70 誘拐された無能令嬢
「お嬢さん…先ほどから見つめていましたが、貴女は花の妖精のように可憐な女性だ。少しお話しさせて下さい」
無理やり肩を抱かれ、耳元でねっとりと話す貴族男性は酒に酔っているのか、吐く息に色が付いているほどのアルコール臭がしています。
「いえ、少し休んでいただけです。私、パートナーがおりますからここで失礼しますわ」
身を捩って逃げだそうとしますが、肩に食い込むほどの力で押さえつけられているので動くことが出来ません。
「大広間で拝見しましたが、次期ブラインズ公爵様に取り入るとは中々抜け目のないご令嬢ですな。しかもあんなに熱く口説かれるなど、ぜひ愛される秘技を私にも教えていただきたいものです」
この男性は私とジュードの大広間でのやり取りを見ていて、ここまで後を付けてきたのでしょうか。ニヤニヤと私の胸元を眺めまわす厭らしい視線に身が竦みますが、王宮で騒ぎを起こすことはできません。
「貴方が何を仰っているのかは分かりませんが、私はグレイソン公爵家のアメリア・エゼル・グレイソンです。私に手を出すということはお父様に楯突くも同然の振舞い。その汚らしい手を離しなさい!」
必死に睨みつけると、貴族男性のニヤニヤ笑いが引っ込みました。
「…グレイソン公爵家のご令嬢…?あの第一王子の婚約者だった…?」
「そうです。このまま貴方の所業についても国王陛下に進言した方がよろしいかしら?」
“内心の不安を出さないように、あくまでも威厳を持って話しなさい…弱気を見せたら付け込まれますよ”王妃教育で繰り返し教えられていたことが今、私を助けてくれます。
王妃になることはなくても、学んできた事全てが無駄になる訳ではないのですから。
貴族男性はゴクリと喉をならすと、慌てたように後ずさりました。
「こんなことはお酒の上の冗談ですよ。な、何卒穏便にお願いします…」
そう言いながら、もつれる足で走り去って行きました。
…怖かった…男性の姿が見えなくなると、思わず大きなため息が零れました。
正直、まだ足が震えています。今までであれば、いつもセオドア様が助けに来てくださっていたので、私が窮地にあうことはほとんどありませんでした。
いつの間にかそれに甘え、自分で対処することを忘れていたことにも気づかされました。
もう私がセオドア様に助けていただくことは無いのです。彼が別のご令嬢を抱きしめて愛を囁くことを想像するだけで、今も胸が抉られるように痛みますが、全て自分で選んだ道なのですから。
…本当はもう少しだけ、一人で居たいのですが、ここにいたらまたあの男性がやってくるかもしれません。やはり人目のある大広間へ戻った方が安全だわ…と私は王宮の中へ戻るために慌てて踵を返すことにしました。
私が振り向いた瞬間、腕を何者かに強く引っ張られると、私は後ろにいた人物にそのまま倒れ込んでしまいました。
私はまったく気が付きませんでしたが、暗闇に誰かが潜んでいたようです。
慌てて大声を出そうとすると、口元に布切れを押し当てられました。
まさか王宮の中庭でこのような暴漢に襲われると考えていなかった私の油断が招いたのかもしれません。
“これは…眠り薬…?”私の意識はゆっくりと途切れ、そのまま何者かの腕の中で眠ってしまいました。
“何だか頭がフワフワする…”ゆっくりと意識が覚醒すると、見たことの無い高い天井が目に映りました。ここは…?ぼんやりと自分が今、どのような状況なのかを思い出すと、思わず自分の体を確認します。
ベッドの上で一人寝かされていた私は、縛られてもいませんし着衣の乱れも無いようです。
乱暴された形跡が無い事には安堵しましたが、相手の目的が判らない以上は気を緩めるわけにはいきません。
ここは一体どこなのでしょう。外はまだ暗く、照明と言えば僅かな燭台があるのみです。
小窓からは覆い茂った木々が作る暗闇しか見えず、2階以上の高さがある部屋だという事しか分かりませんでした。さらに、部屋の作りも豪華で、清潔に保たれているようです。
少なくとも廃館では無くて、頻繁に利用されている貴族の別荘といった印象を受けました。
「もしかしたら、私がセオドア様の婚約者から外れたことを知らない高位貴族のご令嬢辺りが私を脅して婚約破棄させるために攫ったとか…?」
口にしたら、それは大いにありそうに思えました。
今迄も、目立たないように社交の場では『セオドア様の隣に相応しいのは誰か考え直したら?』とか『貴女のような無能令嬢ではお父様の御威光で婚約者になったに違いないから辞退しなさい』とかチクチクと嫌味を言われていましたから。
「そんなことは自分が一番分かっていますし、既に婚約破棄された状況で言われても困るわね」
自虐的に微笑むと、少しだけ元気が出てきました。もし、ご令嬢の嫌がらせであれば、婚約破棄したことを伝えれば帰して貰えるかもしれないと思ったからです。
私が攫われてどれだけの時間が経ったのか分かりませんが、今頃ジュードもお父様も心配していることでしょう…。
そこで、私は別の可能性にも気が付きました。
王宮に高位貴族が集まることは周知の事実です。それを知った暴漢が身代金や令嬢自体を奴隷として他国に売るために攫ってきた可能性もあることに…。
もしそうだった場合は一刻も早く逃げ出さないと大変なことになります。
でも、窓は嵌め殺しで開きませんし、2階から飛び降りる訳にもいきません。
どうしようかと途方に暮れながら部屋を歩き回っていると、微かに誰かが階段を上って来る足音が聞こえました。
…どうやら一人きりのようですし、もし相手が油断していれば倒せるかもしれません。
私はほのかな灯りを頼りに部屋の隅に積まれていた細めの薪を一本持ち上げました。
これを相手がドアを開けた瞬間に頭に振り下ろし、相手が昏倒した隙をついて階段から逃げ出そうと思ったからです。
ドキドキしながらドアの死角に立ち、息を潜めていると、外から鍵が開けられドアがゆっくりと開きました。
"お願い!倒れてっ‼"…そう念じながら力いっぱい薪を振り下ろす私の渾身の一撃が暴漢を直撃した…と思った瞬間、私の攻撃は軽々と躱されました。
慌ててもう一度振り上げようとした手を掴まれるとそのまま暴漢に抱き込まれて動くことすら出来なくなってしまいました。そのあまりに見事な動作に驚きが隠せません。
…一介の盗賊や暴漢とも思えない動き…。まさか他国の暗殺者とか騎士なの…?
じわじわと絶望が胸に広がります。こんな手練れ相手ではどうやっても逃げ出すチャンスは無いでしょう。
こんな見知らぬ男に乱暴されるぐらいならセオドア様に一目だけでも会ってから死にたかった…。
私は自死を覚悟し『セオドア様…一目だけでもお会いしたかった…』と涙を零しながら呟きました。もう気持ちを伝えることの出来ない最愛の人の名前を…。
「ああアメリア…私もずっと会いたかったよ…」
無理やり抱き込む暴漢から返事をされたその時の私の気持ちがお判りですか?
「…え?セオドア…様?どうしてここに…?…私を助けに…?」
燭台に照らされた顔は確かにセオドア様です。
状況を把握できない私は、ただオロオロとパニックになっていました。
あと数話で本編最終話となります。…ここまで本当に長かった…。
もう少しだけお付き合いください。




