1-2
「あれあれ、遅いお帰りだこと」
長屋の引き戸を開くと、中から白い煙がふわぁっと流れでてきた。
「師匠」
「おや、いいにおい。田楽に魚かねぇ?」
土間の壁に背中をもたれて立っていたのは、あでやかな女性だ。
江戸時代からそのまま抜け出てきたかのような、結い上げた日本髪に蝶の模様の着物。真っ赤な紅を引いた唇には、細長いキセルをくわえている。
師匠の五条蘭花に歳を尋ねたことはないけれど、二十代と言われても、四十代と言われても、納得できる気がする。
「腹が空いたよ。夕餉にしてもらおうか。今日は桜花は仕事先で、およばれなのさ」
「何言ってんですか。いきなり来られても二人分の用意しかないですよ」
「おやまぁ、つれないねぇ。あたしゃ、これでもあんたの先生なんだよ」
くっくっく、と蘭花が笑う。こんなけばけばしい薬師なんか、きっとどこを探してもいやしない。
「シショー、シショー。ぼくの魚を半分こしてあげる」
蘭花に会って機嫌のなおった笹生は、ぴょんぴょんと跳びはねる。
後ろでひとつに結んだ、まだ短い髪も、笹生の動きに応じて揺れている。
「笹生はいいんだよ。育ち盛りだからね、たんと食べな」
「それって、俺の晩飯を狙ってるってことですか」
「おや、察しがいいじゃないか」
ぷかぁ、と煙を輪っかにして目の前で吐かれたので、双樹は咳き込んでしまった。
「まったく、いつだって自分勝手なんだから。迷惑なんですって」
「ほーぅ? 師匠に対してえらそうな口をきくもんだ」
双樹は口をとがらせながらも、夕餉の献立を考えた。
朝に炊いたご飯は硬くなっているので、雑炊にするのがいいだろう。水を増やせば、三人分にはなるだろうか。
味噌汁を作り、雑炊が煮上がると、笹生は薄っぺらい座布団を三枚、床に並べた。その中央に双樹は湯気の立つ鍋と椀に箸、買ってきたおかずを置く。
「あたしの器はいいからね。なぁにちゃんと持参しているのさ。用意がいいだろう」
蘭花は自分の前に、漆塗りの豪華な椀と箸、それになんだか高そうな陶器の湯飲みを置いた。
双樹は笹生の分の碗をふーふーと吹いて、味噌汁を冷ましてやる。
「ちょいと弟を甘やかしすぎだよ。それにいずれ笹生も薬を学ぶんだろ。あんたが兄弟子として、いろいろ教えてやらなきゃならないんだからね。可愛がってばかりじゃいけないよ」
ほら、と蘭花は古びた分厚い本を、双樹の前に置いた。
端を紐でまとめた和綴じの古い本。表紙には墨汁で『薬草綱目』と書かれている。
「俺が借りてもいいんですか」
双樹は、ずいっと身を乗りだした。
「借りるも何も、それは双樹のもんだよ。あたしゃもう、ぜーんぶ頭ん中に入ってっからね。いつかあんたも薬草や薬になる鉱石を全部覚えて、その本を笹生にあげるんだよ。まぁ、覚えられないくらいおつむが弱いなら、丸ごと書き写して手元に残しておくって手もあるけどね」
おいおい、と双樹は肩を落とした。
暗記するにしても、丸写しするにしても、この本は頁数にして三百枚くらいはありそうだ。無茶言わないでほしいんだけどな。
笹生は味噌汁をすすると、慌てて椀から口を離して、顔をしかめた。
しまった、まだ熱かったか。これからは笹生の分は、先によそって冷ましておいた方がよさそうだ。
「そういやぁ、子肝取りがでたらしいね。怖い怖い」
「帰ってくる時に、子どもを捜している親を見かけましたよ」
「ああ、可哀想に。その子はもう戻ってこないね」
蘭花は、寂しげな目つきで笹生を見やった。
笹生は串に刺さった魚を、うれしそうにほおばっている。双樹は蘭花から目を逸らす。
この人はどこまで知っているんだ。
双樹は息を呑んだ。
--深町双樹といいます。弟が熱を出しているんです。お願い、助けてください。
双樹が蘭花に弟子入りしたのは九歳の時。
たぶん三歳になるかならないかくらいの笹生を連れて、有名な薬師の家に駆け込んだ。そのまま住むところを与えてくれて、弟子にまでしてくれたのだ。
「双樹。ものは相談だが、あたしの魚の皮とあんたの魚の身を交換しないかい?」
「なんですか、その分の悪い取引は?」
「やれ、師匠相手に交渉かい? じゃあこうしよう。奮発して骨と背びれもつけてやるよ」
食べられないところばかりじゃないか。
双樹は座布団ごとくるりと回り、蘭花に背を向けた。
「シショー、ぼくの魚をあげるねー」
「ああ、笹生は気にするこたぁないよ。未来の弟子の食事を奪おうなんて、そんな外道なことはできやしないよ」
「未来じゃなくて、現在の弟子から奪うのは良心がとがめないんですね」
双樹が口をとがらせると、蘭花はふふと目を細めて笑う。
「冗談、冗談。やっぱり食事は大勢でとるのが楽しいねぇ」
「こっちは大迷惑です」
遠くからも薬を求める人が訪れるほど、蘭花は高名な薬師だ。
(きっと常連客の大半は、師匠に人徳と品格と美徳が欠けていて、性格が非っ常に悪いってことは、知らないに違いない)
食事を終えた蘭花は、妹を迎えに行くといって立ち去った。
今夜は十五夜。窓からさしこむ月の光は、まるで昔飲んだことのあるレモンジュースみたいな色だ。
雲がなく明るい月は、ささくれた畳を照らしている。
布団の上に置かれた『薬草綱目』に、双樹はそっと手を伸ばす。薬の調剤を覚えれば、笹生にもっと楽な暮らしをさせてやれる。
「兄ちゃん、がんばるからな」
健やかな寝息をたてながら、笹生は布団を蹴とばした。
「腹を壊すぞ」
苦笑しつつ、双樹は夏布団をかけてやる。
ぽんと笹生が右腕を投げだしてきた。
その指が微かに動いている。まったく幼い頃と何も変わらないんだからな。双樹は、笹生の手を握ってやった。
きゅっと握り返してくる指。
そういえばいつもは仲よく手をつないで家に戻るのに、今日は笹生の手を引っつかむようにして連れ戻してしまった。
「ごめんな、笹生。兄ちゃん、いらついていたな」
夜空の底をなでるような波の音が聞こえる夜。
けれど耳を澄ませば、風にのって鉦と太鼓の音が、今も切れ切れに届く。
まだ三喜夫という子を捜しているのだろうか。
もう諦めたらいいのに。