4-1
「早瀬と申します。双樹さん」
鶴原家の使用人は、丁寧に頭を下げた。
「俺の名前を……」
「私は双樹さんのことを、よく存じ上げておりますよ。深町の旦那さまのことも」
「まさか会社の人? え、でも鶴原さんの家にいたじゃないか」
「かつては、深町商会でお世話になっておりました。会社がなくなり、勤め先を失いましたので。私は鶴原家に雇っていただいたのです。それに笹生さまは、鶴原さまのご子息でいらっしゃいます。兄君はすでに成人なさっておいでですが」
淡々と話す早瀬とは反対に、双樹は視線すら定まらずにいた。
混乱しているのは笹生じゃなくて、自分だ。
「ちょっと待ってくれよ。この間、笹生はいないと言ったじゃないか」
「はい、申し上げました。間違いではございません。あそこにいらしたのは、深町笹生さまではなく、鶴原讃央さまでしたから」
「そんなのへりくつだ。あんたは長屋の前で笹生を見て、俺の弟だと認識していた」
双樹は、拳をぐっと握りしめた。
「あの時は、双樹さんのことを『兄ちゃん』と呼んでおられましたから。そう判断したまで。親が血を分けた子を失うこと、また子が血のつながった親を失うことは、本当に痛ましいことでございます」
早瀬の言葉が、針のように双樹の心を刺す。
「……俺達は、兄弟だ」
「私の知る深町の旦那さまには、ご子息はお一人しかいらっしゃいませんでしたが」
兄ちゃん? と笹生が不安そうに双樹を見上げてくる。
ぴちゃん。
金魚すくいの桶で、小さな赤い金魚が跳ねた。
「兄ちゃんとぼくは兄弟だよね? そうだよね?」
たった一滴の血すらも同じではない。
それを分かっていて、笹生を弟として育ててきた。
一人きりで残されたことが、あまりにも寂しかったから。
その孤独を埋めるために、笹生を手元に置いたんだ。
「兄ちゃん。はっきり言ってよ。俺は笹生の兄ちゃんだって。ねぇ、言ってよ」
笹生が、双樹にしがみついてきた。
抱きついてくる笹生の背中に手をまわそうとした双樹の鼻を、バラの香りがかすめた。
いつも銭湯に持っていく安い石鹸とは違う、高貴な香り。
メンタムのハッカも味噌汁のにおいもしない。
よその家のにおいだ。
双樹は宙に浮いたままの腕を、そのまま下ろす。
「訳が分からない。俺が両親と暮らしていた家が、今は鶴原の家で。俺の弟が、本当は鶴原の子で」
ずっと自分達が兄弟と信じていれば、それでいいと思っていた。
そんなことあるはずないのに。
子どもの浅知恵だ。
その時、鳥居の方から黒い集団が走ってきた。
祭りに集まった人を突き飛ばして、並んだ夜店をひとつひとつ確認しながら進んでくる。
悲鳴と怒声。
しょうゆやだしの香りに、土ぼこりのかすれた不穏なにおいが混じる。
「五条蘭花はどこだーっ」
「ここで店を開いているはずだ。決して逃がすなよ。奴は悪党だ」
「ありました。薬屋です」
警棒や銃を手にした警官が駆けぬけていく。
双樹の手から、碗がすべって落ちた。
水を失った出目金が、砂利の上でびちびちと苦しそうにひれを動かしている。
嘘だ。何かの間違いに決まっている。
「ほら、とっとと歩くんだ」
警棒で頭を小突かれ、朱色の丸いかんざしが蘭花の頭から落ちる。
こつんと地面に落ちたかんざしを、誰かの足がふみつけた。
「双樹、心配おしでないよ。桜花のことはよろしく頼むよ。様子を見てやっちゃあくれないか」
「心配するなって。どういうことなんですか。説明してください」
着物がはだけ、帯もゆるんでしまった蘭花は寂しげに微笑んだ。
彼女が逃げぬように周りを囲んだ警官の一人が、面倒くさそうに双樹を見やる。
「この女は、子肝を売った犯人だ」
「まさか、そんな……ありえません」
そうですよね、と念を押して双樹は蘭花を見やるが、彼女は返事をしてくれない。
子どもが言うことを聞かなかったり、悪さをやめない時は「子肝取りがやってくるよ」と親がおどすことはある。
けれどそんなのは「鬼が来るよ」とか「天狗にさらわれるよ」というのと似たようなものだ。
「それだけじゃない。今から六年も前のことだが、富豪の鶴原家の次男も誘拐されている。これも五条蘭花が関与している可能性がある」
「違いますっ」
「なぜそう言える?」
警官は、射るような瞳で双樹をにらみつける。
「六年前は、鉦も太鼓の音も聞こえませんでした……」
「そういやぁ。この間の鎌田の坊ちゃんの時は、隠し神から子を取り戻すためにあちこち捜しまわっていたようだが。鶴原家は警察まかせだったな。それにしてもあんた、よく六年も前のことを覚えているな」
忘れるはずなどない。笹生をさらったのは、この自分だからだ。
――いいね。言うんじゃないよ。
蘭花の赤い唇が、そう動いたように見えて双樹は思わず動きを止めた。
(師匠は知っていたのか)
分かっていて、住む場所を与えてくれ、仕事も教えてくれたのだ。
ただなじみ客の息子というだけなのに。
「じゃあ。あたしゃ、ちょっくら行ってくるさね。桜花、しばらく不自由かもしれないが、我慢しておくれ。その分、ぞんぶんに双樹に甘えるといいからね」
ひらひらと手をふりながら、蘭花は警官に連行される。
人の群れが左右に分かれてできた道を、まるで役者のように誇らしげに胸を張って歩いている。
地面にぽつんと落ちた珊瑚のかんざしが、舞台を去る役者へのはなむけのように見えた。
その時、ざっと砂利を踏んで歩く音が聞こえた。
「いってらっしゃい。姉さん」
桜花が着物の袂を押さえて、蘭花に大きく手をふっている。
蘭花は、そんな妹を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐにあでやかな笑みを浮かべた。
しばらくの間、辺りはざわめいていた。
けれど、しだいに皆の興味は夜店へと移っていったようで、人は散っていった。
「きっと何かの間違いだ、すぐに誤解と分かって、蘭花も戻ってくるさ」
金魚すくいの店主に肩をぽんと叩かれ、双樹は我に返った。
いつの間にか笹生と早瀬の姿は消えていた。
地面に落ちている出目金を、双樹はてのひらにのせる。
すでに息絶えてしまったのか、黒い尾びれはちらとも動かない。
軽いはずなのに……濡れたその体は、とても重く感じられた。
◇◇◇
早瀬に強引に腕を引っ張られて、笹生は鶴原の家に戻された。
どんなに抵抗しても、足をつっぱるようにしても、手を離してくれない。
シショーが怖い奴らに捕まったのに。
兄ちゃんにもやっと会えたのに。
きっと兄ちゃんも桜花ねえちゃんも、シショーのことでびっくりして大変に違いないのに。
「はなしてっ。シショーは悪いことなんてしてないんだ。兄ちゃんだって」
困ったような兄の顔が頭をよぎり、笹生は言葉を途切れさせた。
単に兄弟だって言ってほしかっただけなのに、答えてもくれなかった。
(兄弟なのは当たり前なのに。すっごく簡単なことを頼んだのに)
広い階段を上がり、子ども部屋に入ってようやく早瀬は笹生を解放してくれた。
「……痛いよ」
じんじんと痛む手首を、笹生は押さえる。
早瀬はそれには答えず寝台にかけられたカバーを外し、たんすから出した上質な寝間着を笹生に押しつけた。
「今日はお疲れになりましたね。着替えて、お休みください」
「眠れるはずないよ。兄ちゃんのところに行かせてよ」
「今の笹生さまは、冷静にお話ができる状態ではございません」
「できるよ。勝手に決めないでよ」
笹生は枕をつかんで、早瀬に投げつけた。
顔をめがけて投げたのに、憎たらしいことに早瀬は片手で枕を受け止める。
「ごらんなさい。頭に血が上っていらっしゃる」
「は、早瀬さんのせいだろ。なんだよ、早瀬さんなんか大嫌いだ。むりやりぼくをかどわかしたくせに」
枕の形を丁寧に整えてから、早瀬は枕を寝台に戻した。
「僕は兄ちゃんのところに帰るんだ。シショーも桜花ねえちゃんもいる長屋に戻るんだ。早瀬さんは悪者だっ。いじわる、人さらい」
涙を流す笹生には、早瀬が困惑したように眉を下げたことは分からなかった。
「お水をどうぞ。泣くとのどが渇きますよ」
「いらな……ひっく」
「まったく、手のかかる坊やですね」
しゃくりあげる笹生の背中をさすりながら、早瀬は水差しからグラスに移した水を、少しずつ笹生に飲ませる。
「私のことは信用なさらずともよろしいです。ですが、こちらに双樹さんをお招きするつもりなのは、本当です」
だまされるもんか。どうせ都合のいいことばかり言ってるんだ。
のどが潤った笹生は、頬をふくらませながら、ふかふかの寝台によじのぼった。
笹生は着替えもせぬままに横になる。
まるで雲の上に転がっているみたいだ。
兄ちゃんもここで寝かせてあげたいなぁ。
そうだ。今度逃げる時に、寝台をこっそり担いでいこう。
お土産にしたら、兄ちゃんはきっと驚くぞ。
これまで三回、邸を逃げ出したけど。
そのたびに早瀬さんに捕まったから、次は失敗しないぞ。
まぶたをとじていると、服を脱がされるのが分かった。
ころりと体を横にされ、腕を寝間着の袖に通される。
(なんで早瀬さんは、嫌いって言われても、世話を焼くんだろう)
そういえば着替えるのが面倒で、そのまま寝てしまった時は、兄ちゃんも同じように着替えさせてくれたっけ。
「……兄ちゃん」
思わず呟くと、早瀬の冷たい手が笹生の頭をなでた。
本当は、祭りでもっと兄ちゃんと遊びたかった。
一緒に長屋に帰りたかった。
この家では、料理人が作った豪華な食事が並ぶけど、どれも美味しいって思えない。
(兄ちゃんが作ってくれたねぎとお麩の味噌汁が飲みたいなぁ。ラムネも、あれっきり口にしてないよ)
「なんだ、親父はまだ戻ってないのか」
遠い場所から声が聞こえる。
一階からみたいだ。
誰だろうと思い笹生が体を起こすと、早瀬が緊張したように顔をこわばらせた。
「滋さまです。鶴原の長男でいらした方です。とうに邸を出ていかれたのですが」
あれ? でも長男でいらしたってどういう意味だろう。
今は長男じゃないのかな。
階下からの話し声はまだ聞こえてくる。
滋は大人の男の人らしく声が低くて、なんだか使用人を怒鳴りつけているみたいだ。
「笹生さまは、お気になさらずお休みください。私がおそばにおりますから。大丈夫ですよ」
早瀬に対して、大嫌いだという言葉を投げつけたばかりの笹生は、その当人に優しくされることにいたたまれなくなった。
ごめんなさいって言った方がいいに違いない。
分かっているのに、言葉がうまく出てこない。
そんな笹生の様子を見て、早瀬は「どうかなさいましたか?」と穏やかに問いかけながら布団をかけてくれた。
滋の怒りは続いているようで、いつまでもさわがしい。
今にも滋が階段を上がってこの部屋に入ってくるんじゃないかと思い、笹生は何度も布団から顔をのぞかせた。
部屋の入口に向かった早瀬が扉の鍵をかけ、口の前で人さし指を立ててみせた。
そうか。滋って人が来たら、おとなしくしていないといけないんだ。
笹生のまぶたは、しだいに重くなり、すーすーと寝息を立てはじめた。
夜が更け、辺りが静かになった頃、笹生はふと目覚めた。
窓から差しこむ月の光が、早瀬の横顔を照らしている。両親から届いた笹生の手紙を、早瀬はじっと見つめている。
「あなたはこうして、優しい嘘を重ねてこられたのですか」
ぽつりと呟く声は、夜風がカーテンを揺らす微かな音にもまぎれるほど小さい。
早瀬は何本も傷の入った柱に目をやると、どこかが痛むようにまぶたを閉じた。




