7-3
一年後。
長屋で琵琶を弾いていた桜花は、そっと髪をかきあげられたような気がした。
虫でも頬をかすめたのだろうか。それにしては羽音が聞こえない。
ねぇ、あなたは今どこにいるの? 幸せでいるの?
どこに問いかければ答えが戻ってくるのか分からない。
「おい、桜花。驚くんじゃあないよ。来たよ、やっと来たんだ」
蘭花の叫ぶ声が聞こえる。
この慌てようは、お金もうけの仕事でも舞い込んだのだろうか。
今にも外れそうなほどに大きな音を立てて、戸が開かれる。
くちなしの香りの風が舞い込んで、室内にこもっていたハッカのにおいが薄れていく。
草履を脱ぐ音もさせないままで、蘭花は興奮した様子で畳に上がってくる。
「驚いているのは、姉さんよ。土足はいけないわ」
積まれた缶が派手に倒れる音。これは後の掃除が大変そうだ。
「まったくあの馬鹿。今頃になって」
まさか。
桜花は持っていた琵琶のバチを落とした。
蘭花が、愛しそうに「あの馬鹿」なんていう人物は一人しかいない。
震える手で、隣に置いた分厚い本の表紙をなでる。
ごわついた手触りの、師匠から弟子へと受け継がれた本。
いつか必ず取りに戻ってくるかもしれないと、ずっと預かっていた。
「姉さん。双樹さんは?」
「あ、ああ。手紙が来たのさ。今読んでやるから、ちょいと待ってな。なんだい、この封筒、開きゃしないね」
蘭花も緊張して指がこわばっているのか、開封に手こずっている。
「ええと、読むよ。いいね? 『お元気ですか。俺たちはなんとか元気で暮らしています。笹生は文字がずいぶん書けるようになりました』」
元気なのね。
桜花はほっと胸をなでおろした。
「『兄さんと俺は、薬草を売る商売を始めました。まだ知識が乏しいので調剤はできませんが』兄さん? 双樹に兄さんかい? 『いつかまた必ず戻ります、それまで待っていてください。こちらは長い冬が明けて、今が花の盛りです。そちらに咲く桜が懐かしいです』桜だってさ。あの馬鹿。こっそりと恋文を混ぜてやがるよ。まったく、ませてるねぇ」
姉の言葉に、頬が熱くなるのを感じる。
いつかきっとまた会える。
その日を楽しみに待っていていいのね。
「えーと、なんて書いてあるんだい?『こっちは空が広すぎるよー、夕やけの色がちがうんだ』このくちゃっとした文字は、笹生だね。ふっ、相変わらずじゃあないか。えーと『熊の胆がご入り用ならば、こちらで熊を捕まえましょうか? 熊が多すぎるくらいです』ははっ、兄さんってあの澄ました眼鏡野郎かい」
「ねぇ、姉さん。検閲があるから住所は記せないだろうけど、どの辺りにいるのかしら。それは書いてないの?」
どれ? と蘭花は封筒の裏書きを見て吹きだした。
「差出人は、深町羽矢世、双樹、笹生となってるね。住所は、北海道三丁目だよ」
桜花は手渡された手紙を、胸に抱いた。
隠し神、あなたがいるのならば……。
どうか三人の兄弟を人の目から隠してあげて。
彼らに平安が訪れ、いつか戻ってくることのできる、その日まで。




