6-3
その夜から、双樹は看守の目を盗んで窓の格子を外しはじめた。
鉄格子は一般的ではなく、この監獄では木製の格子がはめられている。
カミソリの薄い刃はもろく、格子に当てる角度がずれると、すぐに刃こぼれしてしまう。
窓を開けても、廊下に面した扉は閉ざされたままなので、風は独房を吹き抜けることがない。
夜になっても室内の熱気はこもったままで、汗がしたたり落ちた。
隣や向かいの独房から、派手ないびきが聞こえてくる。
(作業できるのは夜の間だけなんだから、休んでいる場合じゃない)
今も笹生や早瀬は、鶴原滋に苦しめられているかもしれないのだ。
かつかつと廊下を歩く足音に、慌ててカミソリを隠す。
看守の巡回の時間だ。
布団を敷けばそれだけでいっぱいになる狭い部屋。
まだ汗も引いていないのに、双樹は布団にもぐりこんだ。
扉の小窓が開き、看守が手にした明かりが室内を照らす。
早く立ち去ってくれ。
そう願っているのに、明かりは隅々までを確認するように動く。
ようやく小窓が閉じ、足音が遠ざかった。
はぁぁ、と双樹は長い息を吐き、再び起きだした。
次の巡回まではかなり時間があるはずだ。
少しでも作業を進めておかないと。
(刃だけだから、難しいんだよな。棒みたいなものをつけて、のこぎりのようにすれば、もっと切りやすいかもしれない)
棒はほどなく入手できた。
最初の頃は嫌がらせで箸を貸してもらえなかったが、今は普通に使用できる。
どうやら看守の中に、新人の囚人をいびる奴がいるらしい。
とはいえ、箸を返さないでいると不審に思われる。
そうだ。
粥とみそ汁の朝食をとっていた双樹は、ふと思いついた。
「ああっ。しまった」
しらじらしいくらいに大声を上げると、すぐに看守が飛んできた。
「どうしたリの九番」
「済みません。箸を落としてしまいました」
「拾えばいいだろうが。大げさな」
ばかばかしいと看守が顔をしかめる。双樹は情けない様子を装って肩を落とした。
「両手の親指が使えないから、上手く食べられなくて。箸が床ではね返って、二本とも厠に落ちてしまったんです。どうしましょう。拾うといっても無理ですよね」
看守は見たくないという風に顔を背けた。
監房の端の床には穴があいていて、そこがそのまま厠になる。
用を足す場所の至近距離で食事をしたり、眠ったりすることに最初は抵抗があったが。
人というのは、案外環境に適応してしまうものだ。
とはいえ、においばかりはどうも慣れないが。
「さじを貸してもらえませんか」
「そんなものはない。むぅぅ、待っていろ。別の箸を用意させるから」
看守が背中を向けたとたん、双樹は「やった」と心の中で歓声を上げた。
これで箸が手に入った。
カミソリの刃を重ね、米粒を糊にして箸にくっつけ、手ぬぐいを裂いた布でさらに固定すれば、のこぎりの出来上がりだ。
夜ごと、双樹は脱獄の準備を進めた。
「深町さん、具合が悪いんですか? 顔色も悪いし、やせたのでは?」
風呂に入りにいく双樹に、浦が声をかけてくる。
くり返される暴力にも屈することのない双樹への拷問は、このところ目に見えて減っていた。
幸いといっては変だが、犯罪者が多いせいで拷問吏も忙しいのだろう。
「傷が痛むんじゃないですか。膿むといけないから、消毒しましょうか」
「平気です。差し入れてもらった薬がありますから」
双樹は早々に話を切りあげた。
のんきにしゃべっていたら、五日ぶりの風呂に入りそこねてしまう。
監獄の風呂は、長細い湯船が二つある。
一度に入浴するのは十五人。
他の囚人は体も大きく、背中に竜や牡丹の入れ墨がある者もいる。
「お前、ひょろっこいなぁ。あばら骨が見えてるじゃないか」
隣にいた男に額を小突かれて、双樹はよろめいた。
その様子を見て、皆が笑った。
がっしりとした男たちの中で、双樹がもっとも若く、誰よりもやせている。
入浴は、看守の号令によって湯船に入ったり体を洗ったりする時間が決まっている。
風呂につかり、体を洗い、またつかり、洗顔。それらのすべてが三分刻みだ。
最初は体を洗いきらぬ内に、号令がかけられたものだが、今では双樹も手際よくこなすことができている。
(でも、せわしないよな。笹生とゆっくり銭湯に行っていた頃が懐かしいよ)
手ぬぐいで背中を洗いながら、双樹は時間を計る看守をちらりと見た。
今夜には、窓に双樹が通れるくらいの幅ができる。
折ることの出来た格子は、米粒をつぶして糊にして上下をくっつけている。
簡単には見破られないはずだ。
この日のために、食事を残して体重を落としたのだ。
(出るんだ、外へ)
夜更け、双樹は巡回の足音が遠ざかるのを、布団の中でじっと聞いていた。
一度見回りに来たら、次は十五分後だ。
急いで窓辺に向かい、格子を二本外す。
布団は空であることがばれぬように膨らみをもたせ、格子と格子の狭い隙間に頭を突っ込む。
体が細くなっているので楽勝と思われたが、肩が引っかかってしまった。
自分では気付かなかったが、思いのほか肩幅が広いらしい。
体の向きを変えて、肩を上下の位置にしてなんとかねじこむ。
するりと体は抜けた。
あとは手に持った折れた格子を元に戻せばいい。
安心して気をゆるめたせいか、手から一本の格子がすり抜けてしまった。
かたーん。かたん、かたん。
闇夜に硬い音が響きわたる。
しまった。双樹の体は凍りついた。
「何の音だ」
看守の叫び声を背に、双樹は窓から外へと飛び降りる。
だが背中の傷が引きつったせいで、無理な体勢で着地をしてしまった。
歩こうとすると足首に激痛が走る。
(ちくしょう。これじゃあ走れやしない。どうやって逃げればいいんだ)
「リの九番がいないぞ。脱獄だ」
さっきまで入っていた独房で、明かりがいくつも動いている。
「あの若造が逃げたのか」
「おおぅ、やるじゃねぇか」
異変に目を覚ました囚人たちの、興奮した声が聞こえてくる。
双樹は這いながら、低木の茂みにすべりこんだ。
膝を抱えて背中を丸めていると、目の前の地面を看守の足がせわしなく通り過ぎていった。
どうか気付かないでくれ。
きつく瞼を閉じて願い続ける。
子肝取りから逃げた夜のことが、一瞬頭をよぎった。
あの時も同じように木の下に隠れていたのだ。
だが双樹の目の前で、看守の足が止まった。
突然、頭上の葉が動いたと思うと、何かが双樹の鼻をかすめた。
双樹のすぐ前の地面に刺さっていたのは、棒だった。
「この辺りにでも隠れているんじゃないか?」
再び棒が突き立てられる。
双樹の不安をあざ笑うかのように、次々と棒が襲ってくる。
そのたびにわずかに足の位置を変えたり、体をずらしてやりすごした。
(このままでは、らちがあかない)
双樹は地面にうつぶせになった。
苔むした、ほこりっぽいにおいが鼻をかすめる。
上は枝が張っているのでろくに手を動かすこともできないが、下の方は幹の間の空間がある。
(うまく飛んでくれよ)
願いを込めて、折れた格子を遠くへ投げる。
こつん、と音がした。
看守たちは「いたぞ」と叫びながら、走りだす。
双樹は看守達とは反対の方向へ進んだ。
絶対に失敗はできない。
脱獄できなければ、きっと鎮静房に押し込まれる。
窓すらなく、真っ暗な中で昼も夜も手錠をかけたまま過ごさなければならない。
監獄から出ることなんて、到底できなくなる。
(笹生。兄ちゃんがすぐに行くからな)
辺りに人がいないことを確認し、茂みから抜け出しながら、監獄の敷地を頭に思い描く。
塀を乗り越える足場になるものはなかったか?
重く淀んだ空気の中を泳ぐように、双樹は走った。
だがずっと食事を減らしていたせいで、すぐに膝ががくりと折れる。
しまった。
前のめりに倒れかけ、とっさに体をひねって背中から地面にぶつかった。
鞭打たれた傷をしたたかに打ちつけ、その痛みにうめき声が洩れる。
慌てて、震える手で囚人服の懐に手を入れる。
(よかった、無事だった)
くれよんの油っぽいにおい。
手で触れたところ、紙が破れた感触はない。
追われていても苦しくても、ここには光をぞんぶんに浴びた太陽の花が咲いている。
ふと、双樹は自分が普段のように汗くさくないことに気付いた。
そうだ。風呂に入ったんだ。風呂をわかした薪があるはずだ。
風呂場は監獄の端にある。
火を燃やす場所なので、火事にならぬよう主要な建物からは離してあるのだ。
浴場の外に、湯を沸かすための釜はあった。
りり、と草むらで虫が鳴いている。
空へとまっすぐにのびる煙突を、雲間から顔を出した月が照らす。
すすけた釜と無造作に積みあげられた山のような薪、そばには薪を切るための斧が置いてある。
双樹は薪の山をのぼった。
両手と両足で体重を慎重に移動させて、なんとか上まで移動する。
「ああ、外だ」
塀越しに見えたのは、懐かしい町だ。
水平線と、密集して建つ家や長屋からこぼれる明かり。
はやくおいで、と日常が呼んでいる。
「ふ、深町さんっ」
背後から投げつけられた声に、心臓がどくんと跳ね上がった。
「……なんで、あなたが見つけるんですか」
「なんでって、深町さんは具合が悪そうだったから。ずっと気にしていたんです」
「俺が、あなたよりも不幸そうだから気にかけていたんでしょう?」
浦は暗がりでもわかるほどに、かっと顔を赤く染めた。
「ああ、図星ですか。単に弱い仲間がほしかっただけなんですね」
いらいらする。
なんでこんな意地の悪い言葉を投げつけているんだ。
こいつが追いつきさえしなければ、せいせいとした気分で出て行けたのに。
「脱走するんじゃなくて、堂々と門から出獄してほしいんです。こんな方法だと、あなたは脱走犯として生涯追われる身になるだけです」
「うっとうしい」
双樹は舌打ちした。
だからこいつが苦手なんだ。監獄という環境に不似合いなほどにひょろひょろしているのに、強くまっすぐな気持ちをぶつけてくるから。
浦は薪の山に登ろうとして、何度も足をすべらせた。
「だめです、深町さん。戻りましょう」
青白い手が、双樹に向かって伸ばされる。
「さっさと消えてください。俺のことは見逃した方が、あんたのためなんだ。看守の目の前で囚人が逃げたら、あんただって責任を負わされるに違いない。俺なんかに関わったってろくなことはないんだ」
双樹の足首を掴もうとした手を、浦は止めた。
今にも目玉がこぼれそうなほどに瞠目している。
「僕の身を案じてくれるんですか」
「どこまでめでたいんだ。看守のことを心配する囚人なんて、いるはずがない」
「いるじゃないですか。僕の目の前に」
踏んばっていた力が抜けたのか、浦の足下で薪ががらがらと音を立てて崩れた。
まるで雪崩に飲み込まれるように、浦の体がうずもれていく。
「浦さんっ!」
塀の上にしがみついていた双樹は、思わず手を差しのべた。
だが浦に届くはずもない。
あいてて、と頭を押さえながら、浦は薪の中から顔を出した。
「初めて、僕のことをちゃんと呼んでくれましたね」
「あんたが俺のことを番号で呼ばないから。それが移っただけです」
薪に溺れそうになりながらも、浦はとてもうれしそうに笑った。
その晴れやかな顔を見て、双樹は悟った。
監房に戻れと促していた浦ですら、迷いの中にいたのだと。
看守としての立場と、拷問を止める事のできない状況に浦自身も悩んでいたに違いない。
「深町さんに、幸いがありますように」
浦は仮面をかぶっているんじゃなかった。
本当のお人よしだ。それも超がつくくらいの。
双樹は唇をかみしめて、夜空を仰いだ。
でないと薪に埋もれてもがいている浦に、泣いているのがばれそうだったから。
優しい人の手をふりはらって逃げるんだ。絶対に幸せにならなくちゃいけない。
双樹は塀から身をひるがえした。




