3-1
ここはどこ? 確かかどわかされたんじゃなかったっけ?
笹生は大きな椅子に、ちんまりと座っていた。
いつものすりきれた着物ではなく、身につけているのは洋服だ。
それも襟と袖にひらひらのフリルがついた白いブラウスに、ひざより少し長い細身のズボン。
「よく戻って来てくれたな。讃央」
ぽっちゃりとしたおじさんに言われても、なんて答えていいのか分からない。
それにしたって、なんて広いんだろう。
この部屋だけで、長屋が入ってしまいそうなくらいだ。
笹生は居心地が悪くて、もぞもぞと膝をこすりあわせた。
「なんだ、寒いのかね。早瀬、ひざかけを持ってきてくれんか」
金色の取っ手のついた扉の前で、背広姿の青年が頭を下げる。
「あー、あんた。ぼくを連れてきた人だ。早く兄ちゃんのところに帰してよ」
笹生は立ち上がって、早瀬を指さした。
早瀬は動じることもなく、暖炉の近くにある西洋のたんすから、水色のひざかけを取りだして笹生に手渡した。
いらないとはねつけようとしたのに、あまりの触り心地のよさに驚いてしまう。
「お兄さまにはすぐに会えますよ」
笹生の耳元で、早瀬はこっそりとささやいた。
どういうこと? 兄ちゃんもここに招かれるってこと?
でも、いくら早瀬さんの背が高くたって、兄ちゃんを袋につっこんで抱えてくるのは無理だと思うけど。
(兄ちゃん、もう家に帰ってるかな。ぼくがいないのを知ったら心配するだろうな)
ひざかけを抱きしめて、笹生は椅子に力なく腰を下ろす。
「そうだ。讃央、腹が減ってはおらぬか?」
「減ってないよ。おじさん」
「笹生さま。鶴原さまのことは、お父さまとお呼びくださいませ」
早瀬さんは変なことを言う。
こんな初めて出会ったおじさんが父ちゃんのはずがない。
「好きなものがあれば、持ってこさせるぞ。何がいい? フランスから取り寄せたビスケットやチョコレート、長崎のカステラなんかどうだね?」
「……ラムネ」
「ん? なんといったかな?」
「ううん、なんでもない」
後ずさった笹生は、体を椅子の背にぴったりとつけた。
「おじさ……えっと、鶴原さん」
「笹生さま。お父さま、と」
「構わぬ、早瀬。讃央とは三歳の時から会っておらぬのだ。数え年でもう十歳。すぐに父と呼べぬのも仕方なかろう。それにしてもよう見つけてくれた。さっそく家庭教師の手配をせねばな」
「その件に関しましては、お任せください」
うやうやしく礼をする早瀬に連れられて、笹生は居間を出た。
案内された子ども部屋の窓辺には、机や本棚が置かれている。
家具は全部、木製の淡い色で統一されていた。
ベッドに置かれた布団も枕も、雲みたいにふわふわして見える。
誰が彫ったものか、柱には短い線が何本も刻まれている。
一番上の線の高さは、ちょうど笹生の頭くらいだ。
早瀬はその柱を眺めて、目を細めた。
「ぼく、帰る」
扉へと小走りに向かう笹生を追い越して、早瀬が取っ手に手をかけた。
「大丈夫。自分で開けられるよ」
けれど早瀬は取っ手を動かそうとはしない。
笹生はようやく扉を開けてくれるためではなく、開けさせないために早瀬が動いたのだと気づいた。
「こちらでお待ちいただければ、お兄さまに会えますよ」
「でも鶴原さんは、そんなことを一言も言ってなかったよ」
「笹生さまは、なにも案ずることはないのです。深町家の方々は、このような邸でお暮らしになることが、正しいありようなのですから」
早瀬の言葉は耳に優しい。
シショーがくれた童話の中に出てくる、よい魔法使いみたいだ。
でもよい魔法使いは、子どもを布袋に詰め込んで運んだりしたっけ?
笹生の頭の中で、カンカンカンと火事の時に聞こえるような警鐘が鳴った。
本当にこの人を信じていいの?
◇◇◇
双樹は、石畳の道を駆け回った。
ずっと走っているので、膝ががくがくする。
草履がすり減り、鼻緒が指の間に食いこんで痛む。
それでもすぐに足を踏みだした。
「笹生ーっ。兄ちゃんだぞ。返事をしてくれっ」
汗のしずくが落ちた道に、たった一つの影が長く伸びている。
いつもは隣に小さな影が寄り添っていた。
一人がこんなにも寂しいなんて、ずっと忘れていた。
(どうしよう。笹生が命の危険にさらされていたら)
ーー子肝取り。
その言葉が脳裏をよぎり、双樹はごくりと唾を飲みこんだ。
「ああ、もう。陰気な顔をおしでないよ。あたしゃ、今から鶴原ん家に行くけど、あんたもついて来な」
乱れた髪を直しながら、蘭花が声をかけてくる。
「鶴原。そんなお客さんいましたっけ」
「……いないね。でも鶴原讃央。その名を覚えちゃいないかい」
ささおという名に、一瞬、心臓をわしづかみにされたような気がした。
胸を突き破りそうなほどに動悸が激しい。
行くよ、と声をかけて蘭花が歩きだす。
前を進む、金糸で獅子の刺繍がほどこされた帯がかすんで見える。
双樹が一歩を踏みだすごとに、石造りの洋館が並んだ街並みが、黒に沈んだり白に染まったりする。
(笹生。兄ちゃんが今、行くからな)
俺は、兄ちゃんでいいんだよな。