幕間—①
それは、神が──アールマティが堕されて少しの頃。
鬱蒼とした森の中。舗装も何もされていない、獣道とすら呼べない道なき道を、『それ』は、まるで己の庭の如き気安さで軽々と歩いていた。
これが、昼間ならば旅人の散策と認識もできたが……時間は今や真夜中であり、明かりといえば森の隙間から溢れる淡い月光のみである。
にもかかわらず、『それ』の進む足取りに迷いは無く、目当ての“モノ”へと向かって行く。鼻歌交じりに歩を進めていると、やがて開けた場所へと辿り着く。
そこには、黒い“モノ”が蠢いており、月明かりが届いていないとはいえ、まるで闇や影がそのまま形を成したかのような物体は不気味に蠕動していた。
『それ』は黒いモノを見つけると、押し殺すようにして笑い、話しかける。
「よォ、はじめまして──だよな。ああ、こっち向くんじゃねえぞ? 今のお前と殺し合いやった所で面白くねえからな」
まるで久方ぶりに会った友人の如き気安さで『それ』に話しかけられた黒いモノは蠕動を止め、石のように静止していた。
聞く態勢を取ったと察した『それ』は自身の近くにあった樹木を片腕で引っこ抜いて横たえると、木の幹に腰掛けて黒いモノを見下ろしつつ口を開く。
「まずは……そうだな。お前からしたら“てめー誰だ”ってなってるだろうから、軽く自己紹介するか。己は──お前を殺したあの女神の身内って所だ」
凄絶な笑みを浮かべながら告げた『それ』と黒いモノとの間の空気が、軋む。
一触即発の雰囲気を作り出した当の『それ』はくつくつと笑いながら、何一つ気にすること無く、黒いモノを見据える。
「煽っても襲って来ない辺り、自制はできてるみてえだな。なに、己は喧嘩を売りに来た訳でも詫びを入れに来た訳でもねえんだ。一つ、話がしたくてな」
『それ』は訥々と語り出す。
「女神と、戦った連中について話そうか。これがまた傑作でなぁ」
雑魚はこの際除外するとして、という前置きをした『それ』は人差し指を指を一本、ピンと立てると黒いモノと己の視界に重なるようにして話を続ける。
「あいつと目立った戦いをした一番目は、三人組……だな。一匹ヒトだか機械だかわからねえヤツがいたが。こいつらはとにかく奇妙でな、あいつを見るや否や襲って行ったのはまだわかるんだが、何やら一つに融合したら、そこからはもう地形を変えるほどの殺し合いだ!! あの規模は久し振りだったもんだからよ、己としても、そりゃあ興奮したもんだ!!」
新しい玩具に興奮する子供のように、『それ』の語る言葉に熱が籠っていく。
そのまま呵呵大笑と笑い転げるのかと思いきや、一瞬にして表情から感情の色が消え失せ、声の熱も冷えきったものに変わる。
「……だが、奮闘しようが生き死に決まってねえんじゃつまらねえ。あいつの慈悲か気まぐれか、どうも一番目の連中は逃げおおせたようでな」
その結果少し面白いことになったから、まあ良し。と話を切り上げた『それ』は次に中指を立て、二本へと数を増やす。
「次に二番目の奴らだが……これは二人組、というか。“お前”ともう一人だな。く、くくく………当事者に語るのも釈迦に説法みてえで滑稽極まりないが、状況把握の一環だと思え」
嘲るような『それ』の口調に、黒いモノは目立った反応をすることなく、蠢き続ける。
煽りに反応しなかった黒いモノの振る舞いに、つまらなさそうに鼻を鳴らした『それ』は話を続ける。
「戦いの規模でいやぁ、はっきり言って一番目の連中以下だな。結果も女神の勝ちの一言で終わる──だが。密度が違う」
『それ』は、ここからが面白い所とでも言うかのように段々と声の調子を明るくしていく。
「一番目の連中と違って更地にするような派手な戦いじゃねえ。淡々と致命傷をギリギリで避けて女神に一撃を如何に入れるか……そんなノリだったよなァ。やってることは地味そのものだが、見応えはあったぜ。なんせ──女神が正真正銘、最初っから殺しにかかってんだからな!!」
そこまで言い切った『それ』は下卑た嗤い声を轟かせ、黒いモノを徹底的に嘲る。
『それ』は傷口に塩を塗るかのように、黒いモノの顛末を語っていく。
「何が女神の琴線に触れたかは知らんが、ああもぶち殺す気全開の奴は本当に──本当に久しぶりに見たぜ。それこそ、彼奴等とやり合った時以来だ。己らの中で温厚な奴とは言え、神は神。本気で殺す気の奴には……まァ、分が悪かったな。身の程を弁えていなかったと言えばそれまでだが」
多少の落ち着きを取り戻した『それ』は、薬指を立て、いよいよと言った風に話を切り出す。
「さて。三番目に戦った連中だが……こいつらが、今回の話の肝というか。結末から言えば──死んだよ。あの女神」
その、言葉に。黒いモノはドクンと大きく脈打つ。
その様子に『それ』は間髪入れずに、畳み掛けるようにして、“三番目”の連中について語っていく。
「己も初めは何一つ期待してなかったが……それがどうしたことか、とても愉快な事になってな。そいつらは、四人組の野郎どもで。まともな奴が一人もいねえアホの集まり………だと思ってたが、いざ戦いが始まれば、一番目の連中にも引けを取らん殺し合いだ!! 攻撃方法もタケノコだのナメコだの臓物だの触手だのフザケてる事しかやらかしてなかったが──ま、その狂気があの腑抜けに届いちまったって所か。情けねえったらありゃしねえ!!」
これまでに無い程にはしゃぐ『それ』に対して黒いモノは静止……否、グツグツと、噴火寸前の火山の如く煮え滾っていた。
曲がりなりにも今まで女神の事を同輩として扱っていた『それ』は手のひらを返すように痛烈に嘲っていく。
「大体、いちいちいちいちいち、やってることがみみっちぃんだよアイツぁ。“いずれ勝つ”側の『正善』の配下にしちゃあ、ぬるいヌルい温すぎる! 己たちの現状を甘く見すぎた結果だな!! はッ──ははははははハハハハハハハハハ!!!」
『それ』の嗤い声が森に──世界に。
泥を塗りたくるかの邪悪さで犯し、侵し、冒していく。
そして、嗤い声を遮るかのように、黒いモノから破裂音が響き渡る。
音の大小で言えば『それ』の嗤い声の方が遥かに大きかったが、どれだけ大仰に振る舞おうと、黒いモノへの注意を欠かさない『それ』は即座に嗤い声を止め……しかし口元は意地悪くニヤつきながら……片膝に頬杖をつき、黒いモノを見下す。
「くたばった女神への愚痴はともかくだ。その結果、少し──いや、かなり面白い事になっててな。まず、女神がくたばった事を知っているのは、身内の“己たち”と敵対してる“彼奴等”──ってのが表面的な事情だな。実際は、少し違う」
視線を黒いモノから上空にある一つの月に向けると、続けて語り出す。
「身内の不肖は全力で隠す、ってのが定石なんだが、三番目の連中が紛れなのかどうか……少し試してみるかと。ちょっと餌を撒いてな。案の定、見事に引っかかった奴がいてなぁ……」
くっくっく、と抑えきれぬ笑みを溢しながら『それ』は口元を手で抑えつつ黒いモノを見据える。
「純粋に脅威だと思ったんだろうな。一番目の連中に……喧嘩売った奴がいてよ……なんと! なんとだ! 返り討ちにしやがってよ!! 全く以て愉快なもんだったぜ! はははははハハハ!!!」
腹を抱えて嗤っている『それ』は、ひとしきり嗤い終えると、腰掛けていた樹木から転げ落ち──華麗に着地する。
まるでチンピラのような足取りで黒いモノの、少し手前まで歩き、まじまじと眺める。
「お前らの“神殺し”がマグレじゃねえ、っていう確証が多少持てたんでな。こうしてフラフラと粉かけに来たってのが今回の目的さ」
近距離へと迫った『それ』に、黒いモノは先程の様に、もぞもぞと蠢いては脈動を繰り返す。そして、時折表面が泡立つようにして小さく弾けていた。
「最初は三番目の連中の所に行こうと思ってたんだがな。行く途中でお前を見つけたって訳だ」
ほとんど勘だったがな、と付け加えた『それ』は、奇妙な蠢きを繰り返す黒いモノへ吐き捨てるようにして言う。
「しかし……よくもまあ、そんなザマになったもんだなお前。己以外には、わからんだろうソレ。中つ華の神どもが隠遁してたのは知っていたが……妙な動きしてると思って寄り道したらコレだ。実際に見るまでは意味不明だったが、間近で見て漸く理解した──お前、“食った”ろ」
『それ』の、問いに。
黒いモノは一際大きく蠢き、完全な球体へと変形した。
今の今まで奇妙なオブジェでしかなかった黒いモノの変化に『それ』は鼻を鳴らした。
「大方、最初に食ったのは邪神の……饕餮、だったか? そいつを核に神々を胃袋に納めた、って所か。面白え事に、食った神々は死んでるワケじゃねえと来た。少し目を離した隙に愉快な手品を身につけたもんだな」
黒いモノ……球体に一定の所感を述べた『それ』だが、返答は無く。
潮時と感じた『それ』は、本題を切り出す。
「これまで色々語ってきたが、己の言いたい事は一つだ──己と、手ェ組もうぜ。無論、強制じゃねえ……というか、お前が振るなら己は三番目の連中に会いに行くだけだしな。で、どうだ? そんなザマでも是非ぐらいは示せるだろ」
『それ』の誘いに、黒い球体は、びちゃり。と自身と『それ』との間に液体を吐き出す。
地面に描かれたのは──歪な、丸。
描かれた丸を見た『それ』は、今一度、嗤い声を響き渡らせた。
「オーケー、オーケー。その場の気分だとしても、実に重畳だ。それじゃあ、己は帰って今後の計画を練るとするわ。お前も、早い所まともなカタチに成っとけよ? 祭に誘って来れませんでした、じゃ興醒めだからな。くくく、はははハハハ!!!」
上機嫌な『それ』は──『悪逆』アンラ・マンユは、闇夜の森へと溶ける様に消えて行った。