7-2
鶴原の家の門は閉ざされていた。
中から騒がしい声は聞こえるのに、双樹が戸を叩いても応じる声はない。
そうだ。塀の外にまで枝が張りだしている木があったはずだ。
どうか伐られていませんようにと願いながら、塀沿いに進んだ。
枝はかつて見たよりも伸びていた。枝に両手をかけてぶらさがりながら、塀の上へとよじ登る。
塀の上に立つと、懐かしい庭が広がっていた。
池の鯉に餌をやる父の姿と、窓辺でゆったりと微笑む母の姿が見えた気がした。
だが実際に窓辺にいるのは、にやにやといやらしい笑みを浮かべる鶴原滋だし、池のそばには人だかりができている。
その中心にいるのは毛布にくるまれて横たわった男性と、彼を抱きかかえるようにしがみつく少年。
「笹生っ」
「兄ちゃん? 兄ちゃんっ。どこなの?」
声は聞こえども姿は見えぬのだろう。
笹生は必死な様子で右や左に顔を向けている。
双樹は塀から身軽に飛び降り、弟の元へと走った。
一歩、また一歩。
双樹が力強く地面を蹴るたびに、笹生の顔が歪んでいく。
唇を引き結んで、眉根を寄せて。
けれど叫び声とともに、口は大きく開かれた。
「兄ちゃんだぁ」
うわあぁぁんと絶叫しながら、笹生が双樹に向かってくる。
双樹に体当たりして全力でしがみつき、薄汚れた囚人服を涙で濡らしていく。
「待たせたな。ただいま」
ああ、笹生だ。大事な弟だ。
どうして匂いが変わったくらいで、住む場所が違ったくらいで、よその子になってしまったと思ったんだろう。
笹生自身は、何も変わっちゃいないじゃないか。
弟の柔らかな髪に顔をうずめながら、その背を強く抱きしめる。
「……双樹さん。よくぞご無事で」
毛布から上半身を起こしていたのは早瀬だった。
毛先から水がしたたり眼鏡はなく、目がかゆいのか、しきりに目元に手をやっている。
「池に落ちたのか?」
「ちがうんだっ。早瀬さんはぼくの代わりに池に入ってくれたんだ。あいつに命令されて、一晩中ずっと」
笹生は、窓の向こうで腕組みをして庭を見下ろす滋を指さした。
双樹がこの家で暮らしていた頃は、池の水は常に澄んでいた。
だが今は水はよどみ、異臭を放っている。
「なんで、そんな馬鹿なことを」
「私と同じ立場であれば、双樹さんもそうなさったのではないですか」
顔にどろりとした藻を張りつけたままの早瀬が、いかに笹生を守ろうとしたのか、容易に想像できた。
手を伸ばして藻を取ってやると、双樹の親指の包帯が深緑色に染まった。
「師匠からもらった目洗薬があるから、あとで目をきれいにしよう。じゃないと眼病になってしまう」
「目洗薬、ですか」
早瀬は充血した目を見開いた。
そこにいるはずのない誰かを見つけたような驚きが、彼の揺れる瞳に宿る。
「早瀬さん?」
歯の根が合わなくて音を立てているのに、早瀬はうれしそうに微笑む。
「いい加減にせぬか。騒々しい。滋、お前がいるといつも落ち着かん。誰がうちに泊ってよいと言った」
重々しい声が響きわたり、皆が一斉に口を閉ざして動きを止めた。
「親父、昨夜は戻らなかったんじゃ……」
いつの間にか滋の横には、鶴原が立っていた。
「もしやと思うて夜中に裏口から戻ってみれば。やはり讃央と早瀬の怪我は、お前であったか」
「違う、俺は」
鶴原は、杖の先を滋の顔に向けた。
「いまさら言い逃れはできぬ。勘当もあわれと思い、わしの留守中の訪問を見逃しておったが」
「……お父さまは、知ってたの? ぼくたちがいじめられていること」
「ここで滋に潰されるようなら、讃央、お前もそれまでの人間ということだ」
突き放した言いように、笹生の顔からはすとんと表情が抜けていく。
知っていたなら、どうして助けてくれなかったの?
呆然とした笹生の声にならない言葉が、双樹には聞こえた気がした。
「滋。六年前に讃央を売りとばしなどせんかったら、わしの持つ会社の一つくらいは任せてやってもよかったものを。ほら、お前たち。ぼうっとせずにさっさと持ち場に戻れ。こんな醜聞が、外部に知られたらどうなるか」
双樹はとっさに笹生の耳をふさいだ。
聞かせられるはずがない。
次男が長男の手で子肝取りに売られたと知って、その親が何も手を打とうとしなかったことなど。
鶴原にとっては、滋も笹生も満足できる子ではなかったのだろう。
おそらくはその母親たちも、とうに縁を切られているのかもしれない。
父さんと母さんは、こんな奴のために死を選んだのか。
腹の奥で火が燃え盛っている。
「もういいよ、兄ちゃん。手を離して」
かすれた声に、双樹は思わず笹生の耳から手を外した。
「笹生?」
「蝉の鳴き声がにぎやかで、どうせ何も聞こえなかったから」
広い庭では、シャシャシャとたった一匹のクマゼミが鳴いているだけだった。
「親父、聞いてくれ。俺はいつだって親父のことを考えて。そうだ、そこの早瀬が親父の命を狙っていたんだ。だから俺は」
滋は、薬の袋を鶴原に見せた。
「あれは師匠の薬じゃないか?」
紙袋に墨汁で書かれた「蘭」の文字。
中の薬包は双樹がこしらえたものだ。見間違えるはずなんかない。
滋は紙を開いて中の粉をてのひらに出し、父親の顔に近づける。
「ほら、見てくれ親父。この薬には白い結晶が混じっているだろう? これは塩なんだ。親父はだまされていたんだ」
「早瀬。それは真か」
眉間にしわを寄せた鶴原が、早瀬を睨みつける。
おそらく普段の彼ならば、主の前では毛布にくるまったままで応対はしないだろう。
けれど早瀬は胸の前で毛布をかき合せたままで、頭を下げようともしない。
「塩を大量に摂取させれば、親父がくたばると思ったんだろ。残念だったな。俺には全部お見通しだ。だからこそ、貴重な薬を手に入れたんだ。親父のためを思ってな」
そういえば早瀬さんは、仇を討つといっていた。
けれど、そんな方法で復讐を?
双樹は混乱し、額を手で押さえた。
病は治すべきものであり、薬がその弱い部分を攻撃すべきではないからだ。
けれど相手は憎い鶴原。
早瀬の憎悪は百も承知なのに、薬師見習いであり薬売りである部分の自分が、そんな復習の方法を認めない。
とまどう双樹の心を見透かしたのだろうか。
早瀬は双樹の顔を見つめると、静かにうなずいた。
「それは五条蘭花の信頼できる薬。素人の私が、なぜ薬師が処方した薬に悪しき手を加える事がありましょうか」
「親父、信じるな。こいつは、しれっとした顔で嘘をついているに違いない」
「滋さん。薬をなめてごらんなさい。味覚くらいは人並みの感性をお持ちでしょう?」
早瀬の嫌味を理解するのに、滋はしばらく時間を要したようだ。
「なっ、生意気な」
滋は顔を赤くして、手にした薬包をかたむけて熊胆を口の中に流し込んだ。
よほど苦いのか、眉間にしわ寄せて顔をしかめている。
「分かるか、こんなもん。苦いだけだ」
「そうでございましょうね。よかったですね、舌は馬鹿ではなくて。その白い結晶は氷餅を砕いたものです」
「氷餅?」
「ご存じではないですか? 和菓子の材料です。寒風の中で乾燥させた餅を砕いたものを、菓子にまぶすのです。口の中でほろりと溶けますが、塩の味などするはずがございません」
言葉こそ丁寧だが、すでに早瀬は使用人としての仮面を外している。
「早瀬。なぜそんな意味のない嫌がらせをした。わしは出自の分からぬお前を雇ってやり、給金をやったではないか。まさか金額が不満だとでもいうのか」
鶴原が、床に杖をつく甲高い音が響いた。
「私があなたに背く理由が、それしか考えられぬのでしたら不幸なことです。旦那さま……いえ、鶴原さん。意味はそこにあるのではないですよ。滋さんが持参した薬はお飲みになりましたか」
「いや……」
「得体のしれぬ物を口にしない。その点は賢明な判断をなさったようですね。五条蘭花であれば罪深い『べからずの薬』は、決して取り扱ったりはいたしません」
滋が責めるように父親をにらんだ。
息子を信じないのかと、その目が訴えている。
べからずの薬。
それが目の前にある。双樹は腕の産毛が逆立つのを感じた。
作るべからず、扱うべからず、飲むべからず。
毒以上に禁忌の薬だ。
これが早瀬さんの復讐なのか。
ぎごちなく隣に顔を向けると、早瀬はなぜか泣きそうな表情をしていた。
「鶴原さん、すぐにその子をご両親のもとに帰してあげるべきでしょう。たとえその身は粉末となっても、帰りたがって泣いているに違いありません」
ようやく意味を理解したのか、鶴原の顔は血の気が引いたように青くなった。
言葉にならない叫び声をあげながら、杖で滋を打ちつける。
何度も、何度も。
両親とともに暮らしていたこの家は、懐かしさの象徴だった。
見えているのに、自由に中に入ることもかなわぬ希望。
けれどそんなものは幻だ。輝いていた日々は、追憶の中にしかない。
「早瀬さん。俺は、住む所はどこでもいいんです。どんなに立派な家でも、たった一人で残されたあの日を思えばそこは廃墟でしかない。雨漏りがしても隙間風が吹き込んでも、たとえくちなしの木の下だって、家族と一緒なら暖かい」
早瀬の行動はすべて計算の内だったに違いない。
塩と見せかけた氷餅を混入した薬を与え続け、滋が早瀬に不信感を抱くように仕向ける。
鶴原の跡継ぎを諦めきれない滋は、万能の特効薬とされるべからずの薬を入手した。
人の子を飲むなど、決して許されないことだ。
その罪深い薬を買ったことが明るみに出れば、滋だけではなく鶴原も失脚する。
この邸を、買い戻すことができると早瀬は考えたのだろう。
そう、鎌田三喜夫が誘拐された時に、その機会はやって来た。
だから六年もたった今頃になって、笹生を捜す紙を貼ったのだ。
「どこだっていいんだ。だから俺のためなんかに無茶しないでくれ。父さんに恩義があったとしても、それを息子に返す必要なんてない」
「手紙をいただいたのです」
思わずといった風にこぼした言葉に、早瀬ははっとして口に手を当てた。
「いえ、私は義理で動いているわけではございませんので。そうしたかっただけです。鶴原への復習に賛同してくれた五条蘭花が、身を呈して監獄に入り、子肝の存在を看守に匂わせてくれたからこそ、事が動いたのです。ですが、双樹さまの行動だけが予定外でした」
「え、俺?」
「ええ。あなたは幼い日の笹生さまが薬になるのを、阻止されたのです。なのにそのことで自ら罪人になるなんて。何を考えておいでなのです。そもそもですね、出刃包丁をもった恐ろしい男を相手に、子どもの足で逃げ切れるわけがないでしょう。それも何日もろくに食べていない状態で」
「それはそうだけど」
「私があの時もっと大人だったら、旦那さまのご子息を路頭に迷わせることなどなかったのに。それに、梅雨時に公園の木の下で暮らすという考えが理解できません」
う、うーん。なんで説教されているんだろう。
怒られるようなことをしたんだろうか。
「まぁ、くどくどと長くなる前に、短く切り上げますが」
いや、長いって。
まるで尋常小学校の校長先生が「少しだけ」といって、しゃべりだす訓示みたいだ。
「まっすぐなご気性なのは、美点ですが。向こう見ずで、はらはらします」
怒られているのか、ほめられているのか分からなくなり、双樹は、困って鼻の頭を掻いた。
どんどん、どん。
門を叩く音と道の方から聞こえる騒がしい声に、早瀬はとっさに毛布を双樹の頭からかける。
人目をさえぎるためだろう。
「警察が来たようです。逃げますよ。笹生さま、走れますね。邸の左側にある木の枝が、道にまで伸びています。左に向かって走り、木をつたって外に出ます」
「うん、了解。完全に理解したよ」
視界がふさがれ、足下の地面しか見えない状態で、双樹は二人に支えられた。
だがすぐに笹生は左ではなく右へと向かって走った。
「笹生さま。お椀を持つ手の方でございます」
「あ、うん。当然そうだよ」
えへへと照れ笑いしながら方向転換した笹生は、今度は盛大にころんだ。
しかも顔からだ。まったく。世話の焼けるところは変わっていない。
双樹はばさっと毛布をひるがえし、笹生を肩車する。
その上から、再び早瀬が毛布をかけて隠してくれる。
滋や鶴原が、三人を追おうとしないのは、きっとそれどころではないのだろう。
「へぇ、開けとくれよ。この間の薬をたんと持ってきたんだ。また買っておくれよ。あんたみたいに金払いがいい人は他にはおらんしなぁ」
「こちらの方角に脱獄犯が逃げ込んだ。中を確認させてもらおう」
やめろ開けるな、と叫ぶ滋の声が聞こえる。
「へへへ。それに今日はここで子肝が取れるって、教えてくれたじゃないか。さぁ、子どもはどこだい?」
滋の顔は土気色になっている。
双樹は後ろをふり返ることなく、笹生を肩の上に立たせて、木の枝につかまらせた。
自分も枝に手をかけて、ひょいと上る。
「早瀬さん。急いで」
「おい、いたぞ。あいつが脱獄犯だ」
枝の上に立つ双樹を見つけ、警官達が向かってくる。
一晩中池に入らされていたという早瀬は体力が落ちてしまっているらしく、幹をのぼることもできない。
「私はここで。もう十分です。双樹さまと笹生さまご兄弟が幸せでいらっしゃるなら、それで。あなたが望んだ家族を、どうぞ大事になさってください」
早瀬は、双樹の手をふり払った。
なんだよ、それ。
何年間もずっと復讐の機会を狙っていたくせに、なんでそんな簡単にあきらめるんだ。
あなただって幸せになる権利はあるのに。
腕を伸ばして、再び早瀬の腕を掴む。
絶対に離すもんか。
まだ治らぬ親指が激しく痛み、双樹はぎりっと歯を食いしばった。
「兄ちゃん、がんばって」
「おう、兄ちゃんを信じろ」
双樹は両手で早瀬を引っぱり上げようとする。その背後で笹生が兄の腰にしがみついて、力を貸す。
「どうしてあなた達は、そんなに」
「三人で暮らせる場所を探そう。おたずね者の俺と来てくれる気があるのなら」
「あ、ありますっ」
早瀬はいつになく動揺した様子で、早口で答えた。
だがそれは隠しておきたい本音だったらしい、すぐにしまったという風に顔をしかめる。
「早瀬さん、下の名前を教えてくれないか? じゃないと本音が聞けない気がする」
「あれー? ポケットから、何か出てるよ」
笹生に指摘され、枝の上に這いあがった早瀬は慌ててポケットを探った。
それは小さく折りたたまれた紙だった。
濡れないように油紙に包まれている。
「お父上の恩義だけが私の動く理由ではないと申しました。これが、私の生きる支え。希望でした」
双樹は手渡された油紙を開き、中のしわくちゃになった古い紙に目を通した。
「これは」
――ぼくは、そうじゅです。あなたとあそべる日を楽しみにしています。
なんて下手くそな文字。双樹は鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなった。
「これは、俺が兄さんになる人に書いたものだ」
そうか、父さんはちゃんと届けてくれていたんだ。
今にも溢れそうになる涙をこらえ、手紙を早瀬に戻す。
「この手紙をいただいてから、ずっと深町家の一員になることを待ち焦がれていました。双樹さん、私の名前は羽矢世です」
「名字と同じだ」
「家族に見捨てられたときに、本当の名字は捨てました。心だけでも旦那さまの息子でいられたらと、姓は空白のままで。ただ不便なので、名前の漢字を変えて姓として名乗っていたのです。もうその日が来ないと分かっているのに……未練ですね」
「来るよ。その日が来たんだ。羽矢世兄さん」
「私を兄と呼んでくださるのですか?」
「だって、俺もずっと楽しみにしていたから」
だから三人で行くんだ。自由な土地へ。
おびえることなく暮らせる地へ。
双樹は笹生を抱きかかえると、塀から道へと飛び降りた。
そして片手を上げて、早瀬を招く。
白い入道雲の浮かぶ、鮮やかな夏の青空を背景に早瀬は飛んだ。




