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一 ライトノベルっぽいもの
部室に置かれた長机に上体をぐでっと乗せて、顔を横へ向ければ千里の横顔がちょうど見える。
文庫本を手に真剣な眼差しを送る瞳を見やると活字を追っているのだろう、かすかに動いているのが確認できた。
読書家の彼女は暇さえあれば本を開き、あらゆる情報や物語を吸収しているのだ。
先日、新たに哲学書とミステリー小説を購入し、懐が寒くなったことによりバイトのシフトを増やそうか検討をしている。
そのことを千里は俺に教えてはいない。しかし俺は、彼女が購入したミステリー小説がいまいちであったということも知っている。
「あの……」
「どうした?」
「気持ち悪いので……」
「俺にも感情というものはあるんだからな。傷つくからな、案外簡単に」
千里は露骨に嫌なものを見る目で俺を一瞥してから、座っていたパイプ椅子を持ち上げ、こちらとの距離をあけた。
見ていたことで不快にさせてしまったのなら申し訳ないけれど、なんだか心底冷たい気がしないでもない。
「読書もいいけど千里。やはりそろそろこの部の活動というものを君達にもわかってもらっていてほしい」
千里がこの部活に入ってから一ヶ月が経過していた。
「活動? この部って『朝にはさんざん帰りたがっていたのにいざ放課後になると直帰するのが何故か惜しくなる衝動を緩和するための憩いの場』みたいなだけの存在じゃないんですか?」
「君なかなかおもしろいこと言うね」
「いやこの部の冊子の活動覧に書いてあったんですけど」
「ほへー?」
忘れていた。そういえばそんなことを書いておいた記憶があるにはある。気軽に入れるようにと親しみありのユニークな内容を記述しようとして失敗したものだった。
「しかしな、活動をしないとダメだし。暇だから」
「本でもどうぞ。貸しますよ」
千里はごそごそとスクールバッグの中をあさり、ブックカバーのかかった本をどさどさと俺の前の長机に何冊か積み上げる。
たしかに、放課後の部室で後輩の女の子と静かに本を読むというのは魅力的ではあるかもしれないけれど、俺個人としては、本は一人でも読めるし今はその時ではないと誰かが囁いている気がするのだ。
「うん。あのね、俺もね、好きだよ本読むのは。でもやっぱり活動の時間というものがね、ていうか部長の話を聞きなさい」
「それじゃあ改めて何をするんですか?」
千里がこちらへ向き直り、文庫本を閉じて膝に乗せる。今いいところなので、と適当にあしらってくるとも思えたけれど、案外こういうところは素直だったりする。
「とりあえずはまぁ、ボランティアかな。去年の活動を引き続き継続という形を取っているんだけど、今のところゴミ拾いしかしたことない」
「この部って地域貢献の類だったんだ……」
少し苦笑いを浮かべた千里は些少の戸惑いを感じだようだった。
「ボランティアとか嫌だったりする?」
「いえ、嫌ってわけじゃないんですけど、一応入部の時に言って欲しかったというか。月音もそれ知らないですよね?」
「ああ、そっか。顔出した時言っておかないと」
もう一人の新入部員の名前が上がる。
夜見月音。件の『あの子』と濁されていたアルバイターだ。
今日もまだ部室には来ておらず、千里からも欠席という報告は受けていない。といっても、いちいち出席をとるほど仰々しいものでもないけれど。
「でも先輩、だらだらしてるだけじゃなかったんですね。地域ボランティアなんて意外というか、似合わないというか」
「そんなに俺ってダメ?」
「……褒めてるんですよ、一応、だけど」
少し頬を赤くしてつぶやく千里は、新鮮さとギャップの相乗効果で俺の想像力を殺しにきた。しばらく再起不能になる。落ち着いて息を吸った。
「そうは言っても、千里たちが入部してから一回もしてないし、不定期だし、ほんと暇だからやるかみたいなスタンスだからいつまで経っても同好会という位置づけくらってるんだよなぁ」
「え? この部、同好会だったんですか?」
「創部申請したところで弾かれるのは目に見えてたんだけどね。創設当時、謎めいた同好会だったし」
妙に意識して肩を竦めながら自虐込みの創設経歴を掘り起こした。
最初こそ、俺、主人公の柳瀬洋は明確な目的を持ち創部を決意していた。
この学校の方針などの取り決めを担う生徒会に並ぶ一つの機関として確立しようとしたのが、この同好会創設の元来の理由である。
生徒会が与党であり、同好会が野党といった構成で凝り固まった指針を打ち砕き、よりよい校風を俺たちが作り上げていくんだとかニヤニヤ考えていたものだけれど、生徒会を通した申請手続きの際にあっさりと却下されてしまった。
そこは食い下がり交渉を行えばいいと思われるものの『同好会ならどうぞ』と言われてしまえば、どうしても部でなくてはならないという理由がない限り、その妥協案に乗る他ならない。
モチベーションは低下した。それに加え、俺が創設した当時は誰一人として入部希望者がいなかったことが最大の痛手である。
その後もやる気の減退も相まって、一人で空回り潰れていく一途を辿った。
「同好会なのに部室あるのってけっこう稀ですよね」
「あー、そうだね。創設した時期にちょうど廃部した部活動があって、余ってるなら使ってもいいですか? みたいなこと言ったら何故か快諾してくれた生徒会のおかげってやつ」
今思えば完全にその時点で敗北し、生徒会が一枚も二枚も上手で、あのまま積極的に活動を続けていたとしたら頭が上がらないただのお手伝い機関と成り果てていた気がする。本末転倒もいいところだ。
「まぁとにかく、幽霊部員大歓迎の、存在意義のわからないぐだぐだ同好会になりましたが、当面の活動は定期的なボランティア活動ですよ、と」
掛けていた椅子から立ち上がり、部室に置いてある戸棚の前へ向かう。
「ごみ袋と軍手、それと清掃トングなんかも入ってて、一応人数分揃ってるから心配ナシ。この部活唯一の備品ってやつだね。いっちょ前に」
ごみ袋を手にひらひらと振ってみせる。もちろん同好会に部費などというものは存在しないので、これらも全て生徒会のご厚意の賜物というわけだ。
きっと彼らは俺なんかいなくても素晴らしい校風といものを築いてくれるだろう。
「ほんとにやってるんですね……今からさっそく行くんですか?」
「んー、そうしようかな。延ばすと多分あと一ヶ月はしなさそうだし。いい機会だからいこっか」
自分でもかなりいい加減な同好会だとは思うというか、もはやなんの同好会なのかすらわからないけれど、こうした思い立ったが吉日のような気軽い姿勢が嫌いではない。
「っと、その前に書き置き残さないとな。月音が来るだろうし」
部室の隅に置かれたホワイトボードを引っ張りだしてくる。
以前ここを使っていた部のものがそのまま残されているので、部費がゼロなのにも関わらず困ることは少ない。
たしか生物研究部が使っていたとのことを、生徒会で部室受け渡しの手続きの際に耳にはさんでいた。
廃部、というものを逡巡して、来年にはこの同好会も消えてそうだなと苦笑いがこぼれた。
「……なんて書けばいいんだこれは」
外にて活動中、とメッセージを残したところで話を知らない月音には意味がわからないだろう。はてなマークを三つくらい頭に浮かべているのが容易に想像できる。
「普通に外出中ってだけで伝わると思いますよ」
「そ、それって……なんだか、デ、デートみたいで……誤解されるんじゃないか……?」
脳天に手刀を頂いた。
千里は手が出ることが多いけれど、その毎回が弱々しく加減しているのがバレバレなので、根の優しさが、触れる小さな手の体温からもろに伝わってきている。多分これをそのまま言ったらまた優しく怒るのだろう。
「変なこと言わないでください」
「ちょっとふざけただけじゃん」
からかうようにホワイトボードへとペンを走らせる。
そしてすぐさま俺の書いた『でぇと』という黒字が千里によって、備え付けのイレーザーで消された。
「先輩の冗談はたちが悪いので。全然笑えないし」
「がーん」
「口でいうな」
二度目の喝を頂戴した。
千里は俺の手から水性ペンをひょいと取り上げると『定期活動のため外出中』と丸っこい字で否応なしに書き上げる。夢もロマンもあったもんじゃない。
「作業はどれくらいの時間するんですか?」
「いつもは小一時間ほどかな。そんな大真面目にやってるわけでもないから」
というか、ボランティアなんて建前でしかないんだけどなあ、なんて柳瀬洋の中の俺の本音が漏れだした。
千里は「おっけーです」と言うと、外へ出るためマフラーを巻き、トングとゴミ袋を両手に持って早くも清掃の準備を整える。
良い子だねぇ、と自分の子供を褒めるかのように慈愛を表情に引っ付けて、廊下へ出た千里の後を追った。
寒風を身体に吸い込んで、設定、春にすればよかったかな、なんて考えながら。
袋の半分ほどまで溜まったゴミを眺め、これくらいかなと終了の目処を打った。
校舎の周りをぐるっと一周し、目につく空き缶やコンビニ袋をひと通り拾い集めただけでも相当な量になっている。
回収物の内容から察するに、おそらく学校の生徒によるポイ捨てが大きく割合を占めているのだろう。
帰り際に、投棄の注意を促すよう生徒会へかけ合ってみようとぼんやり考えながら腰を伸ばした。
今なお清掃活動に精を出す千里の方を見やると、どこからか溢れだした寂寥が俺を苛む。
校舎前の道路には車が行き交ってはいるが、運転席は空だ。
エキストラの容姿まで一々創造する程作り込むつもりはない。今は、この世界で動いているのは俺と千里の二人だけで十分だ。
数日前に始めた『なまごみフォルダ』の内容は記憶に新しい。沖波千里も、まだ多少ぎこちないとはいえ、だいぶ馴染んできている。
千里と一緒に過ごす時間をより多く取ることで、彼女に色がつき始めてきているのが目に見えてわかった。
「ちさとー。これくらいで終わりにしよう」
「あ、はーい」
千里は周辺にまだごみが落ちていないかキョロキョロと確認してから小走りでこちらへとやって来る。
ふさふさと上下に短いツインテールを揺らし、ふぅ、と白く零れる吐息はもはや現実のものと見分けがつかない。
ほどけたマフラーを片手で直してから、俺のものより多くのごみが溜まった袋を千里は掲げて見せた。
「部長より私のほうがいっぱいです」
若干得意気に、清掃トングをカチカチと鳴らしている。
「見込みあるよキミ。ウチのレギュラーにでもどう?」
「えー、遠慮しときますね」
あはは、と相好を崩して目を細める彼女の頭を撫でようかと思ったものの、さすがに自粛した。というかできるはずがない。
「それじゃあ戻りますかー」
部室で温まりたいという思いもあり、さっさと退散する。「鼻冷たい」と呟いて歩き出す千里を確認してから学校の校門へ向かった。
学校の敷地内に入り込むと、走り込みから帰ってきたのか、校外へ出たときにはいなかった運動部が入り口付近で水分補給をして集まっていた。
もちろんそれぞれに顔はない。正確にはジャージを着た人型MODと表現したほうがおそらく適当である。変更、修正、改造なんでもござれというわけで。
「先輩は他の部活とかには入ろうと思わなかったんですか?」
千里が運動部の方を眺めながら尋ねる。
「文化系と迷ったりはしたかな」
「あー、美術部とかでひたすら花瓶のデッサンとかしてそうですよね」
共感を求められても立場的にそこは同意しかねるけど、さりげない毒を吐いているのか微妙なラインの発言に苦笑いを浮かべ、やり過ごした。
「千里はなんでこの部? 幽霊部員ってわけでもないよね。バイトの日以外毎日来てるし」
「部室で言った通りですよ。家に帰るの、めんどうなので」
あの活動の概要をそっくりそのままの目当てにして入部したのだと思うとさらに心苦しくなる。実際のところ、どうせ入部者もゼロだろうと高をくくって、多少ふざけた部分もなきにしもあらずだったのだ。
「帰宅がめんどうで、清掃活動はテキパキこなすってよくわからないんだけど」
「それが部活の内容ですから。というか活動自体はさっき知りましたし」
「律儀か。俺だけ行かせて、部室で待機とかすればよかったのに。ボランティアなんて正直、率先してやる人少ないんだけどな」
「私は鬼ですか。部長一人この寒い中放り出してのうのうと本を読めるほど、無神経じゃないつもりです」
半ば呆れた表情で千里は批難してくるけれど、説明不足だった俺の過失が招いた結果なのだから、サボろうが退部しようが、俺が言及する権利はない、と。
言葉の刺はたまに刺さるけれど、こいつは少し優しすぎる。
職員用の駐車スペースを通りすぎて、生徒玄関へ続く道とは逆の通路へ入った。校舎の裏面に位置する、学校から出た廃棄物を収集した空地にこうして毎回ボランティアの成果を持っていくのはもう十数回にはなる。
がさがさと、袋の中でひしめき合う空き缶の鳴き声が一つ無くなった。
「先輩、ボランティアって一体何ですか」
後ろで足を止めていた千里が、再び歩き出す。たたっと、小走りで俺の横に並んだ。
「何って、無償でする自主的な奉仕活動のことじゃないの?」
「そういう意味ではなくて。えと、何のためにするのかちょっと曖昧ですよね。こういうの」
「んー?」
千里の声は抑揚がなく、無表情で眼は前を向いていた。
「世のため人のためといいつつ、突き詰めれば本当は、人のために役に立ちたいという自分の欲求を満たしているだけ、とか」
「……なるほどねー」
相槌を打った。そもそも意義を求めることもしなかった俺には意見する権利もなさそうな感じではあるけれど。
自分の活動の動機が明後日の方向を向いているから、少々恥じる。
「自主的な行動ってやつは、ほとんどそれかもしれないな。その人の中で、こうしたいって思いがあるからこそ、自ら動くわけだし」
千里はこくっと一回頷くと、そのまま何も言わずに俺の歩幅に合わせて歩いた。
通路を抜けて開けた空地に着くと、ごみを分別するための各容器が設置されているのが見える。その横にはダンボールがいくつも積み重なっていて今にも崩れそうになっていた。
カン、ビン、ペットボトルとその他に分けながら千里の表情を盗みみるけれど、何かを考えている様子は見られない。
自分の欲求なんて、こいつにはあるわけがない。自主的な行動とはよく言えたものだと呵責が蠢き頭痛を呼び起こした。
「……千里は人の役に立ってるよー。ほんとに、すごくね」
「な、なんですか急に」
怪訝そうに、じとっと視線が向けられる。
「人のっていうか俺の、だね。傍にいてくれるだけでいいんだよ。そう、俺の心の在処って感じかな。もうね、天使だよ千里さん俺の女神」
「また部長がおかしくなった……」
頭痛を感じていたのは俺だったはずなのに、千里が頭を抱える。「あ、元からだった」と冷静に付け加えられ憤慨しようか逡巡するも、からかうのにいい方法があった。
「千里よ、ずっと俺の傍にいてくれー」
肩をがしっと掴み、半泣きになって懇願してみる。心底驚いた千里の顔が少し赤くなり、口元をわななかせ無言で俺の両手首を掴み返し、必死に離そうとした。
「なっ……な、な」
「な?」
「なつみかん……」
「相変わらずその焦ってるとき意味不明なこと言っちゃう癖おもしろいね」
肩から手をぱっと離し、千里の指からもヘナヘナと力が抜ける。
「うるさいです……」
半眼で睨まれ、少し萎縮。反省する気はまったくと言っていいほどないけれど。
二年生に進級した当時を思い出す。
千里がまだ我が部活動の部員となる前、双方とも図書委員会に所属しており面識がなかったわけではないため、それをきっかけに何度か話をする機会もあった。
仕事で顔を合わせるときに、よくからかっていたなと古くもない思い出が蘇る。
「そうやって他の人とかもからかってるんですか部長は。嫌われますよ」
ぷいっと元来た道を向き、そのまま千里は歩き出した。それを、口元を緩めながら追いかけ、やはりいじり甲斐のあるやつだと悪戯心が騒ぐ。
「いや千里だけだよ」
「なお悪いですねそれ……嫌がらせですか」
一歩斜め後ろくらいを歩いているので、彼女の今の表情を見ることはできない。少し気になる。
「好きな子にはいじわるしたくなっちゃうってアレだよ」
「先輩はもう少しハーレム系ライトノベルの主人公の鈍感さを身につけたほうがいいんじゃないですか。物語即終わっちゃいますよ打ち切り云々の前に」
「自分、ありえないほど自意識過剰なんで鈍いとかそういうのよくわかんないっす」
中の人も中身すっからかんだから、主人公には向いてないって自負はしてるのであまり責めないでほしいところだ。
柳瀬洋においても、正直まったく設定など決めてなく即興で生成した俺の分身でしかないから、後付けべたべたのハリボテに仕上がっている。ボロが出てきそうだ。
「俺は生徒会に報告あるから、千里は先に部室戻ってて。なんなら帰っててもいいけど」
「………………別に帰ったりしませんよ。やっぱりちょっと鈍感なのかもしれないこの人」
「ん?」
ご都合主義、というより自作自演なのだから、最後は盛大にとぼけてみせた。耳鼻科に行って来いと、ヒロインに叩きだされるように。
難聴系主人公のみなさん、声を揃えてさん、に、いち。
なんだって?
生徒会への活動報告とポイ捨て注意の案件を提出して部室に戻ると、二人の部員が俺を出迎えた。
出迎えた、と言えば聞こえはいいが、実際には「わ、戻ってきた」と、十数分前の態度はなんだったんだと問い詰めたくなるような千里の言葉と「やな先輩こんにちは」という、感情を産まれてくるとき置いてきたのか疑いたくなるくらいの抑揚のない小さな挨拶だった。
「こんな感じだったかな……」
部室の入り口で突っ立ったまま、記憶の引き出しを探る。
夜見月音の容姿はあらかじめ決めておいたので、構築は存外楽に進行した。
短めに切りそろえられた真っ黒なストレートミディアムヘアに、少し切れ長の眼をしている、けれどどこかふわっとした印象を受けるのは、おそらく、眉が常にハの字で弱々しさを醸し出しているからかもしれない。
背景設定は特に決めてはいない。これは千里も同様で必要なときに付け足せばいいかと、いい加減な考えで落ち着いている。
「やな先輩、よかったらどうぞ」
とことこと俺の前まで月音がやってくる。その姿はまるで母親にお使いへ送り出された園児のようであり、和やかではあるけれど少し危なっかしさが残るように目には写る。
二百八十ミリリットルの小さいペットボトルのお茶をおずおずといった感じで差し出してきた。
「おお、ありがとうな。月音は気が利くねぇ」
受け取りながら、ぽん、と肩を軽く叩く。大人しげな性格とは裏腹に女子にしては高身長であり、俺とさして変わらないくらいである。おそらく百七十は超えているだろう。
正直、月音を作ったのは失敗だった。
俺との一対一ならまだいいけれど、千里が介入することにより多少めんどうが増える。
千里と月音の接触。これが気がかりになる。正直把握しきれないのが本音と言っていい。
今のところ三人だけのこの世界はあまりに狭すぎるのはわかっているが、それが俺の限界なのも明白だ。
所詮はお遊びなのだから、仕方ないんだろうけど。
「……生んだからには、消さないけどね」
小声で呟いた言葉に月音は不思議そうな顔をしたけれど、気には止めずといった感じで、通り過ぎる俺の後にそのままついてきた。
「あー、千里。月音に活動のこともう言った?」
清掃に行く前と同じ文庫本を読み進めている千里に、パイプ椅子に腰を落ち着けながら尋ねる。
図書委員会で一緒に貸出用カウンターの仕事をする際にもよく見かけるけれど、毎度毎度熱心に読んでいるよなぁ、なんて感心することもしばしば。絵のモデルにでもなれるだろうと思うくらいに。
「ひと通り説明しておきました。なんかすごくやる気あるみたいですよ」
「え、そうなの?」
隣の椅子に座った月音の方を振り向くと、こくこくと頷いている。
「みんなで、ボランティア楽しそう……道もキレイになる、から」
部員に恵まれているというのだろうか、これから活動が華やかになるぞと期待が募る。千里も、ボランティアに対する捉え方はどうであれ、やり甲斐は感じていたようだから、きっと次も参加してくれるだろう。
おもわぬ二人の戦力に僥倖といった感じだ。
「月音! いい心意気だよ、ほんと入部してくれてありがとう!」
ごみ収集場で千里にしたように、月音の両肩を引き寄せるようにぐっと掴む。
彼女は目をぐるぐると回し「あ……ふぇ」と顔を真っ赤にして口をぱくぱく動かしてはいるけれど、抵抗の一切を見せない。というかこれは単純に混乱しているだけなのかもしれないけど。
ちらりと、本を読んでいるであろう千里の方を見やると、つまらなそうな視線と一瞬目があった。すぐに戻して再び活字と睨めっこをしだす。
「何はともあれよかったよ。二人ともボランティアに肯定的で」
このままだと熱暴走でもするんじゃないかと思われる純粋無垢少女から手を離し、もらったお茶でもいただこうと身体の向きを正した。
「ふー」
「………………」
…………見られている。
俺のお茶を飲むという行為のどこに興味をそそられるものがあるのかわからないけれど、月音は微笑をたずさえてじっと見つめてくる。顔はまだ上気していて赤いままだけど。
しかし失敗とはいえ、やはり外見は良い。
千里は俺が想像したまったくのオリジナルだけれど、月音には一応モデルが存在している。多少の憧れというものから生み出されたのが夜見月音という人物だ。
「やな先輩、お茶、美味しいですか……?」
「ん、おいしいよー」
この言葉はこの商品の製品会社に帰属するような気が。
「あの、今度はちゃんとお茶っ葉から……でも、め、メイド服とかはまだ、恥ずかしくて」
「え」
ぐるんと千里の方に振り向くと、口元を抑えながらにやにやしている文学少女がいた。今すぐ読んでいる文庫本を奪い取って栞を挟まずパタンと閉じてやろうかと逡巡するも、戦争が勃発しそうなのでこちらが大人になる。悔しいな。
「その件も伝えておきましたよ。月音をメイドとして雇って一生奉仕してほしいとか」
「おいやめろ。そんなことは一言も言ってないし、この話題は誰も特しない。いや実現すればもう願ってもないことだけど、とりあえずこの話はやめだ。やめやめ!」
必死になっているあたり、もう手遅れな気がするけれど、人ってやつは焦っているとき本当に早口になるんだなぁ、と。自己分析している場合ではない。
「一生奉仕……はふ」
月音の顔が再び熱で朱色に染まる。
「部長うわー、ひきます。うわー」
「俺は何も悪いことしていないぞ!」
たとえ自己満足だったとしても、地域貢献なる活動をして一汗かいた人間に対してこの仕打はどういうことだと訴えたい。どこへ訴えるのかは全く持って不明瞭をさまよってはいるが。
虚しくも談笑の響く部屋。独り言の延長線上に俺は立っている。
逃避から生まれた、この不安定な世界と部活動だけれど、悪くはないなと思い始めた。
どうしてこんなことになった、というよりはむしろ、こうなってよかったと言える状況が今だった。
十二月上旬。早くも浮ついた雰囲気の流れる街のあちこちには、クリスマス仕様のイルミネーションがチカチカと発色していて、視覚から得る情報が無駄に騒がしい。
カラフルなドロップを散りばめたように、電飾の各々が我こそはと個性を主張していて、道行く人々の視線を奪い合っていた。
千里も例外ではなく、先ほどからキョロキョロと辺りを見渡しては「わー」だの「あれすごいなー」なんて感嘆を漏らしている。
この街で一番栄えているこの大通りは、わりと小洒落た店が軒並み連なっていて、その一つ一つも、競争でもするかのようにそれぞれ発光していた。それに群がるかのように、学校帰りの学生もそこらじゅうで散見できる。
そして、その一部となることになった発端は部室での一言だった。
「あー月音と見たかったなぁ……」
「バイトじゃサボるわけにもいかないしな」
「おかげで部長と二人って。意味不明ですね」
「意味不明ではないだろ」
あの後、急遽バイトのシフトが入った月音に合わせ、今日は帰りましょうとなったところで「千里っていつも直帰してんの?」と何気なく聞いたところ「それ以外に何かあるんですか?」という質問で返されたのが始まりだった。
どちらかと言えば都会の部類に入るこの地域に俺と千里は住んでいる。といっても電車で数駅は乗るけれど、それにしても千里は一度もこの中心街には寄ったことがないと言っていたのだ。
せっかく学生目白押しの店で賑わう街の区域に学校が建っているのだから、寄り道をしてからの帰宅が常識でしょうよと、完全なる個人的見解を振りかざした結果、このような事態になっている。
断られるかと思ったものの、意外にも千里は「ちょっと行ってみたいです」と遠慮がちに呟いたのが少し驚きだった。
そして回帰する。連れ出してきたはいいものの、俺も遊び方に慣れているわけではない。
こっちの方へ出てくるのも数えられる程度で、正直どうエスコートしたものかと頭を悩ませている最中である。
「どこもキラキラしてて、なんだか目が回ってきた」
「入ってみたいところとかある?」
「なんかどうも気後れしちゃいます……慣れてないので」
千里は柄にもなく首を竦め、てこてこと何故か足取りも慎重になっている。いや、これは接していくうちに勝手に俺の中で出来上がったイメージなのかもしれない。
本来、仕事も真面目にこなし、文学に造詣が深く本を嗜好品としている性格上、それが本当の姿といってもおかしいことではないのだ。
これは少し俺も強引に寄り道を決めたほうがいいのか。
「とりあえず喫茶店にでも行こうか?」
「先輩の、おまかせで」
結局、高校生御用達のカフェへ。
千里がこの新しい環境に疎いのは当然のことで、こうなることは想定の範囲内だけど、もう少し気の利いた案内をしてあげられていればと悔やまれる。
まぁ、こういっても学生なんかはカラオケだったり、適当にファミレスやらで駄弁ったりが基本なので喫茶店も無難といえばそうなんだけど、と自己完結。
まだ一年生だった頃に一度だけ入った事のある店へと行き先を定めた。
「少しわくわく」
千里は珍しくうきうきした様子で呟く。
「千里は意外としっかりものだから、休日とかもこういう浮ついたところには来ないイメージあるな」
「私がどうかは別として、真面目な人とかも普通に来るとは思うんですけど。というか意外とってなんですか意外とって」
ごもっともだ。
「相手を褒めるとき多少ふざけないと恥ずかしくない?」とふざけずに言う。千里は「…………なるほど」と顔を俺から背けて遠くのイルミネーションを見ているようだった。まったく照れを隠せていない。
もし褒め殺しでもしたらどうなるのだろうと、些少の興味が湧いた。
「うーん、朝起きて、パソコンつけて、読書して、昼寝して、読書して、寝る」
「なんですかそれ?」
「千里の土日の過ごし方」
「先輩、盗撮は犯罪ですよ。でもガーデニングの時間が抜けてますね」
「趣味を盛るな。花好きなんて一回も聞いたことないぞオイ」
声に抑揚があって、若干普段よりノリが良い。というか、休日のサイクルは当たってたのかと逆に動揺する。
「家族と遠出とかも全然しないの?」
「はい、両親は仕事でほとんど家にはいないので出かけるどころかいつも一人の時が多かったりですよ」
「寂しかったらいつでも家に呼んでくれよ。俺がパパになってあげよう。すぐ行くぞ、ていうか今日行く? ん?」
「…………………………嫌です」
まるでゴミを見るような目をされた。たしかに今のは自分でも気持ち悪いとは思うが。
自爆行為で傷心していると、目当ての店が見える所まで来ていた。
決して目立つものではないけれど、落ち着いた雰囲気の、ノスタルジックにまとまった外観がふらっと立ち寄りたいと思わせる。店先に置かれた折りたたみ式の看板、メニューボードがアンティーク風に装飾されたライトで照らされている。この店も電飾で飾られてはいるが、多数のカラーではなく電球本来の色のまま、全てが一色で統一になっていた。
「でも本当に寂しいなら無理はダメだよ」
千里の方は見ないで言ってみる。俺の中ではさり気なく、結構いい線をいっていると思ったんだけど、
「今日の部長いつも以上におかしいんですけど、酔ってるんですか?」
寂しかったのはどうやら俺の方だったようだ。
店内は混んでいるというわけでもなければ、空いているという数でもなかった。
客層は十代から二十代前半あたりと思われる人たちで、高校の制服を着たグループなども見受けられる。
内装が少し変わったかなと、前回来た時の記憶と照らし合わせて首を傾げながら二人用の席へ案内された。
天井から吊るされたシンプルなデザインのライトは微妙に薄暗く、店の雰囲気をゆったりとしたものに仕上げている。静かに流れるパイプオルガンの曲がより落ち着いた空気をもたらしていて、不思議な高揚感に包まれていた。が、それは店独自が作り上げたものにではなく、周囲の客に対して感じたものだった。
高揚感、では語弊があるか。狼狽、もしくは気まずさが綯い交ぜになった何かだ。
異様にカップルが多い。席に着くまでにでも、五組ほどそれらしきペアが散見できた。
俺と千里のように先輩後輩の関係だったり、異性の友人という線もなくはないが、概ね恋人同士と捉えるのが一般的だし、妥当なところだろう。
そして、それに気付いているのは俺だけではないわけで。
向かい側に座る千里は席についてからというもの、メニュー表を凝視したまま一向に喋る気配も見せない。
わからなくはないが、少し度が過ぎる。膝に拳を握り、口は真一文字に結ばれていて顔は赤いが額に汗が浮かんでいる。
中学生の初デートかよ、と突っ込みたくなるが事態が悪化する原因になりかねないので自粛した。
「千里、意識しすぎて逆に恥ずかしい感じになってるよ」
「…………っ!」
千里はびくっと双肩を跳ね上げてから、かくかくとした動作でスクールバッグをあさり、スマートフォンを取り出す。正直、見てて面白いものではある。
「と、りあえず」
「ん?」
「カフェなう」
「つぶやくのかよ」
初めての寄り道に感動して誰かに報告したくなったのか。それを達成した後、任務は果たしたとばかりにこのまま熱で気絶されても困るけど。
というか、弁明やら俺への批難を浴びせてくるかと思いきやSNSへの投稿が最優先事項とはどういうことだ。末恐ろしいな現代というやつは。
「まぁ、何か注文しようか。こっちはカフェオレにするけど、千里は?」
「あ、じゃ私もそれで、それで」
「あと何か……サンドイッチでも頼んで二人で一緒に食べる?」
「いいいいっしょ!?」
深い意味で言ったわけじゃないんだけど。初すぎるというか。
とりあえず落ち着けと千里をなだめ、卓上ベルをチリンと鳴らした。電子ではないところも、この店の拘りといった感じだろうか。
通りがかったウェイトレスがやってくる。千里は未だに狼狽という文字を顔に貼り付け固まっていたので代わりに二人分の注文を伝えた。
丁寧にお辞儀をしてから去っていく店員を一瞥してから、再び千里の方へ視線を移す。
「えっと……あまり気にしない方向で。多分誰も俺たちのことなんか見てないし」
「善処します……」
本当に大丈夫かと懸念は残るものの、見守るしかない。
「そういえばなんだけど、学校で貸そうとしてくれた本、改めて借りていい?」
言うのを忘れていたと、話の種にでもという意味も含め話題をすり替えた。千里は「おおー」と、少し嬉々とした表情で鞄をあさり始める。微妙な空気の払拭は成功と見ていい。
「これとかおもしろいですよ」
千里が厳選した二冊の本が俺の前に置かれる。どちらも文庫本のようで、一概に本といっても物語を好む傾向が千里には見られた。
「どうもどうも。いやあ、楽しみが増える」
わざと恭しく頭を下げて受け取った。ぱらっと軽く本を開くと、ご丁寧に二冊とも栞が挟んである。しかも、手作りの、本物の紅葉で飾られたものだ。
「私の好みってだけで先輩に合うかはわからないですけど」
千里は少し照れながら保険をかける。
「わりととなんでも楽しめるタイプだから多分すぐ読み終わるかな」
「あ、終わったら感想聞かせてください」
普段、あまり俺には見せない笑顔を向けられ、もうずっと本の話でいいんじゃないかと逡巡した。自分の好きなものは人を変えてしまうな、と。
千里はカラカラと氷を揺らしてお冷に口をつける。それをぼうっと眺め、感慨に耽けた。
誰しもとまでは言わないが、自分の中に、自分を慰めてくれる何かを飼ったことがある人はそれなりにいるだろう。俺にとって千里がそうであるように、心の癒やしであることは確かだ。
そして絶対に裏切らない。
俺が感情的であれば心配をしてくれる。大丈夫かと声を掛けてくれる。
決して裏がなく、純粋に自分の気持ちをぶつけてくれるだろう。
自分の気持ち、とは言ったが、全て俺に対する慈しむ感情だ。
そんな保証された関係を弄ぶのが楽であるし一番楽しかった。
かつての顔なじみに、悩みがなさそうで良いと言われた。
それは千里のように、事あるごとに遊び相手を呼び出して自分の中に闇を閉じ込めておいただけのことだ。
きっと今回も、そうやって解決にならない独り遊びに興じてしまう。
「千里」
幾分落ち着いたように思われる千里は「はい?」と軽く首を傾げたように思えた。
「今日は楽しかったよ。うん、非常に良い日でした。はなまる」
「そうなんですか? 何か特別なことあったんですか?」
「千里とボランティアしたり、寄り道したりね」
「それって、いつも先輩がしてることなのでは」
「いやだから千里と」
「…………部長よくそんな恥ずかしいこと躊躇いもなく言えますよね」
千里は呆れ混じりの面映い表情をしているけれど、彼女の存在が俺の救いなのは間違いではない。虚妄の成れの果てだとしても、必要なものなのだ。
今日の出来事を振り返る。
欠落した現実での日常を取り戻すように、千里と色々喋った。それに答えてくれるのが純粋に嬉しい。
部活動をして、二人の部員に恵まれて、学校帰りにふらっと遊びに出かける。俺が早々に放棄してきたものだ。
投げ捨て放置されたコミュニケーションというゴミをわざわざ拾ってくれる善良なボランティアなど、現実にはいるはずがない。いたとして、それこそ献身という皮を被った素性のわからぬ者だ。
保守的な臆病者の俺は千里を作った。それが今は楽しい。だからいいのだ。
「俺は何も間違っていない」
自分の手元の一点に目をやり、呟く。それは千里に言ったのではなく、自分に言い聞かせるように。
「……先輩? 大丈夫ですか?」
千里は何か察したように、俺に心配をかけてくれる。
「なんでもないよ」
「でも、お疲れなら寄り道、今日でなくても」
「いや、いいんだよ。千里と一緒にいなかったら俺、どこに帰っていいかわからないし」
ダメだ。ここでは柳瀬洋でなくてはならないのに。
どうしても、昔のように弱音をぶちまけたくなる。
「なにがいけなかったんだろう」
言葉を噛み締めた。こうして逃避を続けている以上、きっとその答えは永遠にでない。
しかし、自慰の言葉は見苦しくも出るのだ。
「先輩というのは後輩を頼っても、いいんですよ」
その言葉はいつでも絶対的に優しい物だった。それは必然であるし、そうでなければならないものだった。
甘やかすその声は、いつ何時と俺の傍に寄り添っている。
「先輩が悩んでいることはわかりませんけど、でも、しょうがないことはいっぱいあると思います」
全く根拠の無い優しさだけの砂糖のような励まし。それまでの過程すべてを無視した逃避の魔法。
「ありがとう」
感謝がから回る。どこに投げかけたかもわからないその言の葉はいつも虚しく頭の隅へ消える。
解決することのないこの自問自答は、昔から染み付いて抜けない呪いのようなものだった。
姦しい喧騒に飲まれて細かい愚考は散り去った。
今は千里だけをみていよう。この世界は俺にとって良いものだ。たとえそれが逃げだとしても、事実をねじ曲げることはできない。
いつかこのフィクションに浸透して、戻れなくなったらどうなるのだろうか。
難しいことを考えるのはもうやめよう。
まだ千里とは短い付き合いだけれど。
こうして同じ時間を共有している。
懺悔。
私は醜くも、また自慰行為をしてしまいました。
自分にはありえるはずのない虚妄を舐り回し、快楽に溺れ、汚らわしい欲望を満たしました。
すみません。すみません。どうしようものないのです。
夜になると、どうしても私の中身が乾いてしまって、それを埋めなければと脳味噌たちがどうしても騒ぐのです。
それはとてもうるさく、私を攻め立てるのです。
その中には私の家族もいます。でも、本当の家族ではないのですが。
お前は間違えたんだと、しつこく言ってくるのです。迷惑だと、邪魔だと、恥だと言われ続けるのです。
私の弟も、泣いてばかりでうるさいのです。私は弟のことが嫌いです。私の顔を見てはぎゃあぎゃあと泣き喚くものですから。
私は耳を塞ぎます。目も閉じます。
ぎゅうっと塞いで、自分を慰めてしまいました。
興奮するのです。気持ちいいのです。
あんなに騒いでいたのに、もうどこにもいません。残ったのは私の子供だけでした。
なんとも愛おしく、害のないものです。
他の人はそれを幻想と言いますが、私にとってはとても大事なものなのです。
汚さないでください。
私は間違っていません。
愚かな行為だと言われても仕方がないのです。
縋るものがないのなら、作り出すしかないのです。
一生傍にいてください。
かーそるのむこうがわ
部室に来た。
冷えきっていてすごく寒い。部長が来る前に暖めておかないと。
先ずは先日の活動日誌を書いておこう。
まだ新しい記憶を呼び起こす。
一緒に奉仕活動。楽しかった。
いっぱい仕事したら、褒めてくれた。次も頑張ってみよう。
入部してから一ヶ月が経ったけれど、それなりに充実している。
いや、もう一日の楽しみにさえなってしまっている。たぶん。
することといえば、ボランティアを除いて、読書くらいなんだけど。
最近はそれもままならない。
部長が近くにいると、なかなかページが進まない。文章が頭に入ってこない。
あぁ、もうダメだなぁ。
日誌はまだ真っ白だった。ペンを置いて放棄する。
「部長、遅いなー……」
此処に私はまだ一人だった。