1-3
翌日。辺りが霧に包まれている早朝、双樹はかごを片手に長屋の戸を開いた。
夏が近いとはいえ、空気は肌寒い。
ぶるっと身を震わせ、小走りに道を横切る。
屋根が朽ちかけた小屋や、踏み板の割れた溝。道に落ちた犬のフンさえも、霧は真白な絹の布のようなやわらかさで覆いをかける。
「さて、とっととやっちまおう」
まだ仕事用の脚絆をはいていないので、着物の裾をさばくように走る。
緑濃い茂みに咲く花は、まるで白い蛾が群れているかのようだ。
一匹残らず退治しなければという気持ちになってしまう。
「ま、本当の蛾なら飛んで逃げるだろうけどな」
双樹はくちなしの花を、片っ端から摘んでいった。
道に落として、香りをまき散らされるのはごめんだ。
引きちぎった花をかごに放り込んでいくと、むせかえるほどの甘い匂いが満ちた。
息苦しくて思わず咳き込んでしまう。
「おや、くちなしの花を摘んでいらっしゃるんですか」
いきなり隣から声をかけられ、双樹は跳び上がりそうになった。
「ああ、済みません。霧が深いから、私のことが見えませんでしたか」
近所の人ではない。この辺りの住人は、こんなきれいな言葉づかいをしない。
電柱の陰から現れたのは、銀縁の眼鏡をかけた姿勢のよい青年だった。
二十歳くらいの、背広にネクタイという身なりのよさだ。
長めの前髪を額に垂らしている。
双樹は色あせた自分の着物が急に恥ずかしくなった。そんな双樹の気持ちを見抜いたのか、なぜか青年が優しげに目を細める。
この長屋に住んで、すでに六年。
肌触りのよいシャツやズボンといった洋服ではなく、ごわついた着物をまとうことにも、テーブルを使わずに畳にじかに座って食事をすることにも、いつの間にか慣れてしまった。
青年は革のかばんから一枚の紙と画びょうを取りだして、木の電柱に貼りつける。
「あの……大丈夫ですか?」
「なにか?」
「いえ。手や指に怪我をなさってるみたいですから」
「ああ。これですか」
ふっと柔らかに青年は微笑んだ。
「古い傷ですよ。ありがとうございます。心配してくださって。お優しいんですね」
「いえ、ぼくは……」
「兄ちゃーんっ」
霧の向こうからの呼び声に、双樹がふり返ると、長屋の前にぼんやりとした小さな人影が見えた。
しまった、笹生がもう起きてしまったようだ。
「兄ちゃーん。兄ちゃーんっ。どこぉ」
笹生の声が大きさを増す。
双樹はくちなしの木と家の方を交互に見やった。
まだすべて摘み終わってはいない。それに、かごをどこに隠せばいいんだ。
「弟さんですか? 早く帰っておあげなさい。お兄さんが神隠しにでもあったかと心配しますよ」
青年はかごを手にし、双樹の背中を大きな手で押してくる。
前につんのめるようになりながら、双樹は走って長屋に戻った。
「ほら、兄ちゃんならいるだろ?」
「うーん、兄ちゃん。この煎餅、まずい」
笹生は、かんだ跡のついた木のしゃもじをつきだしてきた。
「そうかそうか、まずかったか」
なんだ、寝ぼけているのか。心配することなかったな。
長屋の戸を開けると、霧が部屋に流れ込んだ。笹生はふらりとよろめきながら、布団に倒れこむ。
「まったくもう、世話の焼ける」
双樹が夏布団をかけてやろうとすると、ごろりと硬いものが転がった。
「なんだ、これ?」
手に触れたのは、ラムネのビンだった。持ってみるとずっしりと重い。
「大事にしすぎて栓を開けなかったのか。こら、笹生。しゃもじを食べるくらいなら、こっちを飲めって」
こつんと弟の頭を指で小突く。ラムネくらい、またいくらだって買ってやるのに。
双樹は、思わず苦笑いした。
笹生に朝食をとらせている間に、双樹は井戸で水を汲んでくるといって、くちなしの木に戻った。
すでに青年の姿はない。かごは木の根元に置かれていたが、中は空っぽだ。
しかもまだ枝に咲いていたはずの花も、すべてなくなっている。
木製の電柱に、真新しい紙が張られていた。
――十歳ほどの男児を捜しています。名は鶴原讃央。
紙には連絡先も記されていた。
この浜潟町からは坂を上っていく高級住宅街。双樹がかつて暮らしていた実家があったのと同じ岡方町だ。
「あの人、人捜しをしていたのか。それにしてもなんて読むんだ? 鶴原は「つるはら」として。うどんや、こんぴらさんで有名な讃岐の讃だよな。さぬおう? 変な名前」
電柱の前で首をかしげながら、かごを持ち上げると、何も入っていないのに甘ったるい香りだけが残っていた。