表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

傾国の令嬢

作者: 獅子柚子

ブランエノワール以外の登場人物の名前は、全て『トリスタンとイゾルデ』という物語から引用しております。

中世ヨーロッパの有名な悲恋モノなので、そちらの内容を御存知の方も多いとは思いますが、こちらのトリスタンとイゾルデも温かく見守っていただければ幸いです。



 これは罪だ。


 叶う事があってはならない、けして許されない、浅ましい願いだ。


 それでも、私は───



***



「きみとの婚約を解消したいんだ、イゾルデ」


 ティンタジェル公爵家の応接室で対面するなり、マルクはイゾルデにそう告げた。


「……何故、とお聞きしても?」


 震える声で、イゾルデは問う。

 透き通るような肌は青白く、華奢な体はかすかに震えている。

 精巧なビスクドールのように整った美貌は無表情のままだったが、その真紅の瞳は衝撃と不安に揺れていた。

 イゾルデを蔑むように見下ろしたマルクは、吐き捨てるように答える。


「何故、か。理由はきみが一番よく分かってるんじゃないか?()()()()()、イゾルデ・ハーツイーズ」


 薄青の瞳は、ぞっとするほど冷たい。

 その凍てつくような眼差しを見つめ返して、イゾルデは「……お言葉ですが」と口を開いた。


「私は、この魔力を使った事は一度もございません。そもそも、この婚約はマルク様から持ちかけられたものと聞かされております」

「ああ。俺がきみを見初めて、父上に婚約の打診をお願いした。それは事実だ」


 マルクはあっさりと頷き、イゾルデの言葉を肯定する。


「だが……俺がきみに惹かれたのは、本当に俺の本心なのか?()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 マルクの言葉に、イゾルデは唇を噛み締める。

 そんなイゾルデを睨みつけ、辛辣な声でマルクは続けた。


「それとも、きみが俺に魔力を使っていないと証明出来るのか?」

「それは……っ」

 

 言葉に詰まるイゾルデを見下し、マルクは嘲笑う。


「はじめは、きみがそんな女性ではないと信じていたよ。でも、俺の周りにも親切な人がいてね……。アイリス侯爵家の令息や、オルタンシア伯爵家の令息とも、随分親しげにしていたそうじゃないか」

「それは誤解だと、何度も……っ!」

「もう、俺は疲れたんだよ。周囲の噂を躱すことにも、きみを信じることにも」


 ふいに、マルクの顔から表情が消える。

 そして、ほんの一瞬……その薄青の瞳に、憐れみのような、失望したような色が浮かぶ。


「とにかく、これは確定事項だ。きみの許可なんて必要ない」

「は……?」

「少し考えれば、分かることじゃないか」


 マルクは再び嘲笑を浮かべて、イゾルデを見た。


「俺はティンタジェル公爵家の嫡男で、きみはただの伯爵令嬢だ。こちらから一方的に婚約を破棄しても、きみの父上は頷くしかない」


 まるで出来の悪い生徒に教えるような口調で告げられた言葉に、イゾルデは言葉を失う。

 確かに、ティンタジェル公爵家は王家に次ぐ名門の家柄だ。先代の当主には王女が降嫁しており、マルク自身も王族の血を引いている。

 格下のハーツイーズ伯爵家では、確かに太刀打ちできないだろう。……だが。


「……それほど一方的に婚約を破棄されては、私の社交界での評判は、地に落ちるでしょうね」

「それが、どうかしたか?きみの社交界での評判など、既に地に落ちているだろう」


 呆れたように告げられた言葉に、イゾルデは静かに目を伏せる。


 イゾルデがマルクを異性として愛しているかと聞かれれば、答えは否だ。

 だが、婚約者として、いずれ家族になる存在として、愛そうと努力してきたつもりだった。


 こみ上げてくる涙を、ぐっと堪える。


 ……今は、まだその時じゃない。

 この男に、これ以上無様な姿を見せてはいけない。


「……畏まりました。これまでのお付き合いに感謝申し上げます、マルク様」


 ドレスの裾を持ち上げ、イゾルデは淑女の礼をとる。

 できるだけ優雅に、できるだけ美しく。


「それでは、これでお暇させていただきますわ」


 精一杯の笑みを浮かべて、イゾルデはその場を後にした。



***



「すまない、イゾルデ」


 書斎に入室するなり、そう言ってイゾルデに頭を下げたのは、父であるモルオルトだった。


「……どうか頭をお上げください、お父様」


 マルクに婚約破棄を告げられた日から、既に十日が経った。

 ティンタジェル公爵家からは正式に婚約破棄の書類が届き、書類を持参した使者によって、イゾルデは半ば強制的にサインをさせられていた。


「あちらからの申し出ということで、油断していた。まさか、今更になってお前の魔力の事を問題にしてくるとは……」


 拳を握りしめるモルオルトに、イゾルデはかぶりを振る。


「……仕方のないことです。どうか、お気になさらないでくださいませ」

「だが……」


 何かを言いかけ、モルオルトは再び気まずそうに口をつぐむ。

 その様子に、イゾルデは嫌な予感がした。


「まさか……まだ、悪い知らせが?」

「……とても、言いにくい事なのだが」


 イゾルデから目を逸らしたまま、モルオルトは絞り出すような声で告げる。


「今日、ティンタジェル公爵家より書簡が届いたのだ。その……お前の代わりに、妹であるブランエノワールを新しい婚約者に、と」



***



『……お前にはすまないと思っている。だが、我が家としては、ティンタジェル公爵家からの申し出を断る事は出来ないのだ』


 書斎から飛び出す前、父から告げられた言葉が、イゾルデの脳裏を駆け巡っていた。


 あれから、ずっと家には居場所がない。


 流石にイゾルデに気を遣っているのか、表立ってマルクとブランエノワールの婚約を祝うような事はなかった。

 だが、ティンタジェル公爵家との縁談が流れずに済んだ事で、父が安堵しているのは明らかだった。


「……ィ」


 我知らず、イゾルデはため息をつく。


「……ディ」


 とにかく、完全にお荷物扱いされてしまう前に、新しい婚約者を探さねばならない。だが……


「レディ!」


 物思いに耽っていたイゾルデは、肩を叩かれた衝撃で、ハッと我に返った。

 振り返れば、正装をした青年が、自分の肩に手を置いている。


「レディ、御気分が優れないのですか?先程からお声掛けしていたのに御返事がないので、心配しておりましたよ」

「も、申し訳ございません……」


 怪訝そうな青年の声に、イゾルデは赤面する。


 今日は、婚約破棄されて以来、初めての夜会だ。


 なんとか新しい婚約者を見つけなければならないのに、こんな事では先が思いやられると、内心でまたため息をつく。


「……まあ、お体に差し障りがないようで安心いたしました。ところで、レディ」


 青年は気を取り直したように微笑むと、イゾルデに向かって手を差し出す。


「どうか、私と一曲───」

「おい!」


 言いかけた青年を遮り、鋭い声が響く。

 見れば、青年の横には、同じ年頃の男性が立っていた。


「失礼、レディ。彼をお借りしても?」


 早口でそう言うと、イゾルデが頷くのを見もせずに、イゾルデに声を掛けてきた青年を引っ張っていく。


 まるで、目が合えば魂を取られるとでも思っているかのように。


 (……まあ、多分似たような事は考えているのでしょうね)


 友人らしき男性が、訝しがる青年に何事かを耳打ちする。

 すると、途端に青年の顔色が変わった。


「『傾国の令嬢』……?あの、ハーツイーズ伯爵家のか?」

「ああ……俺が止めていなかったら、危なかったぞ」


 イゾルデから少し離れたところで、こちらを伺いながらひそひそと話す声が、耳に届く。

 さらに、一連の騒ぎで周囲もイゾルデの存在に気づいたらしく、囁き声が飛び交い始める。


「いやですわ、どうしてこの夜会に……」

「目が合えば虜にされる、とか……」

「さすがは『傾国の令嬢』だな。婚約破棄されたばかりだというのに、もう次の獲物探しとは」


 好奇、軽蔑、警戒。


 けして好意的ではない視線にさらされ、沈んでいたイゾルデの心は、さらに重くなっていく。


 (ここでも、同じなのね……)


 この世界において、魔力持ちの数は多くない。

 さらに言えば、魔力持ちはその強大な力故に畏怖され、忌避される事も珍しくはない存在だ。


 しかも、イゾルデの持つ魅了の魔力は、異性同性問わず相手を惑わし、自らの虜としてしまう。


 そんな属性の魔力を持っているのだから、誤解される事が多いのも、噂に尾鰭がついて悪女扱いされてしまうのも、仕方のない事なのかもしれない。


 ……だが。


 (……この力を一番嫌っているのは、私自身なのに)


 イゾルデは、魅了の魔力を使った事は一度としてない。


 そもそも『傾国の令嬢』という渾名で呼ばれるようになったのも、以前夜会の場で男性に声を掛けられ、その婚約者の令嬢が誤解して騒ぎとなったのがきっかけだった。


 しかし、そんな事は、誰も理解してはくれない。


 マルクも、この会場内の人間達も……もしかしたら、家族でさえも。


 突き刺さる視線に耐えきれず、イゾルデは会場の端へと移動しようとし……そして、派手に転倒した。


「あら、ごめんなさい」


 振り返れば、数名の令嬢達がくすくすと笑っていた。

 その嘲笑に、イゾルデは足をかけられたのだと気づく。


 (私が、何をしたって言うのよ……!)


 悔しさと惨めさに、唇を噛む。

 真紅の瞳から涙が零れようとした、その時だった。


「……大丈夫か?」


 白手袋に包まれた手が、優しげな声とともに差し伸べられる。

 顔を上げたイゾルデは、目の前の人物の顔に、思わず息を呑んだ。


 (きれいな、人……)


 澄んだ湖水のような、瑠璃色の瞳。

 金糸の髪はシャンデリアの光に照らされ、眩いばかりに輝いている。    

 肌は白くきめ細やかで、形の良い桜色の唇といい、会場内の女性達が嫉妬してしまいそうなほどに艶めかしい。


 まるで挿絵から抜き出てきたような完璧な美貌に、しばし呼吸さえ忘れて見惚れてしまう。


 そんなイゾルデを現実に引き戻したのは、先程イゾルデに足をかけた令嬢達の悲鳴のような叫びだった。


「トリスタン王太子殿下!?」

「なぜ、このような場所に……」


 まさか、と思って目の前の男をよく見れば、その耳朶に光る耳飾りに気がつく。

 虹色に輝く特殊な金属で作られたそれは、直系王族だけが身につける装飾だ。


「トリスタン殿下、はやくその方から離れてくださいませ!」


 耳を劈くような、甲高い声が会場内に響く。

 振り返れば、イゾルデを真っ先に嘲笑した令嬢が、素早くトリスタンの腕を取っていた。


「その方は、ハーツイーズ伯爵家の『傾国の令嬢』ですわ!」


 びしり、と倒れたままのイゾルデを指差しながら、トリスタンの腕に豊満な胸を押し当てて、彼女は叫ぶ。


「……傾国の令嬢?」


 秀麗な眉宇を曇らせ、怪訝そうな表情を浮かべるトリスタン。

 そんなトリスタンの反応に気を良くしたのか、令嬢はさらに甲高い声で捲し立てる。


「この方は、トリスタン殿下のはとこであられるマルク様と婚約しておきながら、他の殿方を魔力で惑わしたのです!まったく、淑女らしからぬ破廉恥な……」

「……そうか」


 ああ、この人もか、とイゾルデは思った。


 困った人間に手を差し伸べるような優しい人でも、私の魔力を知れば、結局は離れていく。

 そうして、傾国の令嬢、破廉恥な女と後ろ指を指すのだ。


 もう、何度も繰り返してきたことで、慣れている。


 けれど、せめて彼が自分に軽蔑の眼差しを向けるのは見たくない───と、イゾルデが俯いた、その時だった。


「ところで……そろそろ、僕から離れてほしいのだけど」


 トリスタンは()()()()()()()()()、冷めた声音で言い放つ。


 予想外の言葉にイゾルデが目を向ければ、まさにトリスタンが令嬢を振り払ったところだった。


 ぽかんと呆ける令嬢にため息をつきながら、トリスタンは「そもそも」と続ける。


「このような公の場で、婚約者でもない男の腕に抱きついている貴女こそ、破廉恥なのでは?」

「は……」

「それに、彼女が婚約者のいる身で他の男性を誘惑したと言うけれど、それは確かな話なのかな?証拠もなしに誹謗中傷をしているのなら、貴女に淑女の何たるかを説く資格はない」


 ぴしゃりとトリスタンが言い切れば、令嬢は顔を真っ赤にして、死にかけの金魚のように口をパクパクさせている。

 当のトリスタンは、そんな令嬢を一瞥する事もなく、再びイゾルデへと手を差し伸べた。


「……さあ、レディ。どうぞお手を」


 ふんわりとした笑みとともに、優しい声で促される。

 そこに、先程までの酷薄な雰囲気は微塵もない。


 (もしかして……私のことを庇ってくれた……?)


 今まで、魅了の魔力の事を知って、それでも手を差し伸べてくれた人なんて、一人もいなかった。


 元々魅了の魔力持ちというだけで疑惑と警戒の視線を向けられ、それがマルクとの婚約破棄からは軽蔑の視線となって、陰口を叩かれるのなんて日常茶飯事。庇ってくれる人間なんて、いるはずもない。


 それなのに───目の前のこの人は、こんな私を庇って、手を差し伸べてくれた。


 (……この人が、いい)


 どくん、と心臓が跳ねる。


 煩いくらいに鼓動が鳴り響いて、指先が震えてくる。


 それは、けして願ってはいけない事だと、許されない事だと、頭では分かっているのに。


 (たとえ仮初めでも、この人が私を愛してくれたなら……!)


 気づけば、私は差し伸べられた手へと、ありったけの魔力を注いでいた。



***



 それから起こった出来事は、ありきたりな恋愛小説の流れをなぞったようなものだった。


 まず、魅了の魔力によって虜となったトリスタンは、衆人環視の元でイゾルデをダンスに誘った。

 さらに数日後には、トリスタンがハーツイーズ伯爵家を訪れ、モルオルトにイゾルデとの婚約を願い出た。王家との縁組を断れる訳もなく、モルオルトが頷いたのは言うまでもない。


 そして───


「イゾルデ、こちらへおいで?」


 あの夜会から、数ヶ月。


 すでに国王陛下からも承認を得て、トリスタンの正式な婚約者となったイゾルデは、たびたび王宮へと招かれるようになっていた。


「ここの薔薇は、僕が世話をしているんだ。イゾルデに見せたくて、満開になる日を心待ちにしていたんだよ」


 手招きをするトリスタンのそばには、今日呼び出された理由である薔薇が、今を盛りとばかりに咲き誇っている。

 まるで絵画のように美しい情景に目を細めながら、イゾルデは誘われるままに足を進めた。


「ええ、本当に……。どの薔薇も見事ですわ」


 赤、桃色、橙、黄色、白、淡紫。

 様々な色の薔薇が咲き乱れる景色は壮観で、一歩踏み出すたびに甘く華やかな香りが鼻を突き抜ける。


「気に入ってくれた?」

「ええ、とても」

「それなら良かった」


 トリスタンは微笑み、そばにあった真紅の薔薇を指し示す。


「この薔薇は、特に手をかけて育てたんだ。その……きみの瞳と、同じ色だったから」


 そう言って、トリスタンは少し照れたようにはにかむ。

 その様子に、イゾルデは胸が締めつけられるような感覚を覚えた。


「色や見た目だけじゃなく、香りも格別なんだ。良かったら、嗅いでみて」

「ええ……」


 内心の動揺を悟られぬよう、イゾルデはその場にしゃがみ、大輪の薔薇へと顔を近付ける。


 (これなら、殿下から私の顔は見えないわ……)


 ほっと胸をなで下ろし、何気なく薔薇に触れる。

 その時だった。


「……っ!」


 指先に、鋭い痛みを感じる。

 見れば、注意せずに触ったせいで、人差し指に棘が突き刺っていた。あっという間に血が筋となって、白い肌を伝っていく。


「イゾルデ、怪我を?」

「……た、大した傷ではありません」

「ダメだよ、よく見せて」


 そう言って、トリスタンはイゾルデの手を取り、丹念に傷口を検めはじめる。


 (わ、睫毛長い……)


 間近で見るトリスタンの顔は、もはや神々しいまでに美しい。

 その様を見つめながら、これなら令嬢達が群がるのも無理はないな、とイゾルデは思った。


「棘が食い込んでいるな……。痛いだろう?」


 まるで自分が怪我をしたような痛ましい表情で、トリスタンは傷口を見つめている。

 だが、そんな彼の姿を見てイゾルデの心を占めるものは、愛される喜びでも、ましてや優越感でもなかった。


 (この人は、何も知らない……)


 その恋心が、魔力によるまやかしに過ぎないということを。

 だから、トリスタンに優しくされるたび、罪の意識にイゾルデの胸は締めつけられる。


「すぐに侍医を呼んでくるよ。だから、イゾルデはここで待っていて」


 優しく微笑み、トリスタンは立ち上がる。

 足早に駆けだしたトリスタンの後ろ姿に、イゾルデは悲鳴を上げたくなった。


 (私には、あなたに優しくされる資格なんてないのに……)


 魔力を解除すれば、トリスタンは正気に戻り、そしてイゾルデを軽蔑するだろう。

 そのことが、イゾルデは何より恐ろしかった。



***



「やあ、イゾルデじゃないか」


 背後からの声に振り向けば、そこには見慣れた男の姿があった。


「……お久しぶりです、マルク様」


 淑女の礼をとるイゾルデを見下ろし、マルクは「ああ」と返した。


「婚約破棄の時以来だな。ところで、何故きみが王宮に?」


 マルクの問いかけに、イゾルデは言葉に詰まった。


 すでに正式な手続きは済んでいるものの、まだトリスタンとイゾルデの婚約は公表されていない。


 (でも、他に私が王宮にいる適当な理由なんて……)


 沈黙するイゾルデに、マルクは無視されたと思ったのか、不愉快そうに鼻を鳴らした。


「……ふん。相変わらず愛想のない女だ」


 冷たい声でそう言い放ち、蔑むような眼差しでマルクはイゾルデを見る。


 (ああ、この人はいつもこうだった)


 かわいげのない女、お前といてもつまらない。

 こちらの話なんて聞こうともせず、一方的な態度でマルクはよくイゾルデを罵った。

 氷を埋め込まれたように、イゾルデの胸の中を冷たいものが満たしていく。


「あのような経緯で婚約破棄をしたのだから気まずいだろうと、こちらから話しかけてやったというのに」


 尊大な話し方も、傲慢さも、何一つ変わっていない。

 それに言い返せない、自分自身も。


「大体、きみには相手への気遣いがないんじゃないか?そんなことだから……」

「やあマルク、僕の婚約者に何か用かな?」


 マルクの言葉を遮った声に、ハッと顔を上げる。

 見れば、侍医を伴ったトリスタンが、マルクの傍らに立っていた。


「……トリスタン殿下」


 マルクは、途端に苦虫を噛み潰したような顔になる。


「こちらにおいでとは気づかず、大変失礼致しました。……ところで、聞き間違いでしょうか。いま、婚約者と?」

「ああ。まだ公には発表していないが、僕はイゾルデ嬢と婚約している」


 間髪入れずに答えたトリスタンは、いつも通り優しげな微笑みを浮かべているが、目の奥が笑っていない。

 トリスタンの言葉に、マルクはしばし衝撃を受けたように瞠目していたが……


「……そう、でしたか。では、邪魔者は退散いたしましょう」


 すぐにいつもの皮肉な笑みを貼り付け、あっさりと身を翻した。

 そして、すれ違いざま、イゾルデにだけ聞こえるような声で囁く。


「……元婚約者のよしみで教えておいてやる。きみがどんな手を使って王子の婚約者に納まったのかは知らないが、彼の本当の想い人はきみじゃない」

「え……?」


 イゾルデが思わず声を上げれば、やはり知らなかったんだな、とマルクは嘲笑う。


「彼は、きみの妹のブランエノワールを婚約者にするつもりだったんだ」



***



「傷が深くないようで良かったよ」


 イゾルデの手を見つめながら、トリスタンは安心したように言った。

 包帯を巻かれた指は、すでに侍医によって棘を取り除かれ、膏薬を塗って手当てされている。


「この白魚のような指に傷痕が残ったりしたら、一大事だからね」


 そう言って、トリスタンは手を伸ばし、イゾルデの手に触れようとして……寸前、イゾルデは、その手を反射的に振り払った。


「イゾルデ……?」


 怪訝そうなトリスタンの表情に、イゾルデの胸はますます苦しくなった。


 (でも、もう逃げてはいけない)


 深呼吸を一つして、イゾルデは口を開いた。


「……トリスタン殿下。私は、あなたにお伝えしなければならない事がございます」


 ブランエノワールの本心は分からないし、そもそも既にブランエノワールはマルクと婚約している。

 だから、今更イゾルデが真実を告白したところで、トリスタンとブランエノワールが結ばれる事はないのかもしれない。


 それでも、とイゾルデは思う。


 ブランエノワールは、自慢の妹だ。

 少し不思議な雰囲気で、たまに突拍子もない言動をとることもあるが、美人で頭もいい。

 少なくとも、魔力で愛を得ようとした姉などより、ずっとトリスタンの相手に相応しいだろう。


「私は、あなたに魅了の魔力を使いました。あの夜会で、私に優しくしてくれたあなたに愛されたくて……」


 瑠璃色の瞳が、驚きに見開かれる。

 イゾルデは、そこにまだ軽蔑の色が浮かんでいない事に安堵し……同時に、そんな自分に嫌気が差した。


 (……バカよね。まだ、どこかで期待して……)


 はじめは、ただ誰かに縋りたいだけだった。

 トリスタンを選んだのも、優しくしてくれたからというだけの筈だった。


 魅了の魔力は、異性だろうが同性だろうが、幼子だろうが老人だろうが虜に出来る。

 気づかれずに魔力を解除する機会はいくらだってあったし、誰かに縋りたいだけなら、他の人間に魔力を使っても良かったのだ。


 それでも、イゾルデはトリスタンから離れられなかった。


 トリスタンが優しかったから、というのは理由の半分だ。

 はじめは純粋な憧れと尊敬だったトリスタンへの感情が、恋に変わっていたのは、いったいいつからだったのか。


 だからこそ、何度もあと少しだけと思っては、ずるずると魔力を解除もせずに、イゾルデはトリスタンの隣を独占し続けた。


 (……でも、せめて最後くらいは、潔くしないと)


 再び深呼吸をすると、イゾルデは顔を上げ、トリスタンに告げる。


「王族に対して魔力を行使した以上、厳罰に処されて然るべきと覚悟しております。ですが、どうか罰は私一人に……」

「ちょっと待って、イゾルデ」


 決死の覚悟で懇願しようとしたイゾルデの言葉を、あっさりとトリスタンが遮る。


「それは、あり得ないよ?」



***



「……この耳飾りには、特別な力があってね。神官が祈りを捧げたミスリルで作られていて、魔力の効果を無効にするんだ」


 七色の光沢を帯びた、不思議な銀色の耳飾り。

 耳朶に着けられた王家の象徴に触れながら、トリスタンはそうイゾルデに語った。


「魔力持ちは珍しいとはいえ、皆無ではないからね。特に、イゾルデのような魅了の魔力持ちが、悪意を持って王族に近づいたりしたら、それこそひとたまりもない」


 トリスタンの言葉に、イゾルデは胸にグサリと刺さるものを感じた。

 他意はないと分かっているが、実際に似たような事をやらかそうとした身としては、耳が痛い事この上ない。


「だから、強い権力と影響力を持つ直系王族は、常にこの耳飾りを身に着けている事が義務になっているんだよ」

「それ、では……」


 そうだよ、とトリスタンは頷く。


「だから、キミを好きになったのは魔力のせいではないし、求婚したのも僕自身の意志だ」

「しかし……私達が初めて出会ったのは、あの夜会だったはず……っ」


 イゾルデが言えば、トリスタンは少し寂しそうに「やっぱり覚えていないんだね」と言った。


「僕達は、あの夜会よりも前に出会っているんだよ」

「え……」

「もう、十年近く前になるかな。ちょうどこの薔薇園できみを見かけて、少しだけ話をしたんだ」


 そう話すトリスタンは、わずかに頬を赤らめている。


「それ以来、僕はずっときみを想っていた。……まあ、だからこそ、きみをマルクに取られてしまったのだけれど」


 そこから、トリスタンはマルクとの過去を語り始めた。


 曰く、トリスタンとマルクは、それぞれ次期国王と次期公爵と目されている存在であり、遠縁で年も近いという事もあって、幼い頃から何かと比べられる事が多かったらしい。


 だが、何事も真面目に取り組むトリスタンと違い、飽きっぽいところのあるマルクは、一度としてトリスタンには勝てなかった。


 それが余程悔しかったらしい、とトリスタンは苦笑する。


「きみがデビュタントした夜会で、マルクは僕がきみを見つめているのに気づいた。そして、僕より先に婚約を申し込んだ……ってわけさ」


 昔からそういうところだけは勘がいい、とトリスタンは苦い顔をする。


「それから数年、まだきみの事を諦めきれずにいた僕は、偶然きみの妹のブランエノワール嬢と夜会で出会ったんだ」


 ブランエノワール、とトリスタンが口にするのを聞いて、イゾルデの胸がざわめく。

 だが、続くトリスタンの言葉は、全く予想外のものだった。


「彼女は、マルクの本性を見抜いていて、マルクがきみを愛していない事にも気づいていた。そうして、僕から経緯を聞いたブランエノワール嬢は、今回の計画を持ち掛けてきた」

「は……?」


 思わず間の抜けた声を出したイゾルデに、トリスタンが笑う。


「ああ、やっぱり、きみは知らなかったんだね。ブランエノワール嬢はきみが大好きなんだよ。自分ではクーデレ?のシスコン?とか言ってたかな」


 今日は、いったい何度驚かされるのだろうか。

 『クーデレ』や『シスコン』の意味は分からないが、ブランエノワールが自分を好いていたなんて初耳だ。嫌われていると思っていた訳ではないが、ブランエノワールは何をするにもそつがなく、いつも一定の距離をとって接してくる事が多かった。


「ブランエノワール嬢の計画は、ごくシンプルなものだった。マルクの興味が僕の想い人であるなら、それを自分にしてしまえばいい、と」


 イゾルデは、もはや驚かなかった。

 ここまで判明してきた事実に比べれば、ブランエノワールの計画が強引すぎる事なんて、驚くほどの事ではない。


「はじめは、僕もそんなことで上手くいくのかと思ったんだけど……。まず、僕はマルクの前で何度かブランエノワール嬢の話をした。そして、そろそろ頃合いだと思ったところで、僕はブランエノワール嬢に婚約を申し込もうと思っている、と言ったんだ」


 そうしたら、本当にブランエノワール嬢の言う通りになったんだ、とトリスタンは言った。


「ですが……ブランエノワールは、これで良かったのでしょうか」


 特別、姉妹仲が良かった訳ではない。

 だが、やはりイゾルデにとってブランエノワールは可愛い妹なのだ。

 自分の幸せのためにブランエノワールが犠牲になってしまったのだとしたら、それを看過する事はできない。


「姉として、私もブランエノワールの幸せを願っております。ブランエノワールが意に沿わぬ結婚をして苦しむような事になっては、申し訳が立ちません」

「うーん……。それは大丈夫じゃないかな」

「どうして、そう言い切れるのですか?」

「だって、マルクがブランエノワール嬢に勝てるイメージが浮かばないし」


 その言葉に、私は二人が並ぶ姿を想像する。

 …………確かに、大丈夫そうだ。


「そういう訳で、婚約は魔力によるものでもないし、他に想い人がいるなんて事もない」


 トリスタンはイゾルデに向き直り、そして真っ直ぐに見つめた。


「僕は、心からイゾルデを愛している」


 それは、ずっと聞きたかった言葉だった。

 何度も、何度も望んだ言葉だった……そのはず、なのに。


「……もしかして、まだ疑ってる?」

「いえ……。ただ、その、どうしても、まだ実感が湧かないのです」


 魔力ではなく、本心からこの人に愛されたいと、何度も心の中で願い、そのたびに叶わぬ願いと諦め続けていた。

 それが、既に叶っていただなんて……とてもではないが、すぐには信じられない。


「……そうか」


 カチャリ、と小さな金属音が響く。


「殿下……!?」


 声を上げるイゾルデに構わず、トリスタンは王族の証でもある耳飾りを外していく。


「これ、持ってて」


 そうして、トリスタンは外した耳飾りをイゾルデの手の平へと落とした。


「この通り、もう魔力を無効化する耳飾りはない。この状態で、きみのありったけの魔力を使って、僕を魅了してみてくれ」

「何を仰るのです!そんなことは……」


 出来ません、と言おうとしたイゾルデを遮り、トリスタンは宣言する。


「不敬に問うたりはしない。カルディア国王太子の名において、約束するよ」


 澄んだ瑠璃の瞳が、真っ直ぐにイゾルデを見つめている。


「絶対に、大丈夫だから」


 トリスタンは微笑みながら、そっとイゾルデの頭を撫でる。

 その声はどこまでも優しく、躊躇うイゾルデの心を勇気づけた。


「……かしこまりました」


 震える手で、イゾルデはトリスタンの手を握る。


 (何が起こるかは分からない。それでも……私を信じてくれたこの人を、私は信じる)


 指先に集中し、ありったけの魔力を注ぐ。

 やがて、全身の力が抜けるような虚脱感と、猛烈なだるさが全身を覆い、イゾルデは魔力が空になった事を悟った。……だが。


「なにも、変わらないだろう?」


 言葉の通り、トリスタンは顔色一つ変わっていなかった。

 イゾルデへの眼差しも、態度も話し方も、何もかもが同じままだ。


「でも、確かに魔力を……。耳飾りも外しているのに、どうして……?」


 そんなの決まっているじゃないか、と言って、トリスタンは笑う。


「そもそも、魅了の魔力があってもなくても、僕はきみの虜だ。だから、たとえ耳飾りがなくても、僕に魅了の魔力はかからないよ」


 多分これからもね、とトリスタンは言って、イゾルデを抱きしめた。


最後まで読んで下さり、ありがとうございます!

ブクマや評価、感想コメントなどを頂けましたら、とても嬉しいです!



【登場人物】


イゾルデ・ハーツイーズ


魅了の魔力を持つ伯爵令嬢。

本人の自覚は薄いが、作り物のように整った容姿の美女。それ故に注目も集めやすく、魔力を使ったと誤解されトラブルになりやすい。

『傾国の令嬢』の渾名を持つ。



トリスタン・カルディア


カルディア国第一王子。

幼い頃にイゾルデと出会っており、それ以来想いを寄せている。

優秀なので何でも出来るが、慢心せずに成長しようとする努力家。



マルク・ティンタジェル


公爵家嫡男。

幼少期から一方的にトリスタンをライバル視しているが、剣術や学問では勝てなかったため、イゾルデを婚約者にした。

結婚後はブランエノワールの手の平で踊らされる事になるが、そんな事は知るよしもない。



ブランエノワール・ハーツイーズ


本編未登場。

実は転生者で、かなりのシスコンでもある。

マルクと婚約し、笑顔の減っていく姉を心配していたところ、トリスタンと知り合って二人の仲を応援する。

マルクの事は、顔が好みなので『それなりに』気に入ってはいるらしい。

単純なマルクを手の平で転がすが、当のマルクの前では猫を被っているため、マルクには『自分にゾッコンの控えめでお淑やかな令嬢』と思われている。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] そもそも魅了を使っているなら婚約破棄されるなんて有り得ないんですよね。 噂だけで人を判断する者のなんと愚かなことかと身につまされます。
[一言] 心優しく、気弱なイゾルテよりも 策略家のブランエノワールの方が 王妃には向いてそうですね(笑)
[良い点] トリスタンとイゾルデですね。意識された名前の組み合わせなのでしょうか。ハッピーエンドでほっこりしましたし、王族の耳飾りの設定もよいですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ