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伊予の高嶺  作者: 白露
余談
39/40

丙 東国事情

 河野氏とその同盟国が支配する西国の対義語として東国がある。多種多様な大名がこの地を支配しており、その複雑さは整理された西国とは比べものにならない。また、東国は規制の緩さもあってか耶蘇教の普及著しいものであった。天正年間にイエズス会による布教活動はますます盛んとなり、関東奥州の切支丹は逓増していたのである。これを推進したのはルイス・フロイスである。彼はポルトガルより来朝して、当初は河野氏の領国にて布教しようとしたが、それが中絶したため、比較的容易な東国一帯の教化活動に専念するよう方針を転換した。


天正十八年八月


 この月、北条氏の本拠地たる小田原近郊、国府津に聖堂が落成した。「國府津天主堂」と書かれた木製で質素な立て看板の前にフロイスとアレッサンドロ・ヴァリニャーノが屹立して、対話していた。そこに宣教師独特の雰囲気は感じられず、むしろ、ただの老人と中年男が雑談している、ともに南蛮人であるので普通の日本人とは異なるかもしれないが、と見てとれるようであった。

「ずいぶん立派な神の殿堂だ。ヴァリニャーノ君、建設中はご苦労であった。大変だったろう」

フロイスはそういい、ヴァリニャーノの働きを労った。実際、彼が聖堂建設のためにいくら時間と労力を割いたのか、異国の地に巨大建築物を建てるということを考えれば推して知るべしである。

「いえ、すべてはフロイス様のご精勤にてございます」

ヴァリニャーノがそう謙遜するようにいうと、フロイスは、

「ははは、いや、それは過大評価だよ。ここまでついてきてくれた部下らにも感謝せねばな」

といい、そして、

「そして、なによりも、この殿堂にふさわしい主イエス・キリストへの信仰を改めて認識しなければならぬ。心得ているとは思うが……」

と返した。そして、フロイスはしばらく間を置いてから、

「ここまで長かった」

といい、関東に来たときを回顧するのであった。


 あれは天正十年の夏であったか。信長が天下統一の中途で臣下に滅ぼされて、また、嫡男も弑虐されて、織田家中が空中分解したときのことである。当時、フロイスは織田氏に使えており、畿内での布教活動に従事していたが、この事変によりその保護がなくなってしまった。そこでフロイスは、部下たちを連れて東へ、東へと行くのであった。あいにく西は切支丹嫌い、少なくとも肯定的ではない者が大半を占めていて、わずかなる中小勢力では埒が開かなかったためだ。そして、暦の上では秋となる七月二十五日、なんとか小田原城下にたどりつく。深い堀が四方八方に張り巡らしてあり、あたかも城下町全体がひとつの要塞となしているようであった。次のフロイスの言葉は少し語弊があるものの、大筋では間違ってはいなかった。

「城はともかく、ほかの面では畿内のまちや松山と遜色はない」

フロイスはこのまちを治める者を知っていた。その名は北条氏といい、その一族である氏政が当主であった。一族は常陸国と安房国を除く関八州と伊豆を統治しており、その広大なるは他大名より優勢であることは否定できない。ともかく、北条氏は大大名であって、布教の許可をもらうにふさわしい相手であった。そこでフロイスは、

「それでは近いうち、できれば明日にも、氏政様とお会いしたい」

といい、近場の宿に泊まり、フロイス一行は明日の支度をするのであった。


 翌朝、フロイス一行は宿を出て、小田原城へと向かう。城門に着くと、番兵に入らせてくれと頼む。番兵は、あっさり承知して、門を開けて、城のなかに通す。その行動に躊躇の要素がなかったため、フロイスは不思議に思ったが、余計なことをしなくて済んだと思い、入って行くのであった。城の最深部に到達して、氏政のいることを確かめると、一行は入り、フロイスは、

「フロイスと申します。あなた様のお顔を拝見いたして、恐悦至極に存じます」

と慇懃に挨拶したうえで布教の許可を求めた。これに対して、氏政はよろこでいるかのようにこれを認めて、さらに、布教のために使ってほしいといいながら路用を渡すのであった。なぜ氏政はこのような行為をしたのだろうか。それは一言でいえば河野氏の支配する中央政府に対抗して、関東に独自の「国」を打ち建てようとしたからである。ここで「国」をあたかも「日本」から独立したまったく別の政治的共同体と認識してはいけない。どちらかといえば連邦制国家における「州」が当該事項を表すのにふさわしいだろう。そして、その目的が「万民平等にして、平和なる王道楽土の建設……」云々というつもりはないが、少なくとも北条氏は天下争奪戦に関わらない代わりに関東における独自の地位を確保しようとはしていた。安い年貢により領民を慰撫したり、関東各地を転戦したり、などという行動ひとつとってもわかることだ。そこに耶蘇教を受け入れてみればよい。さすれば領民も西国の仏教的価値観から切り離されて、北条氏の権勢はますます強まることであろう、本当にそうかはわからないが、妥当なのは以上の解釈ではなかろうか。


 かくして布教の許可を得たフロイス一行は早速関東各地に教会を建設して、宣教に努めたのである。そして、ヴァリニャーノは宣教活動の一環として日本人司祭・修道士の育成と日本人信者の教化機関をつくろうと決めて、国府津天主堂にセミナリオ(基礎学校)及びコレジオ(学林)を併設して、神学や古典講読を中心に教育を行うことにして、印刷設備や書籍を西国各地より移すことに努めた。当初は数十人の学生を宣教師が副業として教授する形をとっていたが、音楽と体育が導入されるなどの独特の教育が評判になったのか、あるいは、ともかく入学志願者は急増して、学舎を建て増ししたとしても到底追いつかなかった。そこで、ヴァリニャーノが氏政に校地を求めたところ、武蔵国豊多摩郡潮踏之里一帯が払い下げられたため、併設の教育機関は同地に移設して、千人規模の校舎と附属施設の整備がなされた。その後、慶長二年には神学校が増設されて、慶長七年にはこれらをまとめて上智学院と総称することとして、また、校地のある潮踏之里を四谷と改めてることとなるのであった。かつてザビエルがローマ教皇に対して願い出た「日本の首都に神学部、法学部、医学部を含む総合大学を設置すること」は部分的に実現したのである。こうして西国では厳しく規制されて、あまり堂々と表を歩けなかった旧教は東国にて大いなる基盤を築きあげたのであった。ただ、それは財政的あるいは経済的なものであって、信者数の増加は蔵に積まれる金塊や米俵と同様とはゆかなかった。それはキリスト教がただの知識や知的遊戯としてのみ受容されて、大部分の人々にとっては既存の信仰に勝るものがなかったからであろう。


 ところで、先ほど「東国」と申したが、これでは関東の話ばかりで、奥州や北陸を無視している。これは触れねばならぬだろう。奥州といえば伊達氏であり、北陸といえば上杉氏である。どちらも数カ国を治めており、財軍両面で大大名にふさわしい陣容を誇っている。ただ、伊達氏が北条氏のように耶蘇教を受容して、また、太平洋を挟んで隣にある西領メキシコに使節を送ったように、積極的に南蛮諸国との交渉を求めたのに対して、上杉氏は応仁年間とさして変わらない古い型の統治様式と交易を墨守した。


伊達氏の対外政策の代表例といえば、いわゆる慶長遣欧使節である。その目的は主にスペインの通商交渉であった。しかし、なぜ伊達氏はスペインを交渉相手に選んだのだろうか。それはかの国を筆頭とする旧教諸国が、あまり河野氏に好まれなかったためである。それは通家自身が円滑なる統治の障害となると踏んだためであり、また、一部の切支丹大名を除いては通家の考えに追随したためである。だからこそ旧教諸国は東国に照準をあわせており、上智学院などの活動がそのよい証拠であるが、伊達氏もこれらと提携して自らの力を増さんと欲した。そこで、政宗は在日スペイン人を招き、瀬戸内の造船所より大船を発注、使節団の団員を選抜するなど下準備がなされた。慶長十八年九月十五日、使節団は伊達氏累代の支倉六右衛門長経(常長)を正使として、陸奥国牡鹿郡(現在の宮城県石巻市)月ノ浦より出航した。そして、三か月後には西領メキシコのアカプルコに入港して、新大陸を横断した。日本より使節が来たという報はすでにこの地にも届いており、ヌエバ・エスパーニャ副王(メキシコ総督)は彼らを歓迎、艦隊の乗船を許した。使節団は乗せられるがまま大西洋を横断、十一月にはセビリアに到着し、市長の歓待を受けた。年末にはスペイン王国の首都マドリードに入城、国王フェリペ3世に謁見した。常長は国王に書状をわたしたが、そこには政宗自身の署名捺印と花押とともに宣教師の活動を保護するので、通商関係樹立を求める文が連ねてあった。国王も特に問題はないと判断したのか、臣下に相談もせず即断即決した。


 その後、使節団はマドリードを出発、ローマ、マニラなどを経由して仙台に帰還した。これが伊達氏とスペイン間の交流の嚆矢であった。


 慶長六年に造営された青葉城を仰ぐ仙台の城下町は奥州の片田舎のわりには瓦葺きの建物もみえるようにそこそこ発展していたが、なにぶんできたばかりということもあって、あの本能寺の会より十数年が経った程度ではせいぜい生駒程度であった。上杉氏の本拠地たる春日山はそれよりは栄えてはいたが、やはり西国の大都市には及ばない。それに伍するのは小田原くらいであろう。東国は日の本の過半を占めるが、人も物と金も西国に偏っており、それらはどうしようもなかった。


 そもそも振り放みれば、神武天皇は日向国のご出身にして大和国橿原にてご肇国あそばされたが、その過程としてのご東征は西から東へと進む形であった。時代がくだり、頼朝公が幕府を建てたときにおいても東国の開発はそこまで進行していなかった。そして尊氏の折には京のまちに武家政権が戻ってしまった。むかしから文明は支那に近い西側から栄えており、こうなるのも当然のことであった。北条氏や伊達氏の政策はこの風潮をなんとかして取り除き、西国に伍する立派な領国を築こうというものであるが、主軸が変わらない以上、西国の経済的繁栄と政治的優位の崩されることはなく、できるのはそれこそ、対等な立場になる、ということに尽きるのであった。

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