42.ヨークの過去
今回の豆知識
『ドイツのT34のTは重量のtではなくタンクのT』
「オイ、ヨーク」
「はい」
「今、なんつった?」
「なんでも」
「今日助君って言ったよね?理由、聞こうか」
「無理で…」
「命令」
「クソ。もぅわかりましたよ」
「お前の過去に関係があるんなら過去を聞こうか。前から気になってたんだよ」
「勘がいいですね。では言いますよ」
僕は1922年の6月5日に生まれた。家は貧しく服もマトモになかった。
1930年3月9日に親は軍事関連の工場へ就職。当時8歳だった僕は毎日、1人で家にいた。自分の家が火車だと言う事を理解していたため、我が儘もせずに唯一の趣味であった本を毎日何回も読んだ。読んでいたのは中国の西遊記と日本の源氏物語と平家物語と竹取り物語。そのせいでソビエト語より日本語の方が得意だった。
翌年の1931年1月21日、親が5歳の少女を連れて来た。『誘拐?』と聞いたら『違うわ!』とツッコミを受けた。その少女は工場の経営者の隠し子らしく経営者にお金と出世を条件に引き取ったらしい。名前は好きに付けていいと言われたので僕の好きな花『ラフレシア』から取って『ラシア』にした。後にこの事を教えると『兄さんが好きな花の名前で嬉しい。けど臭いのはいやかな?どうして兄さんはラフレシアが好きなの?』と聞かれた。僕は『生態系が僕に似てるからさ』と答えた。それからの毎日は楽しく、自然にラシアは僕の大切な人となった。
1935年4月8日、僕とラシアは軍学校に入れられた。当時僕は13歳、ラシア9歳だった。僕は中等学部で成績がよく、入学試験で全教科満点を叩き出したため私室が与えられたのでラシアは私室で家事をしていた。自分で言いたくはないが運動能力は抜群で勉強も出来る僕は1936年9月22日に日本への留学が決まった。僕は前々から日本に行きたかったので凄く喜んだ。
そして1936年11月4日に日本へと船で向かった。ラシアを連れて。実は留学をする時に身元保証人が必要なため親に無理を言いラシアを連れて身元保証人にしたのだ。幸い事故はなく無事に日本へと辿り着いた。着いた僕達はさっそく驚いた。日露戦争でバルチック艦隊を破ったのでどんな先進国かと思い気やド田舎だった。下手すると僕達が住んでた町よりも田舎だった。案内の人に『ここはどこですか?』と聞いたら『佐世保だよ』と言われた。正直、あり得ないと思った。佐世保と言えば重要なシーレーンの拠点。それがこんな田舎だったとは思えなかったのだ。
それから2年後の1938年3月29日まで民家に住まわせて貰った。その家は両親と息子1人、娘1人の一般的な家庭だった。僕は『どうせ僕達よりいい生活をしているのだろう』と最初は思った。しかしその生活は僕達よりも酷く主食は麦ご飯、悪い時だとおも湯だったし、何もない事もあった。野菜も少なく魚も小さい物だった。贅沢の『ぜ』の字もなかった。僕達が来たときは丁度、悪い時だったが、その家の家族は僕達に麦ご飯を食わせ自分達はおも湯をもっと薄めたもはや水を食べると言うより飲んでいた。最初に麦ご飯を見た時は『これは食料なのか?』と思ったが家族はもっと酷い物を食べていた。本来なら駄々をこねる子供達も『お兄ちゃん、お姉ちゃん。美味しいね』って言って美味しそうに食べていた。僕とラシアは思わず泣いてしまい結局、一切手をつけていない麦ご飯を子供達にあげ、飲み掛けのおも湯のもっと薄いのを飲んだ。両親は謝って来て『子供も命だけは!』と言っていたが僕は『もう僕達は充分贅沢をしました。僕達は我慢をする番です』と言いなんとか説得した。今思えばあの息子は今日助に似ていた。確か名前は昨日助だっけ。そのせいでどうしても今日助の事を昨日助といいかける。…がまた会えたと思えば嬉しい話だ。日本での暮らしは食料の大切さをよく知る体験となった。1度、両親に『なぜそこまで贅沢をしないのか?』と聞いたら『国と天皇陛下のためです』と返された。嘘だと思った。しかし両親の目は真剣だった。絶対王政があったイギリスでさえも家族を守るために戦いがあったと言うのに日本は全くなかったのだ。それほど天皇陛下は信頼されていると実感した。
帰国した僕達はこの事を報告したあと、正式に軍人となりアメリカのスパイとしてアメリカに行けと言われた。
1940年7月6日にアメリカに入国、アメリカ軍の教官として活動しながらスパイ活動を行った。アメリカでの生活は日本とは間逆で人々は私利私欲のために働きご飯は豪華、余り物は捨てていた。流石に勿体ないと思い捨てるご飯…いわゆる残飯を貰い食べているとアメリカ人に『まるで犬だな。ほれ!鳴いてみろ』と言われた。特に気にも止まらなかったため無視をすると今度は殴られ『手が滑った。ごめんよ』と言われた。殴ろうとしたところで日本人を思い出した。日本人はこんな時でも心は広かった事を思い出す。だから僕は『次から気をつけて下さいね』と言うと『あ、あぁ』と言う気の抜けた返事が聞こえた。ちなみに流石に残飯なのでラシアには食わせられないのでラシアは隣で玄米をかじっていた。ラシアに『それでいいのか?』と聞いたら『うん。あの人達の事を忘れないためにね』と明るい返事が聞こえた。泣くかと思った。天使かよコイツ。次の日からアメリカ軍の間では関わると死ぬと言う変な噂が流れたが教官としては都合がいいため、これも無視した。
それから1942年6月2日まで教官を勤め、2日からはミッドウェーの航空隊として働いた。この時はまだ相手が日本だとも思わなかったし日本と戦争していた事も知らなかった。
そして同年6月5日の飛行甲板で僕が空を飛ぶ準備中。この時にラシアが戦闘機に侵入した。僕は気付かず、気付いたの発艦した後だった。しょうが無いため、このまま作戦に参加した。しかし事は起きた。敵空母に接近中、右から左に横から銃弾がすり抜けた。幸い被害はなかったので右旋回して確認するとそこには旭日旗を掲げた軍艦がそこにはあった。後に今日助に教えて貰ったがあれは軽巡長良だった。この時に初めて戦っていたのは日本だと知り絶望した。しかし、ここではラシアのために死んではいけないため空母へと向かった。空母の上の戦闘機を撃ち落とすために。同じく今日助に教えて貰ったがこの空母は赤城だった。だが日本の零戦は中々強くすぐに落とされた。最終的には日本人を殺さなかった事に安堵して海へと衝突、沈んで言った。僕はちょうど20歳、ラシアは16歳だった
「だから俺の事を『今日助君』って言ったんね」
「はい」
「いや~。話してくれてよかった。ちなみに俺のヒイヒイジイチャンの名前は昨日助でロシア人の話をしてたらしいから多分、ソイツだと思うよ」
「はい。ん?え?えぇーーーーー!!!」
いやー長かった。あ!この話はフィクションです。がミッドウェーと食料問題は事実です。これでよし。多分、過去最多だと思うんですよね文字数。疲れました。いつか皆の過去を書きたいですね。最終回まであと少し。気長に行きます。これが終わると次は『異世界に転生したら色々と凄い幸運が続いてしまった。※幸運に頼って戦争参加』とか作りたいですね。前々からある『勉強出来ない組』は3ヵ月に1度くらいの頻度で書かせていただきます。ゆっくり書きたいですから。そのうち放置とかあり得る話です。ではお休み(現在午前1:34)




