5-1
数日後、双樹と桜花は監獄の正門前に立っていた。
監獄は、見上げるほどに高いレンガの塀で囲まれていた。
中にも外にも、見張りがあちこちにいる。
この監獄は、刑が確定する前の者もいれば、もう何年も外に出ることなく服役している囚人もいるという。
「ここで待っていなさい。ハの三番を呼んでこよう」
面会人待合室と木の看板が掲げられた部屋の中、ぎしぎしと音のする椅子に、双樹と桜花は隣りあって腰を下ろした。
「姉さん。名前では呼ばれないのね」
不安そうに話す桜花の手を、双樹はぎゅっと握る。
「師匠が子肝を売るはずがない。間違いに決まっている」
双樹は足下に置いた風呂敷包みを、じっと見つめた。
次に通されたのは面会室だ。
黒板が掛けられていて、そこには三十分以内に話を終えること、暗号めいた言葉を使わないこと、タバコを差し入れないようになどと記されている。
面会室の中はとても狭く、窓にはすべて格子がはめられている。
桜花と双樹は、肩を寄せあわなければ椅子に座ることすらできなかった。
「待たせたな。入りなさい、ハの三番」
看守だろうか。白い詰襟の制服を着た男が、扉を開く。
双樹達はそろって立ち上がった。
久しぶりに会った蘭花は頬の肉がこけ、疲れた様子だった。
髪は一つに結んでいるだけで、いつものようにきれいに結って華やかなかんざしをつけることもない。
知らぬ人が見れば、五条蘭花と分からぬだろう。
「おやおや、二人ともおそろいで。わざわざ訪ねて来てくれなくてもいいんだよ」
蘭花の隣には看守が座って、帳面を開く。
「やせましたね、師匠」
「飯がまずくてねぇ。たまったもんじゃないよ。それにキセルも持ちこみ禁止なのさ。それが一番こたえるねぇ」
「火の始末が悪くて、火事を起こしたら困ると何度も説明しただろうが。どさくさにまぎれて、脱走でもされたらおおごとだ」
「ふんっ。つまんないねぇ」
看守の説明に、蘭花は口をゆがませる。
いつもなら紅で赤いはずの唇も、今日はすこし紫に近い色だ。
慣れぬつらい暮らしで血色が悪いのか、それとも元々そんな色だったのか、分からないけれど。
「姉さん。笹生くんは鶴原の家に戻ったわ。早瀬という人が、ずっと一緒にいるみたい。でも、この間は鶴原滋が帰宅したらしいの。大丈夫なのかしら」
双樹はうなずいた。
桜花は琵琶の弾き語りで訪れたお邸で、双樹は岡方町でそれぞれ情報を仕入れていた。
鶴原家の長男、滋の噂にろくなものはなかった。
酒を飲んでは暴れ、使用人に暴力をふるっていたこと。
親の金を、湯水のように賭け事に使うこと。
それが原因で、家を追い出されたこと。
会話の内容を帳面に書きとめていた看守が、時計をちらりと見る。
「あと十分」と淡々とした声で告げられた。
「まぁ、あんた達は仲よくやりなよ」
「師匠は、ここから出られるんですよね」
「そりゃあね、別にあたしゃ子肝なんざ売っちゃいない」
「じゃあなんで、今も監獄に入ったままなんですか」
ふっと蘭花は唇をとがらせた。
まるでありもしないキセルの煙を吐くかのように。
「しょうがないさね。べからずの薬は、確かにこの世に存在するんだから」
「まさか熊胆が、子肝と間違われたんじゃ……」
だとしたら、蘭花が捕まる理由なんてどこにもない。まったくの濡れ衣だ。
(むしろ捕まるべきは、この僕だ)
双樹は机に手をついて立ち上がった。桜花が何事かと顔を上げる。
「ちょいと待ちな、双樹。余計なことをお言いでないよ」
がたがたと机が音を立てる。
部屋が狭すぎるせいで、蘭花は壁と机の間を通ることができない。
「ちぃ、面倒だね」
蘭花は着物の裾をさばくと、素足をさらして机の上にのぼった。
「ハの三番。やめないか」
「師匠は子肝なんて作ってませんし、売ってもいません。むしろ子どもを連れ去ったのはこの僕です」
「双樹っ! いいかげんにしなっ。師匠の言うことが聞けないのかい」
背後から看守に羽交い絞めにされながらも、蘭花は双樹へ向かってこようとする。
その目は恐ろしいほどに鋭く、まるで全身から炎が燃え盛っているようだ。
双樹は目を閉じて、深呼吸した。
「鶴原讃央が行方不明になった件。それは僕がやりました。六年間、親元に帰すことなく、彼を手元に置いていました。師匠は子肝も誘拐も無関係です」
「この馬鹿っ」
だんっと蘭花が拳で机を叩く。面会室の外で、大勢の足音が聞こえる。
このまま警察につきだしてもらって、この監獄に放り込まれればいい。
血のつながった姉妹は共にいるべきだ。一緒でなくちゃいけない。
「あんたっ。あたしの気持ちなんざ、これっぽっちも分かっちゃいないよ」
騒ぐ人の声が聞こえてくる。双樹は、そっとまぶたを閉じた。
◇◇◇
鶴原の邸の食堂は、とても広い。
使用人は別の部屋で食事するので、大きなテーブルについているのは鶴原と、笹生の二人だけだ。
「あ、あのね。今日は算術の勉強をしたよ」
鶴原は返事もせずに、ナイフとフォークで肉を切り分けている。
「塩味が足らんな。おい、塩を持ってこい」
そう呟くと、すぐに控えていた侍女が厨房に向かい、塩の入った瓶を持ってきた。
「おそれながら旦那さま。料理人が薄味に仕上げておりますのは、旦那さまのお体のためを考えてのことでございます」
白髪まじりの執事が言葉を挟むが、鶴原はかまわずに塩をふりかける。
「ふんっ。熊胆を飲んでおるから平気だ」
そんなに味が薄いかなぁ。
笹生は、苦労して切り取った肉を見つめた。
まずいわけじゃないけれど、やっぱり兄ちゃんの雑炊の方がずっとずっとうまい。
「そういえば、この子の家庭教師は決まったのか」
透きとおった茶色のスープにも塩を足しながら、鶴原が執事に尋ねる。
「早瀬に心当たりがあるとのことでしたが。その者は、都合が悪くなったようでございます。また別の者を探しておきましょう」
「さっさと見つけておけ。この子はいい歳をして、ろくに文字も読めんではないか。まったく我が家に、はろくな息子がおらん」
吐き捨てるような口調に、笹生は身をちぢこまらせた。
確かに学校には行ってなかったけど。でも、でも。
「……そろばんは、できるもん」
「そろばんなど、お前には不要だ」
笹生の言葉は、ぴしりとさえぎられた。
(早瀬さんは、家庭教師を兄ちゃんに頼むって言っていたのに。そうしたら、これまでみたいに兄弟で過ごすことができるって教えてくれたのに。なんで?)
兄ちゃんが、笹生の勉強なんか見ていられないって断ったんだろうか。
「ごちそうさま」
料理を半分以上残して、笹生は席を立った。
食堂から廊下に出たところで、執事が侍女を小声で叱っているのが見えた。
「なぜ旦那さまに塩を渡したのだ。常に薬を服用なさっているのに、体調がお戻りにならぬからこそ、あえて塩をテーブルの上に置いておらぬのだぞ」
「ですが。その、旦那さまの言いつけに背くわけには……」
侍女の声はかすれている。
それに目は赤くて、今にも泣きだしそうだ。
鶴原のおじさん、じゃなくてお父さまに「塩はいけません」って、はっきり言えないのかな。
笹生は、頭を下げる侍女を何度もふり返りながら階段をのぼった。
子ども部屋に入ろうとすると、隣の続き部屋から明かりがもれていた。
そこは早瀬が仕事をするための小部屋だ。
早瀬は笹生を捜しだしたことで、今では笹生の世話係になっている。
足音に気づいたのか、中から扉が開けられる。
「食事を終えるにしては早いようですが。また、残されたのではないですか?」
「た、食べたよ。ちゃんと」
「本当でいらっしゃいますか」
早瀬が腰を落として、同じ目の高さでまっすぐに見すえてくるから、笹生は思わず目をそらしてしまった。
「本当に決まってるじゃないか。早瀬さんは、何してたの?」
「仕事を少し。確かくれよんがほしいと仰っていましたね。用意できましたよ」
「ありがとう。青と白、ある?」
「もちろんでございますよ」
にっこりと微笑みながら、早瀬は後ろ手で扉を閉めた。
子ども部屋の半分くらいの狭さの部屋。
机の上に見覚えのある紙の袋が積んであるのが、隙間から見えた。
その隣には、白っぽい透明な結晶が入った瓶がある。
「あれって、シショーのところの薬の袋だ。くちゃくちゃっとした字が、丸で囲んであるもん」
「少々風邪をひいたようで。のどが痛むのですよ」
でもシショーは、確か警察に捕まったんじゃなかったっけ。
まさか兄ちゃんが、この家に薬を売りに来たんだろうか。
突然笹生は、早瀬の腕にしがみついた。
「早瀬さん。兄ちゃんに会ったんだね。どうだった、元気だった? ぼくのこと、なんて言ってた? いつこの邸に来てくれるって? 兄ちゃんは家庭教師に来ないって聞いたけど。あれってうそだよね? ね?」
「嘘ではございませんよ」
早瀬の笑顔に、寂しげな影がよぎる。
「家庭教師として双樹さまをお招きするつもりでしたが。それは残念ながら」
「残念ながらって。もしかしてぼくが勉強きらいだから? だったら、ちゃんとがんばるから。兄ちゃんに、そう伝えてよ」
「そういう事情ではございませんよ。いずれ必ずご兄弟二人、ここで暮らせるように取り計らいますから、この早瀬を信じてお待ちください」
兄ちゃんと暮らすのなら、あの長屋で充分なのに。
なんで早瀬さんは、この鶴原の家にこだわるんだろう。
確かにこの邸は古いけれど広いし、きれいだし、家の中になめくじだって入ってこないけど。
笹生は右手を開いて、じっと見つめた。
「どうかなさいましたか。お怪我でも?」
「ううん。何でもない」
そこに見えぬ兄の手があるかのように、指を曲げてみる。
いつだって手をつないで歩いていた。
優しかったり強く引っぱったり、手のつなぎ方で兄の機嫌のよさも悪さも伝わってきた。
見上げれば常に双樹の背中があった。
澄みわたる青空も、泣きたくなるような夕暮れの空も、ぜんぶ兄の背中の向こうに広がっていた。
月も星も見えない闇だって、泥だらけの道だって、一緒に手をつないでいればへっちゃらだった。
(怒っていてもいいから、兄ちゃんと一緒にいたいなぁ)
早瀬やこの家の使用人の話から、滋という人と笹生は、半分だけ血がつながっているのだと分かった。だから兄弟なのだという。
でももしかしたら赤の他人かもしれない双樹との方が、ずっと本当の兄弟だ。
(なのに、どうして兄ちゃんは、兄弟だよって言ってくれなかったんだろう)
指を曲げたまま、ぼうっとしている笹生を、早瀬は怪訝な面持ちで眺めている。
「早瀬さん。また袋に入れてよ。そうしたら兄ちゃんのところに帰れるんだよね」
「笹生さま」
「だって早瀬さんは、三太九郎なんだろ? おっきな袋を持ってたし」
「三太九郎が袋の中に入れているのは、子どもへの贈り物ですよ」
「それでもいいから、入れてよ」
笹生が力いっぱいすがりついたせいで、早瀬の眼鏡がずれてしまった。
眼鏡の位置を直すこともなく、早瀬はただ困ったように眉を下げるだけだった。




