6-1
かすかに風鈴の音がする。
机越しの窓から、笹生は海を見下ろしていた。
暮らしていた長屋も視界に入っているはずだが、どの建物も小さい上に密集しているので、区別がつかない。
今までは、あの中のどこかに兄ちゃんがいると思うことができた。
いつか兄ちゃんが、家庭教師として来てくれると信じていたのに。
「讃央さま。漢字の書き取りに戻りなさい。ぼうっとしている暇などありません」
「ご、ごめんなさい」
「謝るくらいなら、最初から集中しなさい。まったく国語もろくにできぬ子に、フランス語に英語も教えろとは。ここの旦那さまは無茶をおっしゃる」
家庭教師は、はぁと大げさなため息をつく。名前は聞かされたけど、覚えていない。
(兄ちゃん……親指を怪我してた)
早瀬に連れていかれた高いレンガ塀に囲まれた建物が何だったのか、笹生には分からない。
会えるのはたった三十分。それも二人きりで話をするのは許されなかった。
ようやく勉強時間が終わった。
扉を開けて礼をする早瀬に、家庭教師はふんと鼻を鳴らして部屋を出ていく。
「兄も兄なら、弟も弟だ。出来が悪い者に何を教え込んだって無駄だというのに」
早瀬は反論するでもなく、ただ家庭教師を見送っている。
笹生は椅子から飛び降りると、早瀬の元に走った。
「あの人っ、兄ちゃんの悪口を言ったの?」
体当たりしながらしがみつくと、早瀬はよろけながらも笹生を腕で支えてくれた。
「さきほど、原田先生がおっしゃっていたのは、滋さまのことと思われますが。原田先生は、滋さまが高等学校の折の後輩だそうです」
なんだ、兄ちゃんのことじゃなかったんだ。笹生の体から力が抜けた。そんな笹生を、早瀬が困ったように見つめている。
「笹生さまを侮った発言をなさっておりましたよ?」
「別にそんなの構わないよ。だって、ぼくが勉強できないのは、あたってるもん」
「堂々と開き直られても、世話係としては困るのですが」
早瀬が本当に困ったような表情を浮かべたので、笹生は小さく笑った。
「ねぇ、また兄ちゃんに会いに行こうね」
「笹生さまは、へこたれない方ですね」
「兄ちゃんが、ぼくのことを迷惑って言ったこと? そんなの平気だもん。だって兄ちゃん、シショーにだって迷惑だって怒ってるもん。それでも兄ちゃんはシショーのことが大好きなんだ」
笹生の言葉を聞いて、早瀬は急に顔をほころばせた。
いつもの冷たそうな表情が、水で流したように消えてしまう。本当は優しくて、温かい人なんだって分かる。
(たぶん、早瀬さんは兄ちゃんのことをとても大事にしてる。それと同じくらいぼくことも、考えてくれてる)
シショーや桜花がそうであるように。
「やっぱり早瀬さんの傷、兄ちゃんのとよく似てる」
ドアの把手に指をかけた早瀬の手に、笹生は触れた。
早瀬は自分の手を眺めているのに、その目はここではない場所を見つめているかのようだった。
「この傷を負った日が、双樹さまと笹生さまが出会われた夜だったのです」
彼が自分の過去のことを話すのは、初めてだった。
「私は子どもの頃、岡方町にある大店で働いていたのです。実家が貧しくて丁稚奉公に出ていたのですが。その店の隣に、双樹さまのお父上の会社がございました」
「早瀬さんなら、きっとてきぱきと働く丁稚さんだったんだろうね」
まさか、と早瀬は首をふる。
「私は目の病を患っておりましたので。いつも真っ赤に充血した目で、ぼんやりとしか物が見えぬから、家では厄介者、奉公先のお店では出来損ないと罵られておりましたよ。棒で叩かれるのも日常茶飯事でした。顔を腫らした私を、深町の旦那さま……双樹さまのお父さまが助けてくださったのです。」
――双樹さまのお父さま。
その言葉に、笹生は青くてすっぱいみかんを食べたような気持ちになる。
(ぼくも、兄ちゃんと同じ父ちゃんや母ちゃんの子として、生まれたかったなぁ)
「深町の旦那さまは、私の傷を手当てし、さらに五条蘭花の目洗薬と眼鏡を与えて下さいました。あの時、初めて世界がくっきりと鮮やかに見えたのです。『見えるのか、よかった。よかった』と旦那さまは何度も、私の頭をなでてくださいました。そして奉公していた家にかけあって、私を深町商会で働けるようにとりかはらってくださったのです」
早瀬は言葉を区切ると、手に残る傷をそっと指で触れた。
「私が心からお仕えするのは、深町の旦那さまだけでごさいます」
「この家の、鶴原のおじさん……お父さま対しては、心を込めてないの?」
窓の外をカラスが飛び、黒い影が床を横切る。
「この家自体は好きですよ。話を続けましょう。深町商会は、詐欺まがいの取引に巻き込まれ、潰れてしまいました。私はその卑怯な男を決して許しはしません。深町ご夫妻の命とお邸、会社。未来も希望もすべて失われてしまいました。残されたのは双樹さまだけだったのです」
「兄ちゃんが……」
頭の奥、ずっと深いところで白いものがぼうっと浮かんだ気がした。
花の香りの飲み物と、頭上で咲くくちなしの花。
そうだ、兄ちゃんが戻ってくるのを、木の下でずっと待っていた。
長屋の前のくちなしじゃなくて、別な所で。
「旦那さまに受けたご恩を、私はせめて双樹さまにお返ししたいのです。温かな家族と、家を」
「ぼくは、兄ちゃんの家族?」
「もちろんでございますよ」
笹生はもじもじと両手の指をこすりあわせた。
「早瀬さんは、兄ちゃんのお父さまのこと、とても尊敬してるんだよね? 兄ちゃんのことも、とても大事に思ってるよね?」
早瀬はうなずいた。
「じゃあ、じゃあさ。早瀬さんは、兄ちゃんの家族にはなれないの? 兄ちゃんとぼくと早瀬さん。それにシショーに桜花ねえちゃん。皆で仲よく暮らせたら、それが一番幸せだと思うんだけど」
「そのようなこと、考えたこともございませんでした」
呆然とした様子で、早瀬が呟いている。いつだって少しのずれもすぐに直しているはずの眼鏡は、左右の高さが違ったままだ。
「深町の旦那さまの無念を晴らすこと。双樹さまと笹生さまが、ご兄弟として穏やかに暮らすことだけが、私の夢でしたから」
「夢なのに、早瀬さんはその中に入っていないの? なんで」
「なんで、と申されましても。私は使用人でございますので」
早瀬はうつむいた。その拍子に、眼鏡が床に落ちてしまった。
「いえ……旦那さまも、今の笹生さまのようにうれしい言葉をくださいました。実現することなく終わってしまいましたから。ずっと忘れておりました」
レンズを通さずに見る早瀬の目は、まるで途方にくれた迷子みたいだった。
突然、馬車の音が聞こえた。二人はそろって顔を上げる。
「笹生さま。私から離れないでくださいませ」
眼鏡を拾い上げた早瀬の顔には、緊張が走っている。
眉根を寄せて、目つきは鋭い。いつもの彼だ。
笹生は、早瀬の腕にぎゅっとしがみついた。
「親父ー。いい薬を手に入れたぞ」
階下で響くのは滋の声だった。
「おーい、親父の病気が治る特効薬だぞ。これだけ親孝行の息子に、また出て行けなんて言わないよなぁ」
機嫌のよさそうな声。まだ明るいのに酒に酔っているのかもしれない。笹生は顔を上げた。瞬間、息を飲む。
目をすがめた早瀬の表情が、カミソリの刃のような鋭さを見せていたからだ。
父親がまだ帰っていないことを知った滋は、そのまま階段を上がってくるようだった。
今、鶴原の家に滋の部屋はない。
かつて滋が寝起きしていた所は、今は来客用として空けられている。
そしてその部屋は、笹生と同じ二階にある。
「笹生さま。外へはお出にならぬように」
階段の方を確認しながら、早瀬は部屋の鍵を閉めた。
今は別に暮らしている滋が、この家を訪れるたびに息をひそめて身を隠す。
もう何度、くり返してきたことだろう。
夜でもないのに、笹生は急いで布団にもぐりこんだ。
部屋の外を、だしだしと踏みしめて歩く音が聞こえる。
布団の中はうす暗く、暑さが増していく。扉の前で、足音が止まった。
前回は、滋に鍵のかかった扉を蹴られたのだ。
この部屋の前に、滋がいる。
そう考えるだけで、心臓が早鐘のように激しく音を立てる。
(どうしよう、また蹴られて戸が外れたりしたら)
笹生はぎゅっと目を閉じた。
(兄ちゃん。兄ちゃん)
声には出さずに双樹を呼び続ける。
笹生の吐く息で、顔の周辺が湿り気を帯びはじめた。
布地がじっとりと肌にまとわりついてくる不快感。
なんで隠れてなくちゃいけないんだろう。
どんなに広くて立派なお邸でも、やっぱり自分の家じゃない。
ここじゃないんだ。
ふいに布団の上から、抱きしめられた。
「早瀬さんなの?」
「大丈夫です。私がついておりますから」
ささやくような小さな声だけれど、その腕には力がこもっているのが布団を通して伝わってきた。
がちゃり。
蹴とばされるとばかり思っていた扉は、あっけなく鍵で開けられた。
「滋さま。いつの間に合鍵を」
「俺の家だ。どうだっていいだろう。おい、あいつはどうした」
「あいつとは、笹生さまのことでしょうか。おそれながら、私は存じ上げません」
早瀬が立ち上がったのか、体の重みがなくなった。
「何をしていた?」
「笹生さまがお昼寝をなさった後、布団が乱れていましたので。整えておりました」
「ふんっ。この俺さまに部屋がなくて、あのクソガキに部屋があるって、親父はどういう了見だ」
お願い、どうかこのまま出ていって。
身じろぎもせずに、笹生は願った。
「あんたがガキの名を呼ぶときは、なんか違うんだよな」
「どういうことでございましょう」
「確かにササオと言ってるのに、讃央じゃなくて、別の奴の名前みたいだ。まぁ母親に似たんだか、あのガキは頭が悪いらしいからな。讃央だなんて、たいそうな名前は似合いやしないけどな」
「旦那さまの、よい薬が入手できたとうかがいましたが」
「おう、やっと手に入った」
早瀬が無理に話題を変えたせいか、滋の声が一転して、機嫌のよさそうなものになる。
「あんたは有名な薬師を親父に紹介したそうじゃないか。ところが、親父の病はいっこうに治りゃしない。残念だったな。親父に取り入ろうとしたんだろうが。親父はこの俺を、跡継ぎと認めるはずだ」
「滋さまは、元より鶴原家の正当な後継者でいらっしゃいますから」
「ふん、分かっているじゃないか。早瀬とかいったな。どうだ、ガキに仕えるのはやめて、俺の下で働かないか?」
笹生は闇の中で目を大きく見開いた。
もし部屋に滋がいなかったら、早瀬に飛びついていたに違いない。
こんな誰も味方のいない邸で、ぼくを見捨てないでと叫んでいたかもしれない。
「ありがとうございます。私などに、もったいないお言葉でございます」
滋の申し出を、早瀬は受ける気なんだろうか。
手元の敷布を、笹生は力いっぱい握りしめた。
「ん? なんか布団が動かなかったか?」
「風が吹きこんだのでございましょう。滋さま、私は笹生さまにお仕えするように旦那さまから命じられております。主の言いつけに背くことは、一介の使用人にはできません」
すっと足が床をこする音が聞こえる。動いてしまった笹生を、早瀬がその背で隠してくれたのかもしれない。
「ふーん、たいした忠誠心だ。だがな、面白くないな」
「滋さま、何を」
「なぁに、俺も寝台を整える手伝いをしてやろうって言っているんだよ」
笹生の周囲で風が起こった。
汗をかいていた体が、一気に冷えた。
あまりのまぶしさに、目がくらむ。
「あんたは食えん奴だ。俺をだましてまでも、こんなガキを守ろうとするなんてな」
窓からの陽光で、滋の顔は影になっている。
けれどその口が、とてもうれしそうに笑っているのだけは分かった。
毛むくじゃらの太い腕が伸ばされ、笹生のシャツの襟を掴む。
悲鳴を上げようとしたけれど、笹生の口からこぼれるのは声にならない息だった。
こんなこと前にもあった。
泣き叫んでも、やめてって頼んでも、ずっと殴られ続けていた。
大きな石のような拳が、笹生に向かってふり下ろされる。
「おやめくださいっ」
早瀬の叫び声が響いた。
笹生の体の上に早瀬がおおいかぶさる。
細い彼の体を通して、何度も衝撃が伝わってくる。ぐうっ、というくぐもった早瀬の呻き声の向こうで、カラスが激しく鳴いているのが聞こえた。




