第1話 元服
戦国時代ーーそれは津々浦々の武士どもが天下統一に向かい闘争を繰り返した時代。下克上は平然と行われ、いつ裏切られるかも分からぬ時代。民衆は長引く戦乱に苦しむ一方、この機会を生かして利益を得たり、成り上がる者もいた。畿内は応仁の乱以降、騒乱が続いており、細川氏の支配下にあり、三好氏がその簒奪をを謀っていたが、地方は各々自活の方向でそれぞれの伸長を図った。北の蝦夷地では蠣崎氏が安東氏からの独立を画策していた。東国では伊達氏の勢力が徐々に拡大し始め、また、関八州は北条氏の天下であった。甲信越では上杉・武田氏がそれぞれ英傑を擁して信濃の地で戦った。東海では今川氏を始め、織田氏や松平氏などの有力大名家があった。中国は大内氏と尼子氏の間に毛利氏が力をつけ始めていたのである。九州は龍造寺・大友・島津の筑紫三国志とでもいうべき情勢であった。我が四国も例外ではなく、土佐の長宗我部氏という一族が、力を伸ばそうとしていた。四国内の情勢について仔細を述べると、土佐では一条氏が国主として国内を領導しており、阿波や讃岐は概ね三好氏が支配していた。そして伊予国である。この国は今回の舞台たる河野氏を始め、村上氏、宇都宮氏、西園寺氏の諸勢力が割拠していたのである。しかし、そもそも河野氏とは何であろうか。
河野氏ーー戦国期に中予を支配した一族である。一族は孝霊天皇の第三皇子越智王の血を引く越智氏の流れを汲む名家である。三島の跨る村上氏の海賊衆を統率し、そして自ら海賊衆を有する瀬戸内の水軍大名である。そもそも河野氏は越智氏の武将と唐軍の武将の娘の子である越智玉澄を家祖とし、伊予国風早郡(現在の愛媛県松山市、以下愛媛県内の地名は旧国名及び県名省略)の河野郷を出目とした。建武二年(一三三五)には温泉郷に湯築城を築き、伊予国全体の統制を確保した。室町期には幕府より伊予国守護の職を与えられ領国支配の正統性を確保した。だが、有力国人の反乱や予州家(河野宗家の分家)の発展により、河野氏は領国支配を十全に達成できず、困難な時代が続いた。しかし弾正少弼通直の代になると予州家も衰微し、漸く領国支配体制の構築を進めることができた。勃興から河野弾正少弼通直の代までの河野氏の概要は大凡上記の通りである。
さて、通直は不能との噂もあったが、享禄三年(一五三〇)に大友氏より輿入れした正室との間に成功丸、すなわち後の河野通家を授かった。成功丸は傅役の平岡房実や来島通康の薫陶、そして善応寺(松山市、河野氏の菩提寺)の僧より勉学の手ほどきを受け順調に成長した。天文十一年(一五四二)、すなわち成功丸が十二歳の頃には東予の国人衆の反乱鎮定に加わり四人の首を取ることとなり、初陣を飾った。成功丸はまた文芸を好んだが、彼はどちらかというと国文よりもむしろ漢文を好んだ。殊に兵学の金字塔『孫子』を愛読したとされ、幼少期より同書を参考に自ら四国全土を征服するにはどうしたらよいかと思索するほどであった。思索の中で彼は軍備増強には国力増強が必要だと痛感し、部落の民生改善にも気にかけるようになり、対外交易に強い関心を抱くようになったとされている。彼は幾多もの改善や開発の方策を考えたとされているが、検討の末大部分は無理と判断したとされている。成功丸は天文十五年(一五四五)には十五歳となり元服すべき年となった。それではここより話を成功丸の元服より始めようと思う。
天文十五年正月
暦の上では春とはいえ、まだまだ寒い風が吹いていた。
建武二年に築城された湯築城は建武年間(一三三四〜一三三六)に河野通盛により石手川西岸の丘陵に築かれ、周囲に二重の堀と土塁を巡らせていた。そして、その主たる河野弾正少弼通直は城内を慌ただしく駆け巡っていた。それを見ていた平岡大和守房実は諌めるように言った。
「殿、恐れながら左様の如く慌てるように動くのはよろしくないかと存じ上げます」
「いや、大和守すまん。つい足に地がつかなくなってしまった」
通直はそういって軽く陳謝し、自らの油断を戒めた。
「いえ、来月には若殿のご元服にございますからな」
房実がそう弁護するとそれを機として、通直は房実に尋ねた。
「大和守、率直に述べて成功丸は元服後に大成できそうか」
その質問を聞いた房実は小声でこう呟いた。
「私は最善を尽くしました……恐れながら後は若殿のご力量次第かと」
通直は耳を近づけながら聞いた。少し弁明している感もあった。
「予州家の連中も黙らせた。国人衆も従わせている。地ならし程度はできたはずだ」
そう言い放って、通直は房実とともに配下と準備を再開した。
天文十五年二月
ここ伊予国の大山祇神社には成功丸の元服の儀が執り行われた。儀式準備は一ヶ月を費やされ、伊予国守護の嫡男に相応しい舞台が用意された。そもそも本社を管理する大祝氏は河野氏の縁戚であり、そういう観点からみても、誠に元服の儀に相応しき場といえよう。伊予国守護家河野氏の嫡男の元服の儀ということもあってか、重臣の平岡氏、大野氏、来島氏の三氏の家督をはじめ縁戚の大祝氏や能島村上氏の家督も参列した。その他伊予宇都宮氏、南予の西園寺氏等の国人衆もまた参列した。参列した者が一様に考えていたのは成功丸の力量である。重臣にとっては強すぎす弱すぎずが理想であり、国人衆もまた同様であった。
しかし、弱すぎるのは外敵から重臣や国人衆を守れぬのは論外だが、かといって強すぎてはいけないというのはどういう理屈なのだろうか。実はこれは案外簡単な話で、国人衆の自治が侵される危険性があるからである。律令制の中央集権は院政期以降、次第に弛緩した。体制の弛緩は騒乱を招いた。そこで部落は自衛し、これに対抗した。これこそ武士の起こりである。鎌倉・足利の両幕府もこの現状を追認したのである。凡そ四百年間、地方は強力な自治権を有した。国人衆もまた然りである。しかし、応仁の乱が始まると地方は各々の勢力圏にて中央集権化を開始した。中央集権を推進するいわゆる戦国大名と国人衆の対立はこの時代にてよく起きたことである。河野氏はこれまで中央集権化してこなかった。また、現当主の通直もそれには消極的だった。だが、成功丸は嫡男であり、将来の当主である。成功丸は衆目を集めることとなったのは当然であろう。成功丸の動向や態度の如何によって自らの身手振りを再考せねばならぬのだから。
これを察知したか知らずか、成功丸は前乗りし、愚かでもなく、予め準備した形をもってして泰然と元服の儀を行なった。参列客の大半は成功丸の器量をはかることだに困難だったのである。儀式は支障なく進み、烏帽子親の通直は成功丸に元服名「通家」を与えた。これは父通直の偏諱「通」を賜ったものである。その際は通直はこう述べた。
「さて、お前に新しい名、弾正少弼より偏諱を加え『通家』を与える」
「はい、父上のご寛容に謝します。私成功丸は改めて河野通家と称したく存じ上げます」
成功丸改め通家は恭しく口上を述べた。通直は続いてこう述べた。
「またこの度の元服に伴い、朝廷より従五位下伊予守を賜った。ありがたくして受けよ……官位については後日、京にて御叙任の儀が行われる。従って、そのうち京に行ってもらう」
「了解致しました」
通家は礼をし、感謝を示した。
「これにて河野伊予守通家の元服の儀を終える」
そういって通直はさっさと部屋を出で、宴会の場に向かっていってしまった。
宴会場にはすでに酒や肴などが用意されていた。
「この宴会は無礼講である。共に左衛門佐の元服を祝おうではないか」
重臣らが続々と通家に駆け寄った。通家はまず傅役の平岡房実に話かけた。
「今まで修練し、この元服式を無事に終えられたのは爺のお陰だ。感謝する」
「いえいえ、滅相ございません。実に若君の御才によるものでございまする」
続いて通家は村上出雲守通康に声をかけた。房実が行政面で河野氏を支えているのに対して通康は海賊衆を率いて軍事面で河野氏を支えている。
「出雲守殿、本家の盛衰はそちにかかっている。ただ、頑張ってくれ」
通家は、ただそう言った。
「はっ、滅相ございません」
通康は、恐縮した面持ちで通家の額を凝視した。
「うむ、頼んだぞ」
こう言い放った後、通家は最後に大野山城守直昌を呼んだ。
「山城守殿、私は若輩者だ。お主の能力で本家を盛り立ててくれ」
「当然。若殿によろしくお願い申し上げたい」
通家が重鎮らと会話を交わし、その後も通家は次々と賓客と面談した。
その時、小姓はそっと通家に耳打ちした。
「若殿、殿様より部屋に来るよう仰せつかっております」
通家はただ一言「あい分かった」というのみでいって、一礼し、その場を離れた。
重鎮らは通家が消えたのを確認とすると、皆、緊張から解放された。
「率直に述べよ。若殿はどうであったか」
房実は会場の賓客に対してそう質疑した。賓客らは適当に返しつつ、房実に聞かれないよう互いに耳打ちした。
「若殿は、少なくとも正常のようだ」
「いや、それどころか、むしろ上手の範疇かもしれぬ」
「現状維持ならともかく、我々の権益を侵してきたら厄介ですな」
「海賊衆を纏め上げることができればこの国も大いに伸長できるかもしれぬ」
「まあ、そのときはそのときさ」
「適切の対応を取ればよかろう。わざわざめくらになることもあるまい」
このような会話が半刻ほど続いたが、全く生産的ではなく、畢竟無意味も同然だった。
社内に設けられた陣屋の一室に通直は茶を飲みながら通家のことを待っていた。
通家が、障子を開ける。
「父上、失礼致します」
「よい、そこに坐れ」
「はい、失礼致します」
通家は周りを一瞥し、座った。
「父上、この度私めをお呼びになったのは如何なる件でしょうか」
通家はこう述べている間すら訝った。どのような用件なのであろうか。
「うむ、そうだな……お前は元服した、すなわち当主になる資格を得たということになる。しかし、行政経験や軍功は不十分だ。私はお前には期待している、それらを得るためにはマズ何らかの地位を与えるべきだと考えたのだ……つまりお前を湊山城主に任じる」
通直は諭すように通家に説いた。
「湊山といいますと……我が海賊衆の座すところでございますか」
通家はそう呟いた。
「その通りだ。海賊衆を十分統制すれば伊予統一は一気に近くなる。無論目的はそれだけではないぞ。お前なら分かっていると思うが、どうだろうか」
通直は通家に対してそのように発問した。
「本城下への外港にして交易の要衝……実に当家にとって要港でございます。海賊衆を取り纏めるのみならず、交易の伸長を図り当家の金子確保を進めるのですな」
通家は思惟した様子で、そう返した。通直が通家を湊山城主に任じたのは海賊衆をはじめとする自立傾向にある家臣団の統制に加えて要港たる三津(現松山市三津浜)の港口に聳える湊山城より交易の伸長を図ることであった。そこは丁度堺と博多の中間地点にあり、施政次第では有力な貿易港になることが期待されていたのである。もっとも、村上氏の既得権益を侵害するおそれはあっただろうが。
「そうだ、その通りだ。理解できたのならば問題はなかろう。傅役の大和守殿をしばらく陪臣とする」
通直はそう宣言した後、戒めるようにこう述べた。
「よいか、何度も述べたと思うがこの世は修羅の世である。何人も助けてはくれぬ。ただ自らの努力と運のみにより切り開かれるのだ」
通家は、分かるようで分からなかった。ともかくなにか返答せねば。
「はい、実は……」
「それから、お前もそろそろ妻が必要だな。一通り候補はあるから適当に選んでくれ」
通直は通家の話を遮り、思い出したかのようにいった。
「よろしいのでしょうか」
「かまん。一長一短でな。お前の考えもあるだろう、任せようではないか」
通家は通直が鷹揚な態度をとっていると感じた。
「了解致しました。失礼致します」
通家はそういって部屋を出て、小姓らとともに一路湯築城に向かった。小姓の一人は移動中、通家が何か独り言を呟いていたことに気づいていたが、直ぐなかったことにして主君とともに鳥居をくぐった。
社の外はこの時分にしては珍しく燦々と太陽が照り輝いていた。