが口惜しい。俺は妹がいたのでそこら辺うるさいタイプなのだ。クソ、令和日本だったら警察に注意くらいはしてもらえる案件だぞたぶん。
「フェリハ嬢、おいで」
とりあえず被害者の確保を優先し、手招きをする。それまでずっと無表情で俯いていた彼女は、特に安心したようでもなく、ただ言われたからそうするというようにノロノロと俺の隣へとやってきた。
まぁね。別に助けに来たかって言われると目の前の二人に罰を下せるわけでもなくただ毎度止めに来てるだけだからね。確かに最悪の事態は防いでるかもしれないけど一時的にとはいえ彼女の安全が脅かされているのを黙認してるみたいなもんだからね。
でもな~~~これでこいつらを停学とかにもできないしもうちょっと行為がエスカレートしないと近付くなって誓約とかも書かせらんないんだよなぁ~~~。現状通報があったら現場に急行しかできないんだよなぁ……なまじこいつら二人とも伯爵家だから下手に他の生徒会役員送るより現状学園の最高権力者である俺が来るのが一番早いし……でもそのせいで最近俺もフェリハ嬢の毒牙に掛かりかけてるって噂が流れてるのマジで遺憾……今までも俺は学園の風紀に対して同じように対応してきただろうが……善行ってどうして一瞬で忘れられてしまうんだろうね……。
一時は無自覚な魅了持ちかと生徒会でも問題になり、というか男性トラブルの仲裁に疲れた俺が提案し、本人の合意を得て鑑定を行ったが結果はシロ。フェリハ嬢、なんと驚くべきことにただただ顔がいいだけでこれだけのトラブルを呼び寄せているのだった。噓だろすげぇな。
その顔の良さを聞きつけて男爵も引き取ったらしく、これは慧眼としか言いようがない。とんでもない金の卵だ。
あらゆるトラブルはただ彼女は顔がいいだけなので罪がないし、彼女も報告ではただ粛々と学園生活を送っているだけで性格にも問題はないため加害者側になる心配はない。なんのリスクもなくけれど必ず彼女は性格はさておき彼女の争奪戦を勝ち抜く力を持った男のものになる。
男爵、めちゃくちゃムカつくな。誰がその争奪戦に伴うトラブルに対処してると思ってるんだ。
というか半端に倫理道徳あるくせに子供の結婚を決めるのは親っていう価値観は揺るぎないのなに? やるせねぇ。そしてこれに関してはフェリハ嬢だけではなく男女関係なくすべての子供たちに言えることなのでやっぱ法律を変えるしかない。将来の目標がまた明確になった。
「すまないな、サネラ。女生徒のトラブルは君に一任してしまっているだろう。疲れてはいないか?」
「いえ、殿下。フェリハさんの安全が第一ですから」
やはり全く同じかは不明だが似たような日本から来ただけあって、悪役令嬢、サネラは価値観が俺と近い。イジメは嫌いだし女性の権利についても俺よりよほど敏感だ。同じ時代に生きていてもそこら辺の価値観が合うのは得難いことなので素直に感謝している。俺が王位を継いだらやりたいことリストを二人で作っていたりもする。
迂闊なところもあるが、さすが社会人経験者だけあって彼女は俺より大人びているし、色々なことを知っていた。
「フェリハさん、市井にいたころも男性とのトラブルが絶えなかったらしくて……お母様が身を挺してずっと彼女を守っていたそうなのですが、そんなお母様も昨年病で亡くなって……」
「そうか……」
公衆衛生が現代に近くとも不治の病はある。俺だってそれこそ令和日本で死んだのだ。理解している。けれどやはり見知った人間が大切な人を亡くしているのだという話は、気持ちが少し重たくなった。
「フェリハさん、笑うんです。絶対に朝まで安全が保障されている部屋があるだけで充分有難いって」
子供のころからその愛らしい顔で様々なトラブルに巻き込まれてきたフェリハ嬢は、あまりプライベートを隠そうとしない。隠そうとしたところで暴かれる経験しかしなかったため、聞かれたことには素直に答えるのだ。だから、出会って日も浅い、女生徒のトラブルから庇っているとはいえ俺と同じくできることは少なく歯痒い思いをしているサネラにもかなり踏み込んだ話を許してしまう。
サネラは聞いてしまった自分を恥じて、聞いてしまったからには何かできないかと法律は難しくとも学則は何とかならないかと色々と動いてくれている最中だ。
この学園の寮の部屋は、貴族の子供たちどころか王族である俺も暮らすためにプライベートと安全はかなり手厚く保障されている。部屋の主が部屋に一人の状態で鍵を掛けたなら、本人かマスターキーを持つ寮監以外にはよほどの魔法の使い手でなければ開くことはできない。これはこの平和な国において極めて稀だが、起こらないとは言い切れない暗殺などへの防衛対策でもあった。
一人の状態、と限定されているのも、逆に知らぬうちに加害者と二人きりの密室を作り出さないためだ。
けれど王侯貴族である俺たちにとって、身の安全を守るためのそういった様々な物や人は身近で当たり前のものだ。そんな部屋が、充分有難いのだと。フェリハ嬢は言ったのだ。
つまりは、男爵家でか、それとも市井でか。自分の部屋ですら、息を吐ける安全圏ではなかったということだ。
この平和な国で、周囲が大切に育てられた学友ばかりだったサネラにとって突然身近に現れた同情を寄せ、守るべき存在。少し入れ込み過ぎてしまうのも頷けるというものだった。
彼女が肩を持ちすぎてもまたトラブルを招くのだろうが、持とうが持たなかろうがトラブルは起こるのだ。それならもう、持ってしまった方がいいだろう。これは同性である彼女だからこそできることだった。
「サネラ、フェリハ嬢に執心する生徒たちは周りが見えなくなることが多い。矢面に立つと君にも危険が及ぶかもしれない。君が実戦においても優秀だと分かっているが、どうか少しでも危ないと思ったら私を頼ってほしい」
なんちゃってRPG要素もあるため、無論この学園は生徒たちも剣と魔法を習うし実習で簡単なダンジョンに潜ったりもする。サネラは非常に優秀な魔法使いだった。
「ありがとうございます、殿下。あなたのそのお言葉だけで、わたくしはいくらでも頑張れますわ」
そんな健気なことを言われてしまって、顔には出さないまま申し訳なさで胃が痛くなった。ひとつとして行動には起こしていない……いや庇いに行くのは生徒会長としての仕事で私情はない……ないはずだから……いや、うん。訂正。行動はあまり、起こしていない俺だが。日に日にフェリハ嬢に首っ丈になっていっている自覚があるので、本当に。いつも通り整えた笑顔で「ありがとう」と返すのにかなりの労力を要した。
ああ、本当に。彼女が現れてから、凪いで平和だった俺の感情は揺らぎっぱなしだ。
……本当に、勘弁してほしい。
ここは余生だ。ここは夢か幻のような場所で、俺は「イルケル第一王子」を演じるプレイヤーに過ぎないのだ。
ゲームにだって感情が動くことがあるように、今までだって感情が揺れることはあった。けれどそれは、あくまでも液晶の向こう側を痛ましく思うような、そういう無責任で怠惰な感情だったのだ。
なんとかしてやりたい。
あの、全てをやり過ごすための心を閉ざした無表情を思い出すたびに胸がひどく痛む。
あんな顔をさせる全てから、守ってやりたい。攫ってしまいたい。
彼女を隣に置けない第一王子なんていう身分もいらない。嘘偽りなく、俺は人よりずっと秀でた能力を与えられたキャラクターだから、きっと放逐されてもギルドに登録して冒険者になるなりしてうまく生きていくことができる。過信でもなんでもない、ただ事実として、その確信がある。
荒事に自信さえあればどうとでもなる冒険者という職業がある世界で良かった。俺は前科ありの生きにくい平民になっても闇商人なりになってそれなりにうまく立ち回れるだろうが、生活が安定するのは冒険者が断然実入りが良くて早いだろうから。
そんなところまで考えて、サネラが出て行き一人になった自室で身悶える。
なんなんだこれは。少しも自分の感情が制御できない。初恋に浮かれる中学生じゃあるまいし。状態異常:魅了じゃないならなんだっていうんだ?
前世も含めて、ここまで頭が馬鹿になる経験はしたことがなかった。
知り合いと言えるほど知り合えてもいない、トラブルが起これば顔を合わせる程度の仲だ。彼女は俺の顔と身分と周囲から聞いただろう評判くらいしか知らないだろうし、逆もまた然りだ。
俺はただただ、彼女の外見に狂おしいほどの激情を煽られている。
手に触れたい。抱き締めたい。頬に触れて、顎をつまんで、顔を上げさせてその唇を味わいたい。あの子のすべてを掌握したい。けどそれ以上に、嫌がることは決してしたくない。彼女を害するすべてを遠ざけたい。笑ってほしい。幸せでいてほしい。その幸福の中に、俺はいなくてもいいから。いいや、どうしても、彼女の幸福の中に俺も在りたい。譲りたくない。
相反する感情が胸の中で渦巻いて気持ちが悪い。
一目惚れだと、初めて会ったときに思った。外見だけで恋に落ちた。そんな自分を、ひどく軽蔑した。
人は外見が九割。それも全くの嘘ではないと思う。その人の外見に、その人の考えや生活、人生は多少なりとも現れるから。けれどそれだけではない。内面だって大切だ。
俺には憎らしいが可愛い妹がいた。その妹に、外見だけで惚れた男が言い寄ってきたらと考えると腹が立って仕方がない。こいつの、外見なんかよりももっと良いところをひとつも知りもしないで何を言っているのかと思ってしまう。
それと同じだ。俺はフェリハ嬢のことをほとんど知らない。ただ、いつも何か諦めたような顔で、嵐の夜に雨風が去っていくのをただジッと膝を抱えて息を潜めて待っているような、そういう雰囲気を感じさせる子だった。でも、それだって俺の思い込みだ。
あの子が何を好きか知らない。あの子が何を嫌いか、何を大切にしているか、何を絶対に譲りたくないのか。
彼女の尊厳はどこにあるのか。それを侵さないために、俺には何ができて、何をすべきなのか。そんなことも知らないで。どうして彼女を好きだと。守りたいなどと言えるのか。
自分の恋愛感情を気持ち悪いと思ったのは、前世も入れて初めてのことだった。
最初から資格がない。俺は第一王子のロールを与えられている。そのキャラクターは、恋愛に現を抜かして自身の基盤を支える貴族から差し出された大切な公爵令嬢に背を向けるなどということはあってはならない。それは信頼に対する裏切りで、王太子乱心という国の安泰を脅かす事態に他ならない。
(でもここは乙女ゲームの世界かもしれなくて。それか、悪役令嬢が主人公のヒロインと第一王子ザマァが前提の世界かもしれなくて。ならば。俺はあの子の手を取ることこそが正解なのではないか?)
ああもう、なにも。何も考えたくない。
布団を頭から被ると、俺は無理矢理目を閉じた。
「フェリハ嬢、何を読んでいるんだ?」
そんな風に思い悩んだ翌日。俺は何故か、何故か大変都合のいいことに誰もいない図書室で読書を楽しむフェリハ嬢に声を掛けていた。
声を掛けながらも頭の中は色々な自分自身の欲望と理性と倫理と道徳と本能でしっちゃかめっちゃかだが体だけは勝手に動く。別に催眠とかではない。俺の体が俺の下心に負けているだけだ。
いやなにをしているんだ本当。そりゃ確かにあるかも分からないシナリオに沿うならこれも一種の選択かもしれないが、未来の施政者としてアウト過ぎる。しっかりしてくれ。
「イルケル殿下! こんにちは。授業で分からなかったところを調べているんです」
相変わらずシンプルな挨拶からすぐに本題に入ってくれた彼女は、ページに指を挟むと本を掲げて背表紙を見せてくれた。
『赤ん坊でも分かる初等魔法解析学』。察しの良い俺は「ああ……平民生まれで男爵家にいた短い期間もろくに教育を受けられなかったから基礎知識が不足していて学園の授業についていけてないのだな……」まで一瞬で理解してしまった。
さて、どうするか。立ち去るか、アドバイスをするか。今周りに人の目はない。気になるのだったら魔法で結界を張ってしまってもいい。けれどそれはあまりにもガチすぎないか? いやはじめからガチだから困ってるんだけど。
乙女ゲームであればここで彼女から何らかの台詞なりなんなりがあってそれに俺が反応するものだが、何故か今俺の方に二択の選択肢が現れていた。
結果、俺は彼女の隣の席に座ることを選んだ。本当に、ちっとも体が理性の言うことを聞かない。
図書室には本当に謎なことに誰もおらず、ただ窓から差し込む西日が彼女の頬をオレンジ色にほんのりと染め上げていた。長い睫毛が影を落とす。
溜息が出るほどに、綺麗だと思った。
好きだ。どうしようもなく。
今までの平和極まりなかった十七年の夢うつつの全てが、ぐちゃぐちゃに搔き乱されるほどに。
散々自画自賛してきたが、俺は所詮、前世では二十一年、今生では十七年生きただけの、「大人」を経験していない「子供」に過ぎない。成人したことはあれど、実家を出たこともなく。親の庇護下から出ないまま死んだ子供だった。
だから、知らないこと、分からないこと、できないこと。それらはいくらだってあった。
そんな愚かな子供の俺でも分かる。
国を揺るがせてはいけない。民草を危険に晒してはいけない。今までイルケルに投資された全てを裏切ってはいけない。
彼女にこの思いを告げてはいけない。彼女を攫ってはいけない。彼女の尊厳を侵すことは、決して許されてはならない。
分かってる。分かってるのに。
可愛くて愛しくて仕方ない。
今生誰にも正しく向けられなかった、液晶の向こうの誰かに向ける愛着ではなく、「人間」に向ける愛情が、暴走して彼女ただ一人に向けられている。
今この瞬間、正しく理解する。俺は、彼女しか、俺と同じ人間だとみなしていないのだ。
無責任なはずだ。怠惰なはずだ。余生だなんて嘯いていられるはずだ。
全部全部、ほんとうは。どうでもいいのだ。
俺はやっぱり壊れてて、薄情者だからこの世界を愛せないし現実として生きられない。
今この瞬間も、前世が恋しい。帰りたくて堪らない。あそこだけが俺の居場所だ。
だけど君だけはどうしても可愛くて。どうしても人間に見えてしまうから。
君だけを大切にしたくなる。君だけが欲しくなる。俺にとって唯一の女の子。
「……フェリハ嬢?」
気付いてしまった事実に打ちのめされて、かなりの間ぼうっとしていたらしい。すーっという、微かな寝息に呼ばれるように横を見れば、机に突っ伏してフェリハ嬢、フェリハは眠りに落ちてしまっていた。
あれだけのトラブルに巻き込まれておいて男の隣で意識を手放すなど。信頼されているのか。どうでもいいと諦めているのか。
もう一度、ぐるりと図書室内に意識を巡らせる。俺たちを視界に入れられる範囲には、やはり誰もいないようだった。
顔面から思い切りよく突っ伏していて、髪に隠れて寝顔は見えない。寝顔でヒーローをたらしこむのがセオリーのヒロインらしくない寝方だな、と。そんなことを思って。胸が甘く疼いた。
「……ごめんな」
今はただ、指一本触れずにその微かな微かな寝息に耳を澄ませるだけに留める。数多のヒーローたちのように、髪に触れたり、ましてキスをしたり。そんなことはしない。
ほんとうに、ごめんな。
心の中で、意味のない謝罪を繰り返す。
いつか俺は、この恋心に俺の中のすべてが敗北した日に。
国も彼女の意思も全て踏み付けて、彼女を無理矢理攫うだろう。
気付いてしまえば、理解してしまえば。最早なにもかも邪魔だった。誰も彼も、何もかも。キャラクターや舞台にしか思えないのだ。愛着は持っても殉じる気はない。
そもそも。転生なんかさせられて正気なやつの方がおかしいのだ。
何の前触れもなく彼女を攫って、姿を消して。今まで数多くの男にそうされたように、無理矢理腕の中に囲われたフェリハに。俺はうっそりと囁くだろう。
『ごめん、俺は気狂いなんだ』
そう笑いながら、圧倒的な腕力の差で捻じ伏せられた華奢で可哀想な女の子を抱き締める。そのとき彼女は何を言うだろう。いつものように無表情で黙っているのか。さすがに嫌悪なり侮蔑なり恐怖なりを浮かべるのか。
許可も得ずに全部を捨てさせて、逃亡者として二度と故郷の土を踏めなくさせた男を、どう憎み詰るのか。
「旅に出よう。俺と世界中を見に行こう。大丈夫、たぶん俺より強い奴はあんまりいないから、大抵のことからは守ってやれる。冒険者なり傭兵なりでそこそこ稼げると思う。我ながら有能だからなんだかんだ生きていける自信がある。だからなぁ、俺だけを愛してくれ。君だけを愛してる」
机に肘をついて、顔の見えない彼女を見下ろしながら彼女にすら聞き取れないだろう声で囁く。
「俺、君しか人間に見えないんだ。ごめんな。許してくれなくていい。今まで通り諦めてほしい。諦めて、俺の隣にいて。それ以上望みやしないから」
それ以上も何も。心身の自由を侵害しようとしておいて何をほざくかと嗤う。彼女の貞操に触れずとも。彼女を何者からも守っても。俺こそが将来、彼女を最も貶め、卑しめ、苦しませる畜生となるのだ。
クソみてぇで、それでいて吐き気がするほど晴れやかな気持ちで席を立つ。本来であれば彼女の安全のためにフェリハも起こしていくべきだろうが、どうしても今だけは、彼女の顔も声も見聞きしたくなかった。
変な噂が立たないように、作成者が俺だと分からないよう、彼女を不届き者から守る魔法をかけてその場を立ち去る。
さぁ、明日からも頑張らねば。この恋心を生かすために。殺すために。
どうか一刻も早く。この恋心に、俺のすべてが。
またもや欲望と理性と倫理と道徳と本能でめちゃくちゃになりながら、寮へと粛々と足を向けた。
イルケルが完全にその場を立ち去って、さらに数分後。
――ずっと、机に突っ伏して隠れた髪の下で目を開いていた少女は。
ただ静かに顔を上げると、自分を優しく覆う魔法にそっと触れながら、無表情のままただジッと、何かを考え込むように俯いていた。