第20話 永禄普請
永禄九年(一五六六)六月の評定にて通家は、勝山に新しく城を建てること、並行してその城下町を整備すること、そして、幹線道路を切り開くことを重臣らに命じた。ここでは一連の事業のことを便宜上永禄普請と総称することにする。三好仕置を終えた河野氏は新領地の慰撫を進めつつ、この種の事業を強力に推進した。
永禄九年七月
評定にて勝山に新しく城を築くことが決定すると、通家は早速重臣らに縄張と城下町の町割を命じた。城の縄張を命じられた房実は、湯築城と湊山城を解体して資材を調達することを前提にかなり大規模な城郭を構想した。城は奥行が深くなるように本丸と二の丸を並列に配置する縄張とした。ふもとの防衛には、外堀として近くにある石手川を活用するとともに、周辺の掘削により内堀や壕の整備を進めることで防御力の強化を図った。一週間後に縄張を終えた房実は、作事を開始した。作事のために大工や職人領国のみならず、上方や九州、中国などさまざまな土地から呼び寄せた。また、木材は領国の山中から、石垣は湯築城のものも流用したとされている。人足には国人衆も利用されて、子供も人夫として参加させ、賃金も支払われた。この普請に加わった者は千三百人をゆうに越えたとされる。工事は日夜通して行われた。房実は、これから収穫を迎えて、冬の寒い時期を迎えるため、また、人夫の勤労意欲を刺激するために、粥の炊き出しなどを行った。房実が大工や人夫に指示を出していると、通家が視察にここを訪れた。通家は到着すると挨拶して、
「順調なようで、大儀である。調子はどうだ」
と房実をねぎらい、進捗状況を尋ねた。
「順調でございます。来年と三年後に一応の区切りがつくでしょう」
房実はこうべを垂れて、そう返した。房実が述べたように、来年までに二の丸が、三年後には凡そ完成する計画であった。房実はしばらく建設中の城をみまわしていたが、そのとき見学している一人の男を発見した。
「あれは何者であるか」
通家が房実に対してそう尋ねると、房実は、
「あれは安宅甚太郎(信康)殿でございます。この度はぜひ御屋形様に奉公いたしたいとのことで」
と返して、と説明した。通家は先の三好征伐の折に、安宅氏には淡路一国安堵を条件に臣従させていた。これは、安宅摂津守冬康の死と三好氏分裂による安宅家中の混乱につけ込んだ形であり、通家も謀反の可能性が高いと警戒していた。しかし、信康の顔を通家はこのときまで失念していた。たしか、勝瑞城にてひれふす信康の姿を見た覚えが、かすかにあるかもしれない、通家はそのような記憶を思い出し、
(はてはて、奉公とはどういうことであろうか)
と思い、しばし考え込んだ。なるほど、安宅氏は河野氏の軍勢が吉野川流域を進軍中に駆け込むように、ぎりぎりのところで寛大な条件のもとで調略に成功して、降伏させたものであり、徹底的に壊滅させた上でそれをしたのではない。加えて安宅氏の治める淡路国は畿内に近いため、戦略的重要性が高い。そうなると、いつ裏切るかわからぬという河野氏の疑心が生まれる。信康かその家臣がそれに感づいたのだろうか、先手を打って、このようなことをして、その疑心というものを少しでもなくそうとしているのだろうか、通家はそう考え、いやはや、賢明である、よくわかっていると思った。
ともあれ、房実の説明に納得した通家は信康に駆け寄り、口上を述べると、
「甚太郎であるか、何用か。普請手伝いするとはきいているが」
といった。これに対して、信康は、
「おお、御屋形様、無論左様のことでございます。この安宅甚太郎、微力ながらお手伝いいたしますぞ」
と返した。これに通家が、
「その奉公、大儀である。大和守の指示に従い、普請を手伝うようにせよ」
と信康の忠義をほめるいいかたをしながら、そう指示を出した。安宅氏の魂胆はともかく、このとにかく時間のかかる築城工事が少しでもはやく終わるのであれば、ありがたいことであった。通家の下知をきいた信康はうなずき、一礼すると、家臣団に指示を出して、その場を去った。それを確認した通家も房実のところに戻った。
房実のところに戻った通家はしばらく工事中の城郭を眺めていた。そうすると房実は息を深く吸った。
「ところで」
大きく呼吸した房実はそういいはじめ、続いて、
「この城の名はいかがしましょうか」
といった。そういわれた通家はしばし思惟したが、
「ここは思いっきって言いやすい名にすべきであろう。本家が末代まで続くよう松の木がしげる山からとって『松山』とすべきであろう」
といった。四季を通じて常緑樹であり樹齢も長いことから長寿の象徴といわれる松の木が生い茂る山、実に縁起のいい名称ではないか、通家は内心、そう思っていた。通家のこの発言に対して、房実は、
「左様でございますか。ではそういたすよう、高札を用意いたしましょう」
といい、新しい城とその城下町の名称を松山とすることを周知するよう指示を出した。これをもってこの城は松山城といい、城下町を松山というようになる。
房実が新しい城の縄張をしているころ、町割を命じられた直昌は、先ず堀を掘って、土塁や石垣を築くよう指示をだすことで、城下町の範囲を確定させるとともに、城下町を三つに区分した。西町と中町、そして東町である。ひとつひとつ詳細を述べると、西町は湊山城とその城下町である三津のまちを組み入れたものであり、東町は湯築城とその城下町を編入したものである。そして、中町は新城のふもとに新しくつくられたまちのことである。これにより二つに分割されていた伊予国の政治経済機能が統合されることになる。西町の機能としては商工業や港湾など筆頭とする交易と町人のための住宅であり、東町のそれは道後温泉を中心とした湯治地と学校であった。そして、城の目前にある中町には行政機関や侍屋敷を置くことになった。付言すると、城下町の外郭に寺院を新設、移設することによって、建ち並べさせ、これにより防御力のさらなる強力を図った。また、城下町には高規格の街道が走るようにし、四国各地からの往来を促進する工夫が施された。
以上の大普請と作事によって、ここら一帯は完了まで建設特需にさらなる活況に呈することとなった。しかし、それは利を求めて外部から商人がさらに進出することで三津の商人連の既得権益が損なわれるおそれがあった。そのために三津の商人連は新兵衛と代表として定期的に対策について審議していた。
「博多、福岡、堺、京とさまざまなところから城下に出店しているようで。放置すれば、拙いことになるぞ」
長老格の商人がそういうと、新兵衛は、
「ええ、その話はすでに承知しております。御屋形様より、私は三津を取り仕切る権利を頂戴したものの、新規出店を妨害するなと厳命されておりますゆえ」
といい、それに反応してほかの商人も各々の意見を出した。全商人が知恵を出し合ってなんとか対策を講じようとはしていたが、なかなか発想が浮かばなかったのである。
このようにして築城と城下町建設は順調に進んだが、通家は城下町建設に加えて、直昌に対して、さらに街道整備を命じた。実は先の評定にて通家は、
「四国一円の交通を促すために広い道を建設するように」
と指示をだしていた。戦よりはましであったが、築城や城下町建設は結構な費用を要する。それに加えて街道整備をするのはそれ相応の理由があったためである。一方は通家が述べたように利便性の高い道路をつくることによる往来の促進であり、もう一方は、兵を迅速に移動させるためであった。幸い河野氏は貧窮しているわけではなかったので、このような事業を行う余裕もあったのである。山中の貧弱な山道を改修、あるいは平野の道を拡幅するなどして整備が進められた。街道は新城下町から勝瑞城に及ぶ、伊予阿波二カ国を結ぶものであった。この街道は平均して七間(十二・七メートル)の確保するという当時としては非常に広い幅員を備えて、極力曲線をなくし、また律令制下の駅伝制を復活させ一定の距離ごとに休憩・補給地点として駅を置くというような工夫がなされていた。これも通家の指示によるもので、大勢の軍勢を一気に畿内に向けて進軍させるための方策であった。この街道整備は人力であるのは当然であるが、なにより難工事であったので、築城や城下町建設よりも時間がかかるもので、直昌も、
「いったいいつ完成することやら」
とぼやくほどであった。
永禄十年三月
この月、山麓にある新しい城の二の丸が完成し、通家は全国から家臣を集め、下知することにした。そして、下知をきくために全国から家臣が二の丸の前に集まった。ひらけた空き地はあっという間に埋まり、建造用の木材や石にぶつからないかと、ひやひやすることもあった。この下知のための舞台が特別に設けられたが、そこには重臣らがすでに坐っており、のこりの侍や足軽、国人衆の頭目の類はその周りで立っているか、地べたか何かを敷いて坐ることなどをしいられた。集まった人は千人にもおよび、喧騒が響きわたっていた。
そのとき、通家が二の丸よりでてきた。それに合わせて馬廻衆の面々が空鉄砲を撃つ。それが幾度となく続いたからだろうか、あれほど騒がしかった者どもはあっというまに黙ってしまった。通家はそれを確認すると、悠々と自らの席に坐った。房実は通家と耳うちしながら諸事項を確かめると、大声で、
「者ども、殿より下知があるゆえ、神妙にいたせ」
と絶叫した。そうすると、通家は立ち上がり、舞台の前の方に仁王立ちした。そして、
「者ども、貴様らのおかげで四国に戦はなくなった。されども、まだまだやらねばならぬことがある。これより、細々としたことを命じるゆえ、よく従うように」
というと、重臣らは、
「御意」
といい、通家は小姓に下知の内容の朗読するよう指示を出した。その下知に従って小姓は朗読する。先ず通家のことをこれまでは「殿」と呼んでいたが、これからは「御屋形様」と呼ぶことにせよ、ということであった。これは河野氏という大名が筋目正しい守護大名の系譜であることを明確にすることで権威を高めるためてあった。長年幕府は河野氏に対して屋形号を与えていなかったが、義輝の頃には与えられていた。では何故このころ合いに臣下に対して屋形号で呼ぶよう命じたのかというと、四国を抑えて、この松山城が一部完成という時分であったためである。新しい城、新しい城、新しい敬称、なにもかも新しくするのにちょうどいい時期であった。続いて、家臣にこの松山の城下町に屋敷を建てて、妻子を住まわせることを命じた。そして、最後には、妻子の面会なども兼ねて一年に一回、登城して通家に挨拶するようにといった。これは家臣の子弟を河野氏に都合のよい「松山風」に染め上げるためであり、また、主従関係を示すための軍事儀礼という側面もあった。小姓が朗読し終わると、通家は、小姓をしりぞかせ、
「以上である。よくよく覚えるように」
といった。そうすると、家臣は瞬く間にひれふした。結構過激な下知であったが、露骨に反発する者はいなかった。
「とはいえ、いつ変心するかもわからぬ。よく気をつけねば」
通家はそう思い、家臣を注意深く観察するように改めて心がけるようにした。
このように四国を支配する河野氏は土木工事に専心できるほどの余裕があった。長年の富国強兵策による経済発展が、それを可能にした。そのころ、畿内では大変なことになっていた。




