2-4
「姉さん、姉さんっ」
まだ浜潟町に入ってもいないのに、双樹には桜花の声が聞こえた。
双樹と蘭花は顔を見合わせた。
切羽詰まった妹の声に、蘭花の顔が青くなる。
「行きましょう、師匠。きっと何かあったんだ」
背負子を担いだ双樹は、蘭花を促した。
脚絆をはいている双樹の走りは速いが、蘭花は着物の裾が足にまとわりついて走りにくそうだ。
「先に行っておくれ。桜花を頼んだよ」
双樹はうなずくと、背負子を地面に置いて走り出した。
「あたしもすぐに行く。万が一にもあの子が傷つくようなことがあったら、あたしは……」
悲愴な蘭花の声が、双樹の背中に届いた。
「桜花さん!」
浜風にさらされて色あせた壁にすがりながら、桜花はよろよろと歩いていた。
美しい着物は、着くずれてしまっている。
全力で走ってきた双樹の顔から、汗がしたたり落ちた。
しばらくたって、ようやく蘭花が追いついた。
高価な薬が入っている背負子は、道に置きっぱなしのようで、手ぶらだ。
「桜花。どうしたっていうんだい。なんで勝手に出歩いたりしたんだ、杖も持ってやしないじゃないか」
きっと何度も転んだのだろう。
桜花の顔は、土でひどく汚れてしまっている。
「教えて姉さん。どうすればいいの?」
桜花は髪をふり乱して、蘭花にすがりついた。
「笹生くんが。いなくなってしまったの。さらわれてしまったの」
「なんだって!」
叫んだのは双樹だった。
その声の大きさに、桜花はびくりと身をすくませる。
蘭花は妹の体を支え、双樹に静かにしろと目で訴えた。
「ごめんなさい。双樹さん。私がしっかりしていれば」
「どうして? 少しくらいは阻止できたんじゃないですか?
大声を出せば、周囲に知らせることもできますよね。なんで笹生を見捨てたんですか? なんで見捨てられるんですか?」
思わず桜花に掴みかかってしまいそうになり、双樹は左手で、自分の右腕を押さえた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
桜花は今にも泣きだしそうに、顔をゆがめた。
「桜花の責任ではないぞ」
「俺は笹生を捜します。こっちの方角で合っているんですね」
双樹は、師匠の言葉を無視した。
「え、ええ。双樹さん、私も行くわ」
「俺一人で充分です。その方が早い」
「でも……」
「来ないでください! 来てほしくないんだ!」
双樹は、拳を電柱に叩きつけた。
激しく、何度も。
その鈍い音に、桜花の唇がわななく。
「桜花、警察へ行こうじゃないか。分かる範囲でいいから、状況を話してくれるね」
蘭花に促されても、桜花は返事はおろか、うなずくことすらできないでいる。
ただ呆然と座りこんでいるだけだ。
笹生のことで頭がいっぱいの双樹は、そんな桜花の様子に気づくことすらできなかった。
走りだそうとした双樹の肩を、蘭花の手が掴んだ。
「捜すあてはあるのかい」
「あるわけないですよ。でも、待っていれば帰ってくるわけじゃない」
「やみくもに走っても、よほどの幸運に恵まれなきゃ見つかりゃしない。ほんのささいな手掛かりでも見落としちゃいけないよ」
手掛かりといわれても、どこにそんなものがあるんだ。
「あの……これが落ちていたの。笹生くんの持ち物かどうかは分からないんだけど」
急に思い出したのか、桜花が震える手で懐から封筒を取り出した。
涙を目に浮かべ、双樹の顔を見ることすらできないでいる。
呆然とする双樹の隣で、蘭花がまじまじと封筒の表と裏を凝視した。
「この名前」
差出し人を確認した蘭花は、言葉を詰まらせた。
「どういうことだい。おかしいじゃないか。なんでこの人達から手紙が。差出し人の住所は北海道となっちゃいるが、なんでこんな適当な住所なんだい。北海道三丁目って。行ったことのないあたしでも、ありえないって分かるよ。それに消印はこの近所じゃないか」
「いいんです。放っておいてください」
双樹は封筒をひったくった。
封筒に付着していた土が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
きっと蘭花は気づいている。
封筒の文字が、薬の売り上げを書きつけている帳面の字と同じであることを。
「まぁ、別にいい。あたしらが来た道を戻ると、岡方町の方さね。あの貼り紙に書かれていた住所の辺りだ。笹生をさらった犯人もそっちへ逃げたようだねぇ」
蘭花は急に話題を変えた。
「貼り紙に書かれていた捜し人の名は『つるはら ささお』となっていたね」
「何を言ってるんですか、師匠。『つるはら さぬおう』でしょう?」
「讃は『ささ』とも読むし、央は『お』と読めるんだよ」
双樹は目を見開いた。
笹生と初めて出会ったのが岡方町だ。
しかもあの子は自分のことを『ささお』と名乗りはしたけれど、漢字までは知らなかった。
笹生という字をあてたのは、双樹だ。
まさか今更になって、笹生を捜しにきたとでも?
この六年間、兄弟として暮らしてきた。
誰も疑うこともなく、家族をやってこれたんだ。
双樹は封筒を握りしめて、かつて住んでいた岡方町へ向かって駆けだした。