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べからずの薬と隠し神  作者: 絹乃
1  薬師の弟子兄弟
2/24

1-2

「あれあれ、遅いお帰りだこと」


 長屋の引き戸を開くと、中から白い煙がふわぁっと流れでてきた。


「師匠」


「おや、いいにおい。田楽に魚かねぇ?」


 土間の壁に背中をもたれて立っていたのは、あでやかな女性だ。


江戸時代からそのまま抜け出てきたかのような、結い上げた日本髪に蝶の模様の着物。真っ赤な紅を引いた唇には、細長いキセルをくわえている。


 師匠の五条(ごじょう)(らん)()に歳を尋ねたことはないけれど、二十代と言われても、四十代と言われても、納得できる気がする。


「腹が空いたよ。夕餉にしてもらおうか。今日は桜花(おうか)は仕事先で、およばれなのさ」


「何言ってんですか。いきなり来られても二人分の用意しかないですよ」


「おやまぁ、つれないねぇ。あたしゃ、これでもあんたの先生なんだよ」


 くっくっく、と蘭花が笑う。こんなけばけばしい薬師なんか、きっとどこを探してもいやしない。


「シショー、シショー。ぼくの魚を半分こしてあげる」


 蘭花に会って機嫌のなおった笹生は、ぴょんぴょんと跳びはねる。

 後ろでひとつに結んだ、まだ短い髪も、笹生の動きに応じて揺れている。


「笹生はいいんだよ。育ち盛りだからね、たんと食べな」


「それって、俺の晩飯を狙ってるってことですか」


「おや、察しがいいじゃないか」


 ぷかぁ、と煙を輪っかにして目の前で吐かれたので、双樹は咳き込んでしまった。


「まったく、いつだって自分勝手なんだから。迷惑なんですって」


「ほーぅ? 師匠に対してえらそうな口をきくもんだ」


 双樹は口をとがらせながらも、夕餉の献立を考えた。

 朝に炊いたご飯は硬くなっているので、雑炊にするのがいいだろう。水を増やせば、三人分にはなるだろうか。


 味噌汁を作り、雑炊が煮上がると、笹生は薄っぺらい座布団を三枚、床に並べた。その中央に双樹は湯気の立つ鍋と椀に箸、買ってきたおかずを置く。


「あたしの器はいいからね。なぁにちゃんと持参しているのさ。用意がいいだろう」


 蘭花は自分の前に、漆塗りの豪華な椀と箸、それになんだか高そうな陶器の湯飲みを置いた。


 双樹は笹生の分の碗をふーふーと吹いて、味噌汁を冷ましてやる。


「ちょいと弟を甘やかしすぎだよ。それにいずれ笹生も薬を学ぶんだろ。あんたが兄弟子(あにでし)として、いろいろ教えてやらなきゃならないんだからね。可愛がってばかりじゃいけないよ」


 ほら、と蘭花は古びた分厚い本を、双樹の前に置いた。


端を紐でまとめた和綴じの古い本。表紙には墨汁で『薬草(やくそう)綱目(こうもく)』と書かれている。


「俺が借りてもいいんですか」


 双樹は、ずいっと身を乗りだした。


「借りるも何も、それは双樹のもんだよ。あたしゃもう、ぜーんぶ頭ん中に入ってっからね。いつかあんたも薬草や薬になる鉱石を全部覚えて、その本を笹生にあげるんだよ。まぁ、覚えられないくらいおつむが弱いなら、丸ごと書き写して手元に残しておくって手もあるけどね」


 おいおい、と双樹は肩を落とした。


 暗記するにしても、丸写しするにしても、この本は頁数にして三百枚くらいはありそうだ。無茶言わないでほしいんだけどな。


 笹生は味噌汁をすすると、慌てて椀から口を離して、顔をしかめた。


 しまった、まだ熱かったか。これからは笹生の分は、先によそって冷ましておいた方がよさそうだ。


「そういやぁ、()(きも)()りがでたらしいね。怖い怖い」


「帰ってくる時に、子どもを捜している親を見かけましたよ」


「ああ、可哀想に。その子はもう戻ってこないね」


 蘭花は、寂しげな目つきで笹生を見やった。

 笹生は串に刺さった魚を、うれしそうにほおばっている。双樹は蘭花から目を逸らす。


 この人はどこまで知っているんだ。

 双樹は息を呑んだ。



--深町双樹といいます。弟が熱を出しているんです。お願い、助けてください。


 双樹が蘭花に弟子入りしたのは九歳の時。


 たぶん三歳になるかならないかくらいの笹生を連れて、有名な薬師の家に駆け込んだ。そのまま住むところを与えてくれて、弟子にまでしてくれたのだ。


「双樹。ものは相談だが、あたしの魚の皮とあんたの魚の身を交換しないかい?」


「なんですか、その分の悪い取引は?」


「やれ、師匠相手に交渉かい? じゃあこうしよう。奮発して骨と背びれもつけてやるよ」


 食べられないところばかりじゃないか。


 双樹は座布団ごとくるりと回り、蘭花に背を向けた。


「シショー、ぼくの魚をあげるねー」


「ああ、笹生は気にするこたぁないよ。未来の弟子の食事を奪おうなんて、そんな外道なことはできやしないよ」


「未来じゃなくて、現在の弟子から奪うのは良心がとがめないんですね」


 双樹が口をとがらせると、蘭花はふふと目を細めて笑う。


「冗談、冗談。やっぱり食事は大勢でとるのが楽しいねぇ」


「こっちは大迷惑です」


 遠くからも薬を求める人が訪れるほど、蘭花は高名な薬師だ。


(きっと常連客の大半は、師匠に人徳と品格と美徳が欠けていて、性格が非っ常に悪いってことは、知らないに違いない)



 食事を終えた蘭花は、妹を迎えに行くといって立ち去った。


 今夜は十五夜。窓からさしこむ月の光は、まるで昔飲んだことのあるレモンジュースみたいな色だ。

 雲がなく明るい月は、ささくれた畳を照らしている。


 布団の上に置かれた『薬草綱目』に、双樹はそっと手を伸ばす。薬の調剤を覚えれば、笹生にもっと楽な暮らしをさせてやれる。


「兄ちゃん、がんばるからな」


 健やかな寝息をたてながら、笹生は布団を蹴とばした。


「腹を壊すぞ」


 苦笑しつつ、双樹は夏布団をかけてやる。

 ぽんと笹生が右腕を投げだしてきた。

 その指が微かに動いている。まったく幼い頃と何も変わらないんだからな。双樹は、笹生の手を握ってやった。


 きゅっと握り返してくる指。


 そういえばいつもは仲よく手をつないで家に戻るのに、今日は笹生の手を引っつかむようにして連れ戻してしまった。


「ごめんな、笹生。兄ちゃん、いらついていたな」


 夜空の底をなでるような波の音が聞こえる夜。


 けれど耳を澄ませば、風にのって鉦と太鼓の音が、今も切れ切れに届く。

 まだ三喜夫という子を捜しているのだろうか。


 もう諦めたらいいのに。




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