6-2
「あの、深町さん。面会の人が来ていますが」
独房の扉についた小窓を開けて、看守の浦が覗きこんでくる。
また早瀬が来たのだろうか。双樹はため息をこぼした。
「会わなくてはいけませんか」
「え、それは、その。断ることもできますが」
「背中が痛いので、歩くのがつらいんです」
そっけなく言ってやると、浦は泣きそうに眉を下げた。
昨日、鞭で打たれたせいで、背中に無数のミミズ腫れができてしまっている。
皮膚が裂けて血がにじんでいる部分もある。
呼吸をするたびに背中と、まだ治らない親指もじんじんと痛む。
「あの、僕でよければ手を貸しましょうか」
浦が差しだした手を、双樹は払いのけた。
罪人に優しくする看守が、いったいどこにいるっていうんだ。
いいかげん仮面を外せばいいのに。
こちらが気を許して自白するのを待っているんだろう。
「放っておけよぉ。そこの兄ちゃんは、会いたくないって言ってんだろ」
向かいの部屋からヤジが飛ぶ。
それに反応するかのように、浦を小馬鹿にしたり、双樹のことを贅沢だと文句を言いはじめる囚人もいた。
「えっと、静かにしてください」
浦は、右や左に走り、後ろにも声をかける。
だが、それは注意というよりも、お願いにしか聞こえなかった。
「こらっ。何を騒いでおる。浦、またお前か。静かにさせんかっ」
中央の監視室にいた看守がとんできた。
囚人達は一斉に静まりかえり、浦だけがぺこぺこと頭を下げて謝っている。
双樹は、そんな浦の姿を冷めた目で眺めていた。
「深町さん。規則なので腰ひもをつけないといけませんが。その、僕が支えますから、やっぱり面会室に行きませんか」
「看守さんは拷問を受けたことがないから、分からないでしょうね。あなたが俺の立場なら、ぼろぼろになるまで痛めつけられた姿を、知り合いにさらしたいと思いますか。今の自分を知人に見られることが恥ずかしいとか、想像もつきませんか?」
浦は言葉を失った。双樹は彼に背中を向け、中指の爪を噛む。
看守なら看守らしく、ただ威張っていればいいんだ。
浦には情けをかけられ、そのくせ拷問は続き、またこいつに手当をされ、いたわられる。
もう自分が人なのか物なのか、わからなくなる。
浦といると混乱する。いらいらするんだ。
「それでも」
今にも消え入りそうな声で、浦は話しだす。
「それでも、深町さんのことを心配して来てらっしゃるんです。顔だけでも見せてあげて……あっ、えっと、その声だけでも聞かせてあげてください」
「誰が来ているって? 顔を見せるのではなく、声を聞かせろって言いましたよね」
双樹は立ち上がった。
浦の襟首に掴みかかるためだ。
なのに体の痛みによろけた双樹を、浦は細い腕で支えてくる。
「僕は面会者の名簿は見ていないので、名前は分かりませんが。杖をついた娘さんです。どうやら目が見えない様子で」
なんてことだ。
師匠と一緒ではなく、たった一人でやってきたのか。
歯を食いしばりながら、双樹は壁に手をついて歩きだす。
「待ってください。腰ひもを」
「さっさとつければいい。俺は行く」
桜花のことは、ずっと考えないようにしていた。
彼女だって、罪人とはもう会いたいとも思わないだろうと、自分の気持ちに蓋をして。
琵琶の仕事に行くときだって、いつも師匠に付き添ってもらっているっていうのに。
こんな遠いところまで、目の見えない彼女が一人で歩いてくるなんて、無茶だ。
(もしかして、どうしても俺に伝えなければならないことあるのか)
段差につまずき、双樹は転んだ。
まだ骨折の治らない両手を廊下につくのを、無意識に避けてしまい、顔面から床に激突しそうになる。
けれど顔にあたったのは硬い床ではなく、布だった。
確認すると双樹の体の下に、浦が体を滑り込ませていた。
どうやら浦の背中の上に倒れたらしい。
「あいててて。深町さん。大丈夫ですか」
「あんた、どこまでお人よしなんですか」
「そうだ。腰ひもをつけなくちゃ」
慌ててひもを取り出す浦を見て、双樹は吹きだした。
一度笑いだすと、後から後から笑いが込みあげてくる。
背中が引きつって痛むが、双樹は肩を揺らして笑い続けた。
「あの、深町さん? えっと、よかったらこれを。洗っているのできれいですよ」
左手にひもを持ったまま、浦は右手で白い手ぬぐいを差しだしてきた。
少しごわついた布を目元にあてられて、初めて双樹は自分が涙を流しているのだと分かった。
心の奥の、泥水を凍らせたような氷が、溶けていく気がした。
双樹が面会室に入ると、桜花が立ち上がった。
長い髪は乱れ、汗をかいた顔に張りついている。
見れば足袋もぞうりも、土で汚れてしまっている。
「無理しちゃだめだ、桜花さん」
「それはこっちの科白だわ。怪我をしているのね。血と、消毒薬のにおいがするわ」
「ちょっと転んだだけだ。どうってことない」
桜花の顔に不安げな表情が浮かぶ。
双樹の隣で会話を書きとめている浦が、申し訳なさそうに眉を下げた。
彼が双樹を拷問しているわけでもないのに。
「姉さんと一緒に鶴原家に行ったの。お薬を買いにいらっしゃる早瀬さんが、全然お見えにならないから。もうお薬は切れているはずなのにって」
「快方に向かって、薬が不要になったのかもしれないじゃないか」
「ええ。それならいいんだけど。私も、姉さんにそう言ったの。でも、姉さんは気になるから行ってみるって」
「笹生には会ったのか?」
桜花は首をふると、胸の前で左右の手をきゅっと握りしめている。
「寝込んでいるって、聞いたわ。夏風邪なのか、それともはしかや風疹なのかって姉さんがたずねても、早瀬さんは違うっておっしゃって。でも早瀬さん、今の双樹さんと同じにおいがしたの」
血と消毒薬。
双樹は息を飲んだ。
「姉さんが見た感じでは、早瀬さんはどこも怪我もしていないし、いつもどおり背筋を伸ばして動きもきびきびしていたらしいわ。でも、私には分かるの。双樹さんと同じで、口にしたくない怪我だって」
言いにくそうに、桜花はゆっくりとしゃべった。
「見えるわけではないのに、皆が隠しておきたいことが私には分かってしまう。なのに、どうすることもできないの。鶴原滋の悪い噂と早瀬さんの怪我のことを考えると、きっと早瀬さんは、鶴原滋に暴力をふるわれているんだわ」
きっと早瀬は、笹生を守って傷を負ったのだろう。
初めて会った時の幼い笹生も、傷だらけだった。
そして「お兄さま」が迎えにきてくれないと言っていた。
ああ、そうだったのか。
双樹は納得した。
笹生を子肝取りに売ったのも滋なら、虐待していたのも彼だ。
笹生が無事に成長して戻ってきた今、滋が何もせずにいるはずがない。
「ごめんなさい、双樹さん。こんなことを伝えに来て。姉さんには止められたわ。双樹さんに心配をかけるだけだから、面会に行くなって。でも、でも私」
唇を震わせる桜花に、思わず双樹は手を伸ばした。
彼女の肩にふれようとして、親指の包帯の白さに目がとまる。
この包帯のにおいも、桜花は気づいてしまう。
けれど隠してどうなる。
心配してくれている人に、大丈夫だと嘘をついて。
優しさで騙したとしても、勘の鋭い彼女が納得するはずないのに。
双樹は一度止めた手を、桜花の肩に置く。そしていたわるように、何度もきゃしゃな肩をなでた。
「いや、知らないでいるよりも知らせてくれた方が助かる。桜花さん、もし今度、笹生と早瀬さんに会うことがあったら、伝えておいてくれないか? 絵をありがとう。大事にしているからって」
今こそ、託されたカミソリを使う時だ。
早瀬は分かっていたに違いない。いずれ笹生を守りきれなくなると。
双樹の父の会社を潰し、両親を死に追い込んだ奴に対し、復讐すると早瀬は言っていた。
それと同じくらい残された双樹と、兄弟として生きてきた笹生のことを大事に思ってくれている。
早瀬は、双樹が暮らしていた家を取り戻そうとしたのだろう。
鶴原の手に渡った、深町の邸を。
(鶴原が……笹生の父親こそが、俺の両親を追いつめた本人なんだ)
ふと、暗い影が心をよぎった気がした。
笹生を親の元へ戻し、双樹を笹生の家庭教師として鶴原の家に迎える。
それが早瀬の真に望むこととは思えない。
「これを、姉さんから預かってきたの。差し入れですって」
ようやく落ち着いたらしい桜花が、巾着のひもをほどく。
中から蘭花手製の薬を取り出して、机の上に並べていくのを、浦が一つ一つ確認する。
「えっと、すみませんが、これはなんです?」
一番端の容器を、桜花は手にして鼻に近づけた。
「たぶん、傷を治す軟膏ね。これは目洗薬だわ、入れ物がハマグリの貝殻だもの」
ふんふんと納得しながら、浦が中をあらためる。
「なんで師匠は救命丸まで入れてるんだ? これって、夜泣きの薬だぞ」
「あら。姉さんにとっては、双樹さんは今でも子どもなのね」
ふふっと、桜花が楽しげに笑う。
ひさしぶりに見た彼女の笑顔は、空気のよどんだ監獄にすらも、柔らかな風をさそう。
そりゃあ確かに、弟子入りしたての頃はよく泣いていたけど。
いつの話なんだか。




