2-1
空気をふるわせる琵琶の音が響いている。
あの世から切ない思いが届くような、心がゆさぶられる音色だ。
『平家物語』の弾き語りをしていた桜花は、顔を上げた。
「姉さん、鼻がすうすうするわ」
蘭花とその妹、桜花が暮らす棟は、双樹の住む部屋とは向かいにある。
桜花は双樹と同じ十五歳だが、外に出る時には必ず蘭花が付き添っているせいか、どこかあどけない。
今も子どもみたいに鼻をくんくんと動かしている。
桜花が顔を横に向けたので、肩や背中に垂らした黒髪が琵琶に引っかかった。
「きゃっ。いたっ」
「おやまぁ、桜花。動くんじゃないよ。髪が切れちまうよ」
蘭花は、双樹に任せるとばかりに顎をひょいとしゃくった。
「失礼します」
そう声をかけてから、桜花の長い髪に触れる。
「この声は双樹さんね。ふふ、ありがとう」
「いえ、師匠は軟膏の調合で手が汚れているので」
「こら、双樹。客の前では絶対に、軟膏なんていうんじゃないよ。そんな古くさい名前じゃ売れやしないだろ。これはね、メンタム。分かったかい。これまでの軟膏にちょいとハッカ油を足してだね、それでしゃれた名前をつけりゃ、今度の祭りでは、がっぽりもうかるってもんさね」
はいはい、と蘭花の文句を受け流して、双樹は桜花の髪を琵琶から外していく。
椿油で手入れしているのか、毛はとてもつややかだ。
「ごめんなさい。姉さんったら、お金もうけにしか興味がなくて」
「まったくです……いたっ」
双樹の頭に、メンタムのふたが命中する。ふり返ると、蘭花が真っ赤な唇をへの字に引き結んでいた。
「兄ちゃん、兄ちゃん。おやつだよー。瓜をむいたんだ」
足でがらりと木戸を開けて、笹生が飛び込んでくる。
手にした盆には、形も大きさも、ばらばらに切られた薄緑の果実がのせられている。
「……修行もいいが、ちったぁ弟のしつけもすべきだねぇ。笹生の足は手よりも便利だ。ねぇ双樹兄さんや?」
蘭花が、にぃっと嫌味ったらしく笑う。
「笹生くんは、急いでいただけよね? もしかして両手がふさがっているのかしら」
「でも地面に盆を置いて、戸を開けて、瓜が土で汚れるのはやだなぁ」
「じゃあ、そうね。開けてって、声をかけるといいわ。ね?」
桜花の提案に、笹生は「うんっ」と元気よくうなずいた。
けれども彼女の澄んだ茶色の瞳は、誰も見てはいない。
桜花は幼少の頃に失明したという。
「じゃあ、お言葉に甘えて瓜をいただこうかねぇ。ちょいと双樹。休憩する前に、虫下しと腹下しの薬を入れたか確認しておくんだよ。蛍祭りは稼ぎ時なんだからね。普段よりも余分に入れて、ちょうどいいくらいだ」
「瓜がぬるくなっちゃうよ。井戸水で冷やしてたんだから、早く食べてよ」
笹生が頬をふくらませて、双樹の前にみずみずしい瓜をのせた盆を差しだした。
「分厚く皮をむいたもんだねぇ。元はもっと大きな瓜だったんじゃないのかい?」
「いいんですよ。瓜は大名にむかせろっていうくらいですからね。中の方が甘いから、思い切って厚くむくのが正解です」
瓜を一切れつまんで、双樹は口に放り込む。
じんわりとした優しい甘さと、心地よい冷たさが口の中に広がっていく。
(笹生も包丁を使えるようになったんだな)
瓜を桜花に勧めている弟を見る双樹は、目を細めた。
「シショーは手を洗ってこないとダメだよ。ハッカ味の瓜なんて、おいしくないよ」
手を伸ばしてくる蘭花から、笹生は盆を救出するように移動させる。
「はいはい。坊やもおちびさんも口うるさいねぇ」
「おちびさんじゃないもん。笹生だもん。兄ちゃんがつけてくれた名前なんだぞ」
あら、そうなの? と桜花が笹生の声のする方に顔を向ける。
「あ、いえ。俺は『笹生』という漢字を考えただけです」
「いいお兄さんね」
桜花の見えるはずのない目で見つめられて、双樹は瓜をのどに詰まらせた。
ぽけん。
またメンタムのふたが飛んでくる。
「何するんですか、師匠」
「お前ねー、桜花にほめられて顔を赤くするなんざ、十年早いんだよ」
「し、してませんよ」
「えー、兄ちゃんって桜花ねえちゃんのことが好きなの?」
額に青筋を浮かべた蘭花のメンタム攻撃が止まらない。
とうとう中身の入った缶が投げられ、双樹の顔に命中した。
白くてべったりとした軟膏が顔にへばりつく。
(なんで、こうなるんだよ。俺、なんか悪いことしたか?)
暦が七月に変わり、来週には蛍祭りが始まるという頃。
双樹の部屋には、平たい円柱形の缶が積み上げられていた。
笹生は床に置いたそろばんを、ぱちぱちと弾いている。
「えーと、メンタムが二百缶かける十五銭、頭痛バレバレが五十袋かける十銭」
「バレバレじゃなくて、ハレバレだろ。薬を飲んで頭痛がばればれになって『きさま、頭痛だろう』って指摘されてどうするんだよ」
「しーっ。静かにして。計算の途中だから。シショーに頼まれたんだ」
あとしばらくは、鼻がすっきりしすぎる匂いの中で寝たり、食事をしないといけないのかと思うと気が重くなる。
ハッカ味の豆腐、ハッカ味の納豆。思い出すと、うっぷと何かが込みあげてくる。
計算を終えた笹生が身を乗りだして、あぐらをかいている双樹の膝に手をかける。
そろばんを太ももの上に置くから、珠がごろごろとあたって不気味な感じだ。
「こらっ。わざとか」
そろばんを取り上げて、今度は笹生の背中で珠をごろごろしてやる。
きゃあ、と悲鳴を上げながら、笹生は部屋の中を走り回った。
「ああ、もう。メンタムの塔が崩れたらどうするんだ」
「兄ちゃんが追いかけるからだよー。だけどさ、なんでシショーはお金があるのに、大きくて新しい家に住まないのかな。この間なんて、寝てたら雨もりの水が鼻の穴に入ったって、大騒ぎしてたのにね」
確かに。
二棟ある長屋の家主は蘭花だが。ふつう家主が、こんなぼろぼろの長屋に住むなんて変だ。
しかも住人は蘭花姉妹と双樹兄弟だけで、他の部屋は全部、薬の材料をおく納屋代わりになっている。
もっと人を住まわせれば、もうかるのに。