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べからずの薬と隠し神  作者: 絹乃
1  薬師の弟子兄弟
3/24

1-3

 翌日。辺りが霧に包まれている早朝、双樹はかごを片手に長屋の戸を開いた。

 夏が近いとはいえ、空気は肌寒い。


 ぶるっと身を震わせ、小走りに道を横切る。


 屋根が朽ちかけた小屋や、踏み板の割れた溝。道に落ちた犬のフンさえも、霧は真白な絹の布のようなやわらかさで覆いをかける。


「さて、とっととやっちまおう」


 まだ仕事用の脚絆をはいていないので、着物の裾をさばくように走る。


 緑濃い茂みに咲く花は、まるで白い蛾が群れているかのようだ。

 一匹残らず退治しなければという気持ちになってしまう。


「ま、本当の蛾なら飛んで逃げるだろうけどな」


 双樹はくちなしの花を、片っ端から摘んでいった。

 道に落として、香りをまき散らされるのはごめんだ。


 引きちぎった花をかごに放り込んでいくと、むせかえるほどの甘い匂いが満ちた。


 息苦しくて思わず咳き込んでしまう。


「おや、くちなしの花を摘んでいらっしゃるんですか」


 いきなり隣から声をかけられ、双樹は跳び上がりそうになった。


「ああ、済みません。霧が深いから、私のことが見えませんでしたか」


 近所の人ではない。この辺りの住人は、こんなきれいな言葉づかいをしない。


 電柱の陰から現れたのは、銀縁の眼鏡をかけた姿勢のよい青年だった。

 二十歳くらいの、背広にネクタイという身なりのよさだ。

 長めの前髪を額に垂らしている。


 双樹は色あせた自分の着物が急に恥ずかしくなった。そんな双樹の気持ちを見抜いたのか、なぜか青年が優しげに目を細める。


 この長屋に住んで、すでに六年。

 肌触りのよいシャツやズボンといった洋服ではなく、ごわついた着物をまとうことにも、テーブルを使わずに畳にじかに座って食事をすることにも、いつの間にか慣れてしまった。


 青年は革のかばんから一枚の紙と画びょうを取りだして、木の電柱に貼りつける。


「あの……大丈夫ですか?」


「なにか?」


「いえ。手や指に怪我をなさってるみたいですから」


「ああ。これですか」


 ふっと柔らかに青年は微笑んだ。


「古い傷ですよ。ありがとうございます。心配してくださって。お優しいんですね」


「いえ、ぼくは……」




「兄ちゃーんっ」


 霧の向こうからの呼び声に、双樹がふり返ると、長屋の前にぼんやりとした小さな人影が見えた。


 しまった、笹生がもう起きてしまったようだ。


「兄ちゃーん。兄ちゃーんっ。どこぉ」


 笹生の声が大きさを増す。


 双樹はくちなしの木と家の方を交互に見やった。

 まだすべて摘み終わってはいない。それに、かごをどこに隠せばいいんだ。


「弟さんですか? 早く帰っておあげなさい。お兄さんが神隠しにでもあったかと心配しますよ」


 青年はかごを手にし、双樹の背中を大きな手で押してくる。

 前につんのめるようになりながら、双樹は走って長屋に戻った。


「ほら、兄ちゃんならいるだろ?」


「うーん、兄ちゃん。この煎餅、まずい」


 笹生は、かんだ跡のついた木のしゃもじをつきだしてきた。


「そうかそうか、まずかったか」


 なんだ、寝ぼけているのか。心配することなかったな。



 長屋の戸を開けると、霧が部屋に流れ込んだ。笹生はふらりとよろめきながら、布団に倒れこむ。


「まったくもう、世話の焼ける」


 双樹が夏布団をかけてやろうとすると、ごろりと硬いものが転がった。


「なんだ、これ?」


 手に触れたのは、ラムネのビンだった。持ってみるとずっしりと重い。


「大事にしすぎて栓を開けなかったのか。こら、笹生。しゃもじを食べるくらいなら、こっちを飲めって」


 こつんと弟の頭を指で小突く。ラムネくらい、またいくらだって買ってやるのに。

 双樹は、思わず苦笑いした。


 


 笹生に朝食をとらせている間に、双樹は井戸で水を汲んでくるといって、くちなしの木に戻った。


 すでに青年の姿はない。かごは木の根元に置かれていたが、中は空っぽだ。

 しかもまだ枝に咲いていたはずの花も、すべてなくなっている。


 木製の電柱に、真新しい紙が張られていた。


――十歳ほどの男児を捜しています。名は鶴原讃央。


 紙には連絡先も記されていた。

 この浜潟町からは坂を上っていく高級住宅街。双樹がかつて暮らしていた実家があったのと同じ岡方(おかがた)(まち)だ。


「あの人、人捜しをしていたのか。それにしてもなんて読むんだ? 鶴原は「つるはら」として。うどんや、こんぴらさんで有名な讃岐の讃だよな。さぬおう? 変な名前」


 電柱の前で首をかしげながら、かごを持ち上げると、何も入っていないのに甘ったるい香りだけが残っていた。

 


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