3-2
あれは六年前のことだった。
双樹はまだ九歳。
学校から帰ると、両親と共に住んでいた広い邸の中はがらんとしていた。
『え? なんで? 今日のおやつは寒天ゼリーって聞いていたから、楽しみにしていたのに。おやつ、どこにあるんだろ』
台所に向かったが、料理人もいないし、窓から外を見ても庭師の姿も見えない。
この時間なら庭の木の枝を、大きなハサミでチョキンと切っているのに。
居間に向かうと、床の上にほこりが舞っているだけだった。
父がヨーロッパから取り寄せた彫刻や家具が、すべて運び出されてしまっている。
『どういうこと?』
双樹はかばんを下ろして、家の中を走り回った。
どの部屋も家具がなくて空っぽだ。
居間の暖炉の上の壁に、白く四角い跡が残っている。
確かそこには、母が好きな花の絵が飾ってあったはずだ。
『ずっと絵があったから、ここだけ壁が日に焼けてないんだ』
もしかして趣味が変わったから、家具や絵をすべて新しいものに変えるのかな?
父さまったら、すぐに思いつきで動くんだから。
『うん、きっと今ごろお店をまわってるんだよ。いや、父さまのことだから直に上海に買いつけに行くとかいって、船に乗るために港に行っていたりして』
せっかちだなぁ。
くくっと双樹は肩を揺らして笑った。
でも今、一番の問題はおやつがないことだ。
ジェリー、買ってきてくれるかなぁ?
ふと足下の床に封筒が落ちているのに気づいた。
宛名は『双樹へ』となっている。
『まさかお金が入ってるとか。もうっ、使用人まで買いつけに連れていってるから、おやつは自分で買いなさいってことだったら、怒るよ』
ぷうっと頬をふくらませて、双樹は封筒から手紙を取りだして目を走らせた。
――どうか強く生きておくれ。
床がぐらりと揺れた気がした。
地震かと思ったが、双樹自身がふらついただけだった。
けれど双樹のいる世界は、あまりにもあっけなく崩れ落ちた。
最後まで息子に何も気づかせずに、両親は消えてしまった。
にこやかな父と母が悩んでいることも。
彼らの笑顔が、少し力を加えたら壊れてしまう薄い氷の仮面でできているとも知らぬままに。
十五歳になった今では、小さな子どもに心配をかけたくなくて明るくふるまっていた両親の気持ちも分からないではない。
でも、それなら息子がたった一人で残されてしまうことを、父も母も絶望と思わなかったのだろうか。
家を出ていく時、双樹は涙すら流さなかった。
豪華な家もお金も要らない。
ただ家族がほしい。寄り添ってくれる人がほしい。
お願いだから、誰か一緒にいて。
心の中の悲鳴を決して口には出さない幼い双樹のことを、父の会社で働いていたという人達が見送ってくれた。
会社のことも、そこで働いていた人のことも、双樹はよく覚えていない。
『これまで父さまのこと、ありがとうございました』
でも、せめて礼儀だけでもしっかりしよう。
深町の子なのだから、みっともない姿は会社の人には見せないでおこう。
双樹は頭を下げて、住み慣れた家を後にした。
皆には、親戚に引き取ってもらうのだと、嘘をついて。
会社の人達が今にも泣きそうに、口を手で押さえていたのは覚えている。
『双樹さま。この家をお守りいたしますから、きっと』
そんな風に言ってくれた社員もいたが、深町の邸は結局人手に渡ってしまった。
着替えの服と身の回りの品を詰めただけの風呂敷包みを一つ持って、双樹は公園の木の下で暮らしはじめた。
笹生と出会うその日まで。
「なんで? ここが鶴原って人の家なのか。本当に?」
「あたしがあんたに嘘をついて、なんの得があるっていうのさ。いいかい、とにかくしっかりするんだよ」
蘭花に肩を支えられて初めて、双樹は自分がふらついていたことに気づいた。
見上げるほどに大きく立派な建物。
白い壁に、ギリシャ神殿のような柱。
庭は広く、眼下には浜潟町と海が見下ろせる。
洋風建築なのに、庭には鯉を飼うための池がある。
応対に現れたのは、眼鏡をかけて黒髪を後ろになでつけた使用人だった。
双樹は深呼吸して、意識をはっきりさせた。
「あの、弟が。いえ、深町笹生という九歳の少年を見かけなかったでしょうか」
「存じ上げませんが」
主が不在なので、と使用人は頭を下げた。
「あたしら、ここんちの坊ちゃんが行方知れずっていう貼り紙を見たんだけどねぇ」
「うちの坊ちゃまは、とうにお戻りになりました。そちらは深町笹生さま、当家の坊ちゃんは鶴原讃央さま。どう考えても、別人でございましょう」
双樹は唇を噛んだ。讃央が笹生だとどう伝えればいいんだ。
「用がお済みでしたら、お引き取り願えますか」
「まぁ、そう慌てることはないさね。どうだい、あんたも五条蘭花の薬の効能は知ってるだろ? 旦那さんに勧めてみちゃくれないかね」
急に商売っけを出した蘭花に、双樹はぎょっとした。
どこまで金が好きなんだ、この人は。
「師匠。今はそんな場合じゃ」
着物の袂をつかむ双樹の手を、蘭花はふり払う。
「……どんな薬でもありますか」
眼鏡の奥の瞳が、鋭くなる。
まるで睨みつけるほどに強い瞳で、まずは蘭花を、そして双樹をじっと見据える。
思い出した、この人だ。
髪型が違うから、すぐには分からなかったけれど。
人捜しの紙を貼り、くちなしの花を全部つんでくれた。
「ああ、たいがいのモンは揃うよ」
それならば、と使用人は身を乗りだして、蘭花の耳元に口を寄せた。
微かに動く唇。
何を告げたのか、双樹には声は届かなかったけれど。
蘭花は驚きに目を開いた。
「あんた……」
「お手伝いしてくださいますよね」
そう告げると、双樹達の眼前で邸の扉は閉められた。