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「ちょいと双樹。あたしゃ、桜花を送っていくからね」
戸が乱暴にがらりと開いたと思うと、蘭花が顔をのぞかせた。
彼女の肩越しに、しっとりとした様子で桜花が立っている。
梅雨の合間の青空を背にした桜花は、彼女自身が満開の花を咲かせた、しなやかな若木のようだ。
有名な呉服店で、蘭花が仕立てさせたという桜花の着物は、白い夏椿の模様があでやかで。
見とれるほどに美しい。
ケチな蘭花にしては豪勢なことだが。
そのおかげか、桜花はとうてい貧乏長屋暮らしには見えない。
「あんまりまじまじ見つめたら、桜花の顔に穴があいちまうよ」
「え? な、なんですか。俺、別に見てませんよ」
「ありゃ、見てないのかい。べっぴんさんに仕上がったのにさ。双樹はつれないねぇ。そうは思わないかい、桜花」
蘭花に尋ねられて、桜花は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……私は別にきれいなんかじゃないわ」
「そんなことないです」
繊細な織り布で包まれた琵琶を抱きしめる桜花に向かって、双樹は声を張りあげる。
「たぶん、姉さんが化粧してくれたから、それで見た目がいつもと違うんだわ」
「いや、化粧していなくても桜花さんは元々」
「元々、なんだい?」
蘭花はにやにやと口の端をあげて、双樹の顔をのぞきこんでくる。
(ちょっと待て、俺。今、何を言おうとした?)
突然、かぁぁと耳まで熱くなるのを感じた。
「姉さん、からかわないで」
今にも消え入りそうなか細い声。両手で頬を押さえている桜花は、とても愛らしい。
けれどそう感じる自分に、双樹はうなってしまう。
背後でがさりと音がして、双樹は肩越しに後ろを見た。
すると笹生が大きな袋を開いているところだった。
「こら、勝手に触るんじゃないぞ。中に入っているのは、乾燥させた薬草だからな」
「えー、ちょっと見るだけだよ」
まったく、と双樹が肩をすくめた時、桜花が突然悲鳴を上げた。
「だめよ。笹生くん。やめてっ」
誰もがその場に固まった。ただ桜花だけが走りだす。
派手にひるがえる袂から、夏椿の花が散ったように見えた。
狭い土間に乱雑に脱いだままの草履につまずき、桜花は派手に転んだ。
「くっ……」
それでも立ち上がり、這いながら笹生の元へと向かう。髪をふり乱した姿は、まるで幽鬼だ。
「おやめ。桜花」
蘭花の絶叫が長屋に響く。それでも桜花は止まらない。
彼女は柱に気づくことなく進んでいく。
けれど目の見えない桜花は、まぶたを閉じるでもなく恐れた様子もない。
「危ない!」
今にもぶつかりそうな、その時。
双樹は桜花を背後から押さえた。そして立ち上がり、彼女を横抱きにしてかかえる。
「笹生くんは?」
「平気ですよ。まったくあなたらしくもない」
彼女に心配されていた当の笹生は、驚きのあまり言葉を失っている。
ぽかんと口を開いたまま、畳に座りこんでしまった。
「案ずるでないよ、桜花。笹生が見ていたのは、葛の根っこで、風邪に効く薬さね」
「そう、そうなの……」
ほっと息をついた桜花は、力なく双樹の胸にもたれかかった。
細くて軽くて。でも笹生よりも柔らかで。女の子って、こんなにも華奢なのか。
「ちょいと。いつまでうちの妹を抱き上げてんだい。桜花、そんな格好じゃ、仕事に行けないねぇ。着物を直さないとならないよ」
「ごめんなさい、私ったら。本当、恥ずかしい」
桜花は頬を染めると、蘭花に伴なわれて出ていった。
今も手には、桜花の感触が残っている。
桜花は琵琶の弾き語りを仕事としている。
一般には『平家物語』が有名だが。
桜花は恋物語なども歌うようで、古典とは違う弾き方で弦を指ではじいたり、細かく音を震わせたりして練習しているのも聞こえてくる。
可憐な姿に愛らしい声で歌う恋物語は人気があり、ひいきの客も多いようだ。
「さっきの兄ちゃん、かっこよかったよ」
「あー、その話はもういいから」
「なんで? 童話に出てくる、お姫さまを抱き上げる王子さまみたいだったよ。この間、シショーが見せてくれたんだ。お客さんが本をくれたんだって」
「どこの世の中に、長屋住まいのトホホな王子さまがいるっていうんだ。それにしても師匠に童話って、意外だな」
「うん。どうせもらうなら、スルメとか焼き鳥がいいってぼやいてたよ」
うっわー。夢もロマンもあったもんじゃないな。
きっと普段、スルメをかじりながら、妹に童話を読み聞かせているに違いない。
とにかく勉強をするようにと、双樹は古びた国語の教科書を笹生に手渡した。
さっそく笹生は読みはじめる。
けれど一行も読まぬうちに、教科書を閉じてしまった。
「そうだ、鉛筆がちびてたんだ」
「もう諦めるのか? 早っ」
笹生は、双樹のお下がりの小刀を取りだして鉛筆を削りだした。
危なっかしい削り方で、見ている方がはらはらしてしまう。
ぎぎ、ぐりっと妙な音を立てて、鉛筆がえぐれる。
「笹生、危ないっ」
刃の向かう先に、笹生が指を置いている。
双樹は慌てて笹生の小さな手を、包み込んだ。
手の甲に鋭い痛みが走る。
双樹が呻くと、錆びた鉄のような血のにおいが漂った。
肌を伝い、教科書の上に鮮血が滴り落ちる。
――双樹さま。大丈夫でいらっしゃいますか。
ふいに名前を呼びかけられた気がした。
双樹は窓から外を覗こうとしたが、笹生にしがみつかれて動くことができなかった。
「大丈夫? 大丈夫? 痛いよね。ごめんなさい。ぼく、なんてことを」
「平気だから」
「でも兄ちゃん、血だらけだ。それに兄ちゃんの教科書も汚れちゃった」
笹生の声はかすれてしまっている。
それでも震える手で手拭いを裂き、必死に双樹の傷に布を巻きつけていく。
すぐに布は真っ赤に染まった。
けれど双樹はほっとしていた。
笹生に怪我がなくてよかった。本当に。
「うわあぁん」
とうとう我慢しきれなくなったのか、笹生は声を上げて泣きだした。
「なんで? ぼくって、こんななの? 桜花ねえちゃんにも兄ちゃんにも迷惑ばっかりかけて」
「気にしなくていいって」
「やだよー。もっとしっかりしたいよぉ。兄ちゃんにも、桜花ねえちゃんにも、もう心配かけたくないよぉ」
「うん、いい心がけだな。でも師匠のことを忘れてるぞ」
双樹は、笹生の髪に顔を埋めた。
柔らかな猫っ毛は、銭湯に持っていく石鹸の匂いがする。
おそろいの、落ち着く香りだ。
手はかかるけど、大事な弟。誰よりも一番に、お前のことを考えている。
だから、どこへも行かないで。
「ごめんなさい、ごめんなさい。兄ちゃん」
「そうだ。父さんと母さんから手紙が来ていたぞ」
いつまでも泣きやむ気配のない弟の気を紛らわせようと、双樹は話題を変えた。
笹生は学校には行っていない。
九歳なら、尋常小学校の三年生になるはずだが。
この辺りの子はあまり学校に行っていないのと、常に目の届く場所にいてほしいのが理由だ。
手紙で釣ると、笹生はすぐに泣きやんだ。
「読みたい……」
教科書は嫌いなくせに、笹生は手紙だと読みたがる。
双樹は封筒を開いて、中の便箋を手渡した。
涙で潤んだ目を輝かせて笹生が紙を開く。
子どもでも分かるように簡単な表現で、けれどちょうど三年生くらいの児童が読める程度の漢字を混ぜた文章だ。
文字の勉強には、ちょうどいい。
笹生は「北海道」の文字で、首をかしげた。
「えーと?今はきたうみみちにいます。道に住んでるんだー、すごいね。やっぱり真ん中は危ないから、道のはしっこなのかな」
どうやら地理の勉強も必要なようだ。
双樹は立ち上がると、窓から外をうかがった。
確かに名前を呼ばれたと思ったのに。誰の姿もなかった。
久しぶりだ。「双樹さま」なんて呼び方。
懐かしいその呼び名は、苦い思いを伴っていた。