2-3
笹生は長屋の前に座りこんで、両親からの手紙を読み返していた。
双樹は蘭花と一緒に薬草の仕入れに行っている。
桜花は琵琶の練習をしているのか、きれいな音色が聞こえてくる。
笹生は、ちらっと物置代わりになっている部屋を眺めた。
太い棒のかんぬきが、かけられた入り口。
無人の室内にはいろんな薬草がつみあげられている。
ぜったいに入っちゃいけないと、きつく蘭花から言い聞かせられているから。
中を見たことはないけれど。
立ち上がった笹生は、人の気配のない部屋の前に立つ。
「笹生くん? どうしたの?」
窓の内側から桜花が顔を出したので、手紙を落としてしまった。
「ち、違うよ。薬のお部屋には行ってないよ」
「そう? それならいいんだけど」
桜花は、笹生が薬の部屋に向かう気配を感じると、すぐに様子を確認する。
(あー、びっくりした)
拾い上げた手紙が、ばさばさと強い風にあおられる。
笹生はもう一度、自宅の前に座って手紙を読みはじめた。
「父ちゃんたちが住んでるところって、船に乗らなきゃ着かないって兄ちゃんが言ってたよね。それに地平線が見えるって」
浜潟町は長屋や小屋が密集していて、空さえも狭い。
どこまでも広がる平原。本当にそんな場所があるんだろうか。
道を吹きぬける風が、笹生の手から便箋を奪った。
「あっ、また。待ってって」
笹生が小さい時から、両親は各地を転々として暮らしているから。
実は顔を合わせたこともない。
仕事が忙しいから会えなくてもしょうがないと、双樹は言うけれど。
(兄ちゃんは、父ちゃんと母ちゃんの顔を覚えてても、ぼくは全然知らないんだもん。会ってみたいなー、いつ帰ってこられるんだろう)
月に一度、必ず送られてくる手紙は、笹生と両親を唯一つなぐものだ。
「あー、そこの人。拾ってー」
道の真ん中に立つ男性に、笹生は手をふって声をかける。
黒っぽい背広と、きれいに磨きあげられた革靴。
ふちが銀色の眼鏡をかけ、その奥の目は切れ長だ。
男性は腰をかがめて、二枚の便箋を手にした。
「ありがとう。よかったぁ、なくさなくて。大事なものなんだ」
「それは何よりですね」
見た目の冷たさとは反対に、男性は温厚そうに微笑みながら手紙を返してくれる。
「あれ? 手を怪我してるよ。痛い?」
「これですか。ずいぶんと古い傷ですから、平気ですよ」
笹生は双樹に怪我させたことを思い出した。
傷はもうふさがっていたが、ごみ箱に捨てられた赤黒く血のこびりついた布が目に入るたびに、苦しい気持ちになったのだ。
「くちなしが咲くたびに、あの方はすべて摘んでおられたんですね」
「くちなしって、家に持って帰ると火事になっちゃう花?」
男性の独り言に、笹生は思わず応じた。
「火事ですか? それは彼岸花のことでは」
「彼岸花って、秋に咲く赤い花のこと?」
「そうですよ。誰がそんな嘘を、あなたに教えたのですか」
兄ちゃんだって言うことはできなかった。きっと勘違いしていたんだ。
笹生は、封筒に便箋を押しこもうとした。
なんだか見られている気がして顔を上げると、眼鏡の男性が封筒を凝視していた。
「差出し人の名前が……深町信二に響子、と」
「あ、これ? 父ちゃんと母ちゃんだよ」
とたんに、男性が目を見開いた。
まるで幽霊でも見たかのように動きを止めて、顔が真っ青だ。
「あなたのお兄さまは、深町双樹さんですよね」
「うん。なんで兄ちゃんのことを知ってるの? あ、分かったぁ。薬のお客さんだね」
「え、ええ。何度か五条の薬を買ったことがあります。私は早瀬と申します」
失礼、と前置きしてから早瀬は、笹生から封筒を受け取った。
裏返して差し出し人を確認し、今度は表の切手をまじまじと見つめる。
「住所は北海道」
「そうだよ。きたうみみちじゃないよ」
中指で眼鏡のずれを直しながら、早瀬は眉間にしわを寄せてまぶたを閉じた。
「残念ながら、その手紙は北海道から来たものではありませんね」
「え、なんで?」
「もしかすると北海道で書いたものを、こちらで投函……郵便ポストに入れたものか。あるいは他人がご両親になりすまして、書いた偽の手紙かもしれません」
笹生は言葉を失った。
ただ瞬きをくり返して、目の前の早瀬を見上げるだけだ。
「納得できないのも無理ありませんね。ほら、ごらんなさい。切手の上に消印が押してあるでしょう」
「消印?」
ようやく絞り出した声は、妙に上ずっていた。
「どこの郵便局から、いつ出したものか分かるように押されるハンコです。切手の再利用を防ぐためのものですが。この切手の消印は隣町の郵便局となっていますね」
何が言いたいんだろう、この人は。
まるで可哀相な子を眺めるみたいに、早瀬が笹生を見ている。
「この六年間、お捜ししましたよ。笹生さま」
革の鞄から、早瀬が大きな麻袋を取り出す。
笹生は反射的に走りだした。
だが強い力で手首を握られ、逃れることができない。
「いやだっ、はなせー。兄ちゃん、兄ちゃーん」
力の限り叫んだ時、がらりと長屋の戸が開く音を聞いた。
「笹生くん。どうしたの?」
玄関の戸にもたれるようにしながら、桜花が外に出てくる。
「桜花姉ちゃん。助けてーっ」
必死でもがくと、笹生の手から封筒が落ちていった。
「無駄ですよ。五条蘭花の妹はここまでまっすぐ走ることも、私を追いかけることも、ましてや私の顔や特徴を誰かに伝えることもできないはずです」
目の粗い袋に体ごと詰め込まれた笹生は、何も見えぬ状態で横抱きにされた。
体が激しく上下する。
口を開いたりしたら、舌を噛んでしまいそうだ。
おかしい、こんなの。ありえない。
だって、兄ちゃんにも桜花姉ちゃんにも、もう心配をかけないって誓ったのに。
――また神隠しがあったんだぞ。
いつかの双樹の言葉が、ずきずきと痛む頭に浮かんだ。