ぽかり
彼は、ポカリスエット四八〇ミリリットル缶である。三五〇ミリリットル缶よりも頭一つ背が高いのが密かな自慢だった。四八〇ミリリットル缶は図体 がでかいばかりでヤワなので、すぐに身体が凹んでしまうらしい、などと三五〇ミリリットル缶たちが噂するのが気にはなっていたが、それでも同じ値段で一三 〇ミリリットルお得な自分に誇りを持っていた。
彼は現在自動販売機で暮らしている。生まれた工場に比べたら大分寒い所で、身の締まる思いがした。時折、ガタンッ、と、仲間たちが使命を帯びて外 界に旅立つ音を全身で感じた。感じながら数えた。五、六、七。七まで数えて身体に違和感を覚えた。一瞬訝しんでから、ああ、次は自分の番なのだ、と感覚的 に悟った。
そして、意外とすぐに落下感が訪れた。その瞬間、不意に、工場で缶に注入されてからの記憶が頭の中を駆け巡った。
幼いときは(殺菌のため)熱かった自分も、大人になるにつれ次第に冷めた缶になって行った。一分間に七百五十本というペースで流れる同じような格 好の列の中では、自分だけが特別だと思い込むことすら許されず、やがてはただ目の前の検査に合格することだけを心配するようになっていた。内圧が高い、体 重が重い、軽い、そんな理由で社会に棄てられていく仲間達の姿に怯えながら、既に敷かれたベルトを辿るだけの人生。
そんな彼にある時、転機が訪れた。彼らは出荷前の一週間、検査のため倉庫に保管される。その一週間、彼はダンボールの中で自分を見つめ直してい た。それまでの自分は、検査に落ちないようにと、ただそればかり考えていた。しかし、それでいいのだろうか。このままの心境で、果たして人の口に含まれる 最期の瞬間、自分は後悔せずにいられるだろうか。そう考えると、棄てられていった仲間たちや、今同じ箱の中で静かに佇む兄弟たち、そしてその中にいる自 分、さらには未だ見ぬ自分を口にする相手の姿までもが頭に思い浮かんできた。そうして一週間を経た彼は、自分にできるせめてものこととして、自分を口にす る相手の幸せを願うことにした。また、少しでも自分が美味しくなるようにと祈ることにもした。缶一個の思いなどで何かが変わる理屈もないが、それでも願っ たし祈った。そうすることが、生まれたときから決まっていた自分の勤めのような気さえしていた。
落下の終わる寸前、自動販売機への引っ越しの際に一瞬だけ見えた太陽と青空が鮮烈に思い出された。なぜだかは知らないが。
ガタンッ……。音から推測していた以上の大きな衝撃に、彼は一気に現実に引き戻された。くらくらする頭で周囲を見回す。今まで自分のいたどことも 違った静けさのある窪地。窓から差し込む光がまぶしい。それは初めて見る光景なのに、ひどく懐かしい感じがした。カチャンカチャン、と代金が自動販売機の 腹に落ちる音が聞こえた。
それがきっかけというわけでもないのだが、彼は突如興奮に襲われた。さっきまでの悟ったような気分が複雑にねじれ上がり、天を突くように登りつめた。
彼が自分の気持ちに何の整理もつけられずにいるうちに、窓が押し開けられ腕が差し伸ばされてきた。毛の生えた太い指で、彼は少し怯えた。だがやはり彼の気持ちは考慮されないまま、腕は彼を外界へと引っ張り出した。
そこにいた男は、真昼の光を眩しがる彼の頭を三度撫で、鼻から息を吐いた。んふう。彼は暫らくその意味がわからなかったが、気付いた瞬間、泣きそうになった。彼の頭部近くが少しだけ凹んでいたのである。三五〇ミリリットル缶の噂していたのは本当だったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
借金取りはポカリスエットの缶を持った右手を持ち上げ、額の汗を拭った。
なぜ、借金取りの格好は年中スーツなのだろう、などと考える。考えてすぐに、借金取りもサラリーマンだしな、という答えに至って少し落ち込んだ。ため息を一つ吐く。
今回の取り立て先は、自販機のすぐ目の前。ぼろい安アパートの二階、真ん中の部屋。逃げの手ばかり打つ、なんとも気に食わないフリーターが住んで いる。借り入れ金額は六十万ちょっとなんだから十分働いて返せる金額だろうし、もし今どうしても支払いが難しいというのなら、裁判所に書類の一つも出して くれれば、こっちだって計算機片手に話し合う準備はあるのだ。だというのに、債務者は金は払わない書類は書かない、郵便物まで受け取らないという逃げの姿 勢を見せている。
そういう相手への対応では、選択肢はそう多くはない。
借金取りは債務者の部屋の前に立った。手にはまだ封の開いていないポカリスエット四八〇ミリリットル缶。暑くて買ったのだが、日陰に入ったら思いの外涼しくて、飲むのを忘れていた。このアパートのドアは北向きである。
ともかく、借金取りは扉を叩いた。軽く、優しくノックしたのだ。それに対して、返事どころか物音一つ返ってこない。不在かとも思ったが、扉に設置された郵便受けは綺麗なものだ。夜逃げしたような感じではない。
借金取りは隣の部屋の扉を叩いた。今度の返事は早かった。
「待ってろって、今開けるからー」
そう言いながら、若い、真面目そうな青年が出てきた。彼は借金取りを見ると、気まずげに頭を下げながら、口の中で、どうも、と呟いた。どうやらノックの主を誰かと勘違いしたらしい。借金取りは意識的に何事もなかったような様子を保ち、名刺を取り出した。
「私、こういう者ですが」
名刺に書かれた『○○ファイナンス』の文字を見ると、青年は表情を凍らせた。そしてひどく体調の悪い様子で言葉を発した。
「あの……うちにミカはいませんけど」
予想外の台詞に、借金取りは眉を持ち上げた。借金取りの会おうとしている相手はミカなどという名前ではない。
「いやいやいや、私はお隣にお住まいの山野さんに御用があるんですが」
青年が、呆けた顔をして訊いた。
「ミカ、は、関係ない?」
「ええ。少なくとも私はそのような方は存じませんね」
その言葉が染み渡っていくにつれ、青年の表情に生気が戻ってきた。苦労人なのだろう、と借金取りはまるで事情のわからぬ青年に同情したくなった。
「それで、お隣の山野さんなんですが、ご在宅かどうかわかりませんかね」
「え、ああ。わかりませんね。でもここのところ……三日四日は、ずっと静かなままですけど。人のいる気配はないですけど、でもわかりませんね」
借金取りは礼を言って引き取ろうとした。すると青年が受け取った名刺を返そうとする。借金取りは思わず笑って、名刺を返されてしまった。
借金取りは来た時よりも少し軽い足取りで、債務者の部屋の前に戻った。手にはまだ封の開かないポカリスエット四八〇ミリリットル缶。その缶は床に置かれた。缶を床に置いて両手の開いた借金取りは、扉に付いた郵便受けの蓋を押し開けた。そうして出来た隙間に声を掛ける。
まずは礼儀正しく、次に脅し調を交え、あとは優しく、優しく、優しく。反応はない。いるのかいないのか。とりあえず、このままじゃ差し押さえになっちゃうよ、ということを伝えると、最後に郵便受けに名刺を挟み、その場を立ち去った。
ポカリスエット四八〇ミリリットル缶はその場に置き忘れた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
借金取りが立ち去ると、扉が開き、一人の男が顔を覗かせた。
左右を見回すと外に出て、扉を閉めて、通路に伏せった。このアパート二階通路にある手すりはスチールの棒を立てて横に並べた形で、棒と棒との間には隙間が空いている。通路は外から丸見えと言っていい。そこにノコノコ顔を出す債務者は、変に図太い男だった。
彼は手すりの隙間から下を見下ろして、借金取りが帰る姿を確認しようとしていた。
そこでふと、地面に置かれた缶に気付いた。
表面に汗をかいた、ポカリスエット四八〇ミリリットル缶である。彼はすぐに缶を手に取って、上部をちらっと見、底をじろっと眺め、飲めるらしいことを確認するとプルタブを引いた。飲む気である。その様は無用心を通り越して勇敢にすら見える。
ぷしゅっ、と窒素の漏れる音がして、飲み口から雲が立ち昇る。消えるまで雲を眺めてから、彼はその缶を仰ごうとして、止めた。
足音がする。誰かが、さびの浮いた安っぽいスチール階段を上ってきている。彼は咄嗟に缶を元あった場所に戻すと、扉を静かに開け、静かに飛び込み、静かに閉めた。そうして扉のそばに座り込み、じっと息を潜めた。
缶を置いてきたのは、あの缶が実は借金取りのもので、この足音は借金取りが缶を取りに戻ってきた音なのではないか、と考えたからである。蓋が開い ているけれど、まあ借金取りなんて馬鹿に決まっているのだから、自分で開けたと勘違いしてくれるんじゃないか、なんてことも考えていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
階段を上ってきたのは女だった。階段下で女と借金取りはすれ違っていたが、二人ともお互い自分には何の関係もない相手だろうという認識のもとに、なんの興味も持たずに通り過ぎていた。
そして階段上に着いた女は、缶が捨ててあって汚いなぁと思いながら通路を進み、端から四つ目の扉の前に立った。どんどんどん、と無作法にノックする。
返事のないまま扉が開いた。中から青年が出てくる。青年は扉から顔を出して左右を見回した。ファイナンスの人がいないのを確認すると、ようやく女に向き直った。
そして口を開こうとしたが、それより先に女が言った。
「ねえ、今日どれくらいお金ある?」
その言葉を聞いた青年は深刻な表情を見せた。なあ、言いながら外に出て、後ろ手に扉を閉めた。
「さっき、借金取りの人が来たよ」
青年がそう言うと、女は視線を右上に逸らした。笑顔が笑顔になっていない。
「今、借金はしてないと思うんだけど、多分。でも、どこの人って言ってた? あのー、一応確認するけど、多分、勘違いじゃないかと思うけど」
その反応を見て、青年はひそかに持っていた決心を更に固めた。なあ、ともう一度言う。
「お前、その金遣いなんとかしろよ。じゃなきゃ」
じゃなきゃ……と、長い沈黙が流れた。この空気でも女は何も理解せず、呆けた顔をしている。青年は心苦しく思ったが、それよりも決心が勝った。
「……別れよう、俺たち。俺お前のことは好きだけど、なんかもうそんな状況じゃない気がするんだよ。俺の貯金も……なくなってるしさ」
女は、しばらく黙っていた。頭の中で、自分の愛まで含めた損得勘定を行っている。その頭の中の動きが、青年にはわかってしまう。
「そうやって、俺のことだって財布で計ろうとしてるしさ。なんか見捨てるみたいでやだけど、もう付き合えないよ。俺」
「ちょっと待ってよ。まだ……急にそんなこと言われたって。どうしたらいいか、わかんないし。ちょっと待ってよ」
女は真剣に迷っていた。それを感じ取った青年は、ひとつ大きなため息を吐くと、階段に向かって歩き出した。
「まあ、ちょっと外で話そう」
「え、外って喫茶店とか?」
「喫茶店とか、ファミレスとか」
「奢ってくれるん、だよね」
「お前な!」
「だってお金ないんだもん」
「おっ……いいよ、今日は奢る。今日で最後だ」
最後の言葉はつぶやくように発して、青年は通路をずんずん歩いた。近所迷惑も考えず足音を立てて、築十四年の耐震性能も考えず力強く歩く。足元にあった缶を蹴倒したのも気にせずに。
いや、そのポカリスエット四八〇ミリリットル缶にはなぜか中身が入っていたらしく、それが流れていくのがちょっと気にはなったが、しかし今の彼はわざわざしゃがみ込んでそれを立て直すような心境ではなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
ポカリスエットは流れる。悲劇の旅路だ。通路の端に穿たれた排水溝を進み、やがて排水口から落ちていく。悲劇の落下。その排水口は、ただの穴から水を落とすだけのお粗末なものだった。パイプすらついていない。ばしゃばしゃと流れるポカリスエット。
・・・・・・・・・・・・・・・・
ばしゃばしゃ。借金取りは呆然とした。何事だろう、これは。
借金取りは、アパートの陰で一休みをしてから帰ることにした。そして、近道をしようと思ってアパートの一階部分を横断しようとしたのだ。
ばしゃばしゃ。それがなぜ、極小規模の滝に打たれているのだろう。その答えは、現在持っている情報だけでは得られそうにない。彼は更なる情報を求めて周囲を観察した。
まず、匂いだ。自分に注ぎかかる液体からは、覚えのある匂いがした。何の匂いかはすぐに思い出せた。これは、今頭上から自分に注がれている液体は、ポカリスエットだ。ポカリスエットは意外と甘い。
次に、この事態の因果を考える。そういえば、取り立て先の扉の前にポカリスエットを忘れてきていた。物忘れするとは自分も歳だろうか。まだ二十代だが。
更に因果を考えるため、借金取りは取り立て先の扉を仰ぎ見た。するとそこには、ポカリスエットの缶を持った債務者がいた。人の視線には力があるの だろうか、向こうもこちらを見た。目が合う。その目が自分を馬鹿にしているように、借金取りには感じられた。ヤバッ、という債務者のつぶやきが借金取りに も聞こえ、それが何かの引き金になったのか、借金取りは突如として雄たけびをあげた。
「っめぇ、おいごっ、まっ、そこ動くな、めぇ!」
千葉生まれの神奈川育ちなのに、なかなか標準語が出てこない。でも大丈夫。これ以上は拳が語ってくれるだろう。借金取りは怒涛の勢いで走り出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・
債務者は逃げることにした。
以降、三週間日本全土に渡って二人は鬼ごっこを繰り広げ、最後は佐賀県にあるポカリスエット製造工場でポカリスエットまみれのクライマックスを迎 えることとなる。ついでに言えば、何時の間にか借金取りと真の友情を育んでいた債務者山野は、この事件を機に真人間への更生の道を辿るのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・
青年と女の話し合いは意外とすんなり進行し、階段を下りるまでにほぼ決着を見ていた。
「もう別れるしかないよ」
前を歩く青年が振り返りもせず言うと、
「うーん」
女は難しい顔をしてうなる。だが、否定はしない。もう、別れてもいいかなぁ、とまで思っている。青年も、すんなり決着がつきそうなのが少し悲しかったが、それでもすでに次はどんな女の子と付き合ったらいいか、ということを頭の隅で考え始めていた。
そこに、異様な雄たけびをあげて走る水浸しの男が走ってきた。それは物凄い勢いで二人のそばを通り過ぎると、階段を踏み潰すようにして駆け上がっていった。
青年は呆然として、隣の女と顔を見合わせた。そこで、青年は唖然とした。
女の瞳は充血し、そこからは一筋の涙が流れていた。青年は考えた。いつから自分は振り向いていなかったか。部屋の前からだ。じゃあ彼女はいつから泣いていたのか。わからない。でも今、彼女は泣いている。
青年の胸にこみ上げるものがあった。思わず貰い泣きしそうになるのを堪えながら、女の背中に手を回した。
「ごめん、ごめん俺、金のことなんてどうでもいい。別れようなんて言ってごめんね。やっぱり俺、ミカと一緒にいたい」
・・・・・・・・・・・・・・・・
女は目をこすりたいのも忘れるほど呆気に取られていた。たった今、もう別れると確信していたのに。あの妙なサラリーマンが飛ばした飛沫が目に入っ て、それで、どうしたのだろう。自分が思わず目をつぶってしまったその瞬間に何かあったというのか。まるでわからない。しかしまあ、付き合いたいと言うな ら付き合ってもいいかな、と考えて、青年の背中に手を回すと、うん、と頷いてやった。それから、
「じゃあ、今日の記念にバッグ買って」
と言ったら青年は一瞬身体を硬直させてから、
「まあ……今回は特別だからな」
と言った。
なんだかんだでこの二人は結婚し、にぎやかな家庭を築くのだが、ことあるごとに夫の口から語られ続ける「あのときの涙」の思い出話は、十年後、「あれは目に飛沫が入っただけ」という妻の一言に打ち砕かれることとなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
空き缶となったポカリスエット四八〇ミリリットル缶は、通りすがりの人に空き缶のゴミの日にゴミとして出され、リサイクルという転生の道に放り込まれた。彼はもうポカリスエットではなかったが、生まれ変わったらまたポカリスエットになりたいな、と思っていた。