7-1
「早瀬さんっ、早瀬さんっ」
鶴原家の庭で、笹生はぐったりとした早瀬の体をゆすった。
びっしょりと濡れた服が体に張りつき、肌を刺すような日差しが照りつけているのに。
早瀬の肌は冷えきってしまっている。
「誰か、毛布を持ってきてよ。このままじゃ早瀬さんが」
笹生が叫んでも、使用人たちは互いの顔を見合わせるだけで、動いてくれようとはしない。
居間の窓から、滋が庭を眺めているからだ。
笹生は邸に飛び込んで、二階へと駆け上がった。
耳の奥で、昨夜の滋とのやりとりがよみがえる。
――庭師のじいさんが花の種を、池に落としてしまってな。親父の好きな花だから、早く植えないといけないんだよな。讃央、お前は親父思いの息子なんだろう? だったら拾ってやるのが筋ってもんだ。なぁに、たいしたことはない。たったの三十粒だ。
なぁ、じいさん? と、にやにやと笑う滋に問いかけられた庭師は、顔を真っ青にしていた。
夏とはいえ夜の池の水は冷たい。
ためらう笹生の身代わりを申し出たのは、早瀬だった。
池の底は泥が積もり、たとえ本当に種が落ちていたとしても、見つけられるはずなんてない。
なのに、夜が明けても水につかって探し続けてくれた。
「あっ」
丸めた毛布を抱えて階段を下りる笹生は足を滑らせた。
軽い体は、一番下まで簡単に転がり落ちた。
めくれたシャツからのぞく笹生の薄い腹には、青あざや紫に変色したあざが残っている。
「早く行かなきゃ。人は体が冷えすぎると命にかかわるって。兄ちゃんが教えてくれたことがあるんだ」
シショーの二番弟子になるんだから。兄ちゃんの弟弟子になるんだから。薬師は人を助けるためにいるんだから。
待ってて、早瀬さん。
毛布を引きずりながら玄関を出ていく笹生がつまずくたびに、使用人達が手を伸ばそうとしては、ためらいがちに引っ込める。
「……笹生さま」
「すぐにあったかくなるからね。そうだ、熱いお茶を入れてくるよ」
氷の彫刻かと思うほどに冷たい指で、早瀬が笹生の頬に触れる。
池の濁った水が目に入ったのか、早瀬の目は真っ赤になっていた。
「お休みになっていないのではないですか?」
「ね、眠れるわけないよ」
「いけませんね。健康第一ですよ」
今にも壊れそうにはかなげな笑み。
もしかして早瀬さんは、そんなに強い人ではないのかもしれない。
(単なる恩返しで、兄ちゃんやぼくのことを考えているのではなくて。ぼくら二人が、早瀬さんにとっての帰りたい場所なのかもしれない)
以前、早瀬に家族になれないのかと尋ねた時に、そんなことは考えたことはないと言っていた。
深町の旦那さまにうれしい言葉をもらったけれど、忘れていたとも。
「あのさ、兄ちゃんの父ちゃんは、早瀬さんを息子にしようとしていたの?」
藪から棒ですね、と呆れながらも早瀬は目を細めた。
「その約束は無効になりましたよ。旦那さまがお亡くなりになりましたから」
考えたことがないんじゃなくて、考えてはいけなかったんだ。叶うはずのない夢だから。
双樹よりもずっと背が高くて、しっかりとした大人であるはずの早瀬が、まるで行き倒れた迷子のように思えた。
「まだ全然、揃っていないぞ。三十粒にはほど遠い」
居間の窓から、殴りつけるような滋の声が聞こえる。
寝間着の上にガウンをはおり、滋だけが朝になっても夜の気配を引きずっている。
「無理だよ。続きはぼくが見つけるから、それでいいでしょ?」
「笹生さま。私が」
青白い手が、立ち上がろうとする笹生の手首を握る。
「いいや、早瀬にやってもらおう。こいつは親父の命を狙う極悪人だからな。鶴原の当主に歯向かうとどうなるか、しっかりと覚えておいてもらおうじゃないか。これに見覚えがあるだろう?」
滋は四角い袋を掲げもった。
丸で囲まれた「蘭」の一字、その袋の中から小分けにされた三角の薬包を取りだす。
「腎臓の病に効く熊胆を勧めておきながら、こいつは親父の病にとっては毒も同然の塩を混ぜていたんだ。じわじわと親父が弱っていくのを、ほくそ笑みながら待っているんだろうさ」
「塩など、入れておりません」
答える早瀬の声は弱い。
笹生ははっとした。
確か早瀬の仕事部屋に、薬袋と塩のような結晶の入った瓶が置かれてはいなかったか。
まさか本当に早瀬さんが?
おびえる瞳で見てしまったのかもしれない。
早瀬は、毛布の陰で目を伏せた。
「まぁいい。警察に連絡を入れさせた。じきにこいつも捕まるだろうさ。讃央を拾ったという、薄汚い男と一緒に監獄にぶちこまれるがいい」
耳の奥にへばりつくような、がさついた笑い声だった。
「違うっ。早瀬さんは、そんなことはしない。ぼくは信じてるもん」
笹生が声を張りあげると、早瀬はなぜか泣きそうに顔をゆがませた。
◇◇◇
追いかけてくる警官から逃れて、双樹は朝まで家と家との間のすきまに身を隠した。
狭い地面はじめじめとしてシダやどくだみが生い茂っていた。
監獄と警察は隣接している。すぐに脱獄の知らせが届いたに違いない。
「これじゃあ笹生と会えても、長屋に戻るわけにはいかないな」
また住み慣れた家を失うのか。
ふっと双樹は息をついた。
だが不思議なことにかつて邸を出ていった時ほどの喪失感を覚えない。
(そうか。あの時と違って、一緒にいてくれる人がいるからか)
一人ではないと。待ってくれている誰かがいると知っているから。
双樹はかがみこんで、足下に咲くどくだみをつみとった。
葉には朝露が宿っている。
生の葉をすりつぶしたものは湿疹やかぶれに効き、乾燥させたものは十薬といい、血管を強くしたり、毒下しの妙薬ともいわれている。
他にどんな効能があっただろう。
「師匠からもらった本、まだちゃんと覚えていないのにな」
指でくるくると回す白い花の向こうに、咲き誇る薄紅の桜の花が見えた気がした。
はっとして顔を上げるが、目の前にあるのは強いにおいを放つどくだみと、苔むした木の壁があるだけだ。
細長く狭い空には、夏雲が浮かんでいる。
どこにいても、きっと見上げれば空はつながっている。
「行こう」
深緑の草の中を双樹は進んだ。
道は光にあふれ、茶色いはずの道も白く見えるほどだ。
その光の中を、まるで闇を人型に切り取ったかのような影が歩いている。
「へぇへぇ、急がにゃ。今が稼ぎ時だもんなぁ」
こいつは。
双樹は、足の甲を地面に釘で打ちつけられたかのように立ちつくした。
子肝取りだ。
逃げなくてはと思うのに、体が動かない。
だが男はとろんとした目で双樹を一瞥すると、興味なさそうに歩きだす。
覚えていないのか?
記憶にあるのと同じ猫背、けれど髪には白いものがずいぶんと増えた後ろ姿で、男は坂を上っていく。
あっちは岡方町だ。
体よりも気持ちが先に進む。
つんのめり、ころびそうになりながら、双樹は駆けだした。




