3-4
午後になっても、蘭花は戻ってこなかった。
長屋の狭い部屋で、双樹も桜花も言葉を交わすことさえない。
桜花は、着古した浴衣の布で雑巾をつくっていた。
針で指を刺すことのないよう、慎重に指先で確認しながら縫っていく。
屋根を叩いていた雨の音が静かになる。
夕立ちが止んだようだ。
『薬草綱目』を読んでいた双樹は、ある頁で目をとめた。本の後ろの部分には、毒について記されていたからだ。
(そういえばいつだったか、師匠が「薬を知るには、毒を知らなければならない」と言っていたっけ)
解毒の薬を調合する上でも、毒の知識は必要だし。
なにより少量の毒は、薬になりうることもある。
その反対に大量の薬は、毒にもなる。
ウマノアシガタやトリカブトは毒草として有名だが。
身近に咲いているアジサイですら危険らしい。
浜辺でとれる貝にも、有毒なものがあるようだ。
「こんな知識を持っているってことは、薬師はそれだけ信頼が大事ってことか」
ぽつりと双樹は呟いた。
その言葉が思いのほか大きく響いてしまった。
「どうかしたの? 双樹さん」
小首を傾げて、桜花が持っていた布を置く。
「いや、なんでもないですけど。祭りまでに雨がやむといいですね」
「そうね」
すぐに会話は途切れ、軒から落ちる雨の音がやけに大きく聞こえる。
「姉さん、遅いわ」
確かにそろそろ売り物にする薬を神社に持って行かないと、祭りに間に合わない。
「俺、先に荷を運んでおきます」
私も、と言いかけたが、桜花は暗い顔をしてうつむいた。
「ごめんなさい。私は家で待っているわ」
双樹ははっとした。足手まといだと思ってしまったことが、やはり桜花の心を傷つけてしまっていたのだ。
言葉にしなくても、表情が見えなくても本音が伝わってしまうことがある。
蘭花にからかわれはしたが、確かに桜花のことが好きだった。
けれど、今は好きだと思うことすら、桜花には迷惑なはずだ。
なぜなら誰よりも、彼女自身が誰かの重荷になることを恐れているはずだから。
「行きましょう」
「でも私は……姉さんがいないと一人では思うように歩けないし。それに、神社は石段があるから」
桜花の細い手首を、双樹はぎゅっとつかんだ。
なめらかで冷たい肌。笹生のように体温が高くない。
「その、痛いわ。双樹さん」
「あっ。済みません」
向かい合う二人の間に、沈黙が流れる。
双樹は表情を引き締めると、左手で背負子を担ぎあげた。
ためらう桜花をうながし、彼女の前に草履をそろえて置く。
「外は足下がぬかるんでいるから、気をつけてください」
表に出ると、灰色の雲が東に流されていくのが見えた。
軒先から落ちてくるしずくに、太陽の光が反射している。
この景色を光を、桜花に見せたいと思った。
「青空なのね」
「分かるんですか?」
双樹は慌ててふり返ったが、まぶしい光にも桜花は目を細めていない。
「ほっぺたが温かいから」
陽光に照らされた白い頬。
にっこりと桜花が微笑む。
「双樹さん。きっと笹生くんも、どこかでこの青空を眺めているわ。大好きなお兄さんのことを思っているに違いないわ」
気遣うつもりが、反対に慰められていた。
双樹は桜花の手首から指を離し、今度はちゃんと手と手を握った。
「俺と一緒に行ってくれますね?」
桜花は、さぁっと頬を染めた。
神社の境内にはすでに夜店が並んでいた。
植木屋に虫売り、占いに金魚すくい、古本やガマの油を売る店もある。
「おや、蘭花はまだなのか」
金魚すくいの店主が、薬を並べていく双樹に声をかけた。
「今日の会合もすっぽかすし。いい加減な師匠を持って、あんたも苦労だな」
じゃあ頑張れよ、と手をふって去っていく店主を、双樹はぽかんと眺めた。
「姉さん、会合を欠席したのね」
「でも、ちゃんと間に合うように出たはずだけどな」
桜花が何かに気づいたように、「あらっ」と嬉しそうに目を細める。
桜花に対して丁寧語を使っていない自分に気づき、双樹は手で口を押さえた。
年齢が一緒でも、師匠の妹だから。言葉づかいには気をつけていたのに。
「えっと、間に合うように出たはずでしたよね」
「ふふ、言い直さないで。笹生くんとしゃべっている時みたいだし、その方が双樹さんらしいわ」
柔らかに笑う桜花だが、その表情に影がよぎる。
「……鉦と太鼓を用意した方がいいのかしら」
双樹は手にしていた薬の袋を、地面に落してしまった。
神が笹生を隠したのではなく、人が誘拐したのであっても。
鉦と太鼓を叩きながら笹生の名を呼んで歩きまわれば、その声は笹生に届くかもしれない。
風が吹きいっせいに提灯が揺れた。
境内に生えている木々の枝と枝をつないで張られた紐。
その紐に吊るされた無数の提灯が、宵闇の中で橙色の明かりを揺らす。
「おやまぁ、こんなに明るくちゃ、蛍の光が見えやしないねぇ」
「遅ぇぞ、蘭花。店のことを弟子や妹にまかせっきりとは、いい御身分だな」
金魚すくいの店主に声をかけられ、蘭花は「ふふん」と鼻で笑った。
「なぁに。師匠がいない方が、弟子が育つってこともあるさね。こら、双樹。メンタムを積み上げるんじゃないよ。個数限定ってことにした方が売れるんだ」
双樹は慌てて缶の数を減らし、別な薬を並べていく。
なぜ会合に参加すると言いながら、蘭花は嘘をついたのだろう。
そのことが心に引っかかってしょうがない。
祭りが始まり、辺りは人でにぎわいはじめる。
蘭花は、鳥居の方を何度も眺めていた。
参拝者のざわざわとにぎやかな声。おでんを炊くにおいや甘い蜜の香りが漂っている。
「双樹。稼ぎ時ってのを忘れんじゃないよ。ほら、桜花を見てごらん」
桜花は夜店の横に立ち「いらっしゃいませー」「お薬はいかがですか? すり傷にも火傷にも、虫刺されにも効きますよ」と声を張りあげている。
呼び込みのおかげなのか、それとも蘭花の戦略が成功したのか。
客は次々とメンタムを買い求めた。
「ふひひ、こりゃ笑いが止まらないねぇ」
「師匠、笑い方が下品です」
「なぁに言ってんだい。もうかる時にたんまりと稼いでおかないとね。桜花は、信頼できるお邸の仕事しか引き受けさせていないから、琵琶の弾き語りのお代が滞るってこたぁないけどさ。それでも金はあればあるだけいい」
珍しくキセルをくわえもせずに、蘭花はそろばんを弾く。
我が師ながら、なんか情けない。
はぁーと双樹はため息をもらす。
「ああ、双樹。おつりは余分に渡すんじゃないよ。勘定は正確に」
「言われなくても分かってますって」
「さぁ、どうだかね。あんたは笹生ほど計算が速くないし、桜花を任せるには、どうにも頼りないからね」
「なんでそういう話になってるんですかっ。師匠がいるじゃないですかっ」
双樹は顔が熱くなるのを感じた。
姉の声が届いていたのか、外に立っている桜花も恥ずかしそうにうつむいている。
「あたしがいつまでも一緒にいてやれたら、何の問題もないんだけどねぇ」
どこか寂しげに眉を下げ、蘭花は人さし指を真横に動かして、そろばんの玉を元の状態に戻した。
ちらりと鳥居に視線を向けて、蘭花は何かに気づいたかのように動きを止める。
なんだろう?
双樹は目に映った人物に驚き、思わず身を乗りだした。
台に並べたメンタムの缶が、音を立てて落ちていく。
「笹生! 笹生っ!」
「兄ちゃんっ」
どうして笹生が、ここに?
砂利を蹴とばしながら駆けだし、双樹は笹生を抱きしめた。
「うわぁぁん、会いたかったよぉ。兄ちゃん」
小さな肩を両腕でおおい、笹生の柔らかくて細い髪に顔を埋める。
バラの精油だろうか。香り高い石鹸の匂い。
そういえば着ているものの肌触りも違う。
ごわっとした着物ではなく、織りの細かい布の感触だ。
熱した炭を入れて利用するアイロンがかけてあるのか、笹生が着用している白い木綿のシャツも、ひざ丈ほどの黒いズボンもぴしっと折り目がついている。
「笹生の洋服姿なんて、ひさしぶりに見た……」
呆然と双樹は呟いた。
確かに自分も、子どもの頃は今の笹生のような格好をしていたけれど。
それは家が没落する前までのことだ。
父の財産も邸もすべて失ってからは、着古した着物ばかりだし、笹生にも洋服を買い与えたことはない。
「まったくもう黙ってどこへ行っていたんだ。 俺は薬を売らなきゃいけないんだが、一緒にいるか? それとも師匠に頼んで、一度家に戻ろうか?」
うれしさのあまり、言葉が次々と溢れだす。
笹生がいなくなってから三日ほどしか経っていないのに、もう何年も離れていたような気がする。
「もう大丈夫だ。ずっと一緒だからな」
「うん。一緒だね。兄ちゃんなら、きっと来てくれると思ったよ」
目に涙を浮かべながらも、にかっと笹生が笑う。
「来てくれるじゃなくて、捜してくれるだろ? そうだ、夜店を見てまわろう。師匠、少しいいですよね」
笹生と手をつないで、双樹は肩越しに蘭花をふり返った。
蘭花はうなずきながらも、どこか腑に落ちない表情を浮かべている。
「笹生くん。これまでどこにいたの? 私が助けられなかったのは、本当に申し訳なかったんだけど。せめてお兄さんに説明してあげて。双樹さんは、笹生くんのことを心配してずっと眠れずにいたの」
桜花は、双樹と笹生の声を頼りにして近寄ってきた。
だが笹生は金魚に興味があるらしく、しきりに双樹の手を引っ張っている。
「桜花さん。話は後にしよう。笹生も混乱しているかもしれないし」
「そう? ええ、そうね。ごめんね、私はせっかちだったかもしれないわ」
「そんなことないよ。桜花さんは、本当に心配してくれていたからさ」
向かい合う二人を、笹生があどけない瞳で見上げてくる。
「兄ちゃん達、なんか変わった」
「え? そうか。そんなことはないぞ」
双樹は思わず早口になってしまった。
言葉づかいを変えたことだけで、笹生は、双樹と桜花の距離が近づいたことに気づいたのかもしれない。
「兄ちゃん。金魚すくいをしようよぉ」
「いっておいで、双樹。たんと遊んでくるんだよ、笹生」
蘭花が手をふって送りだしてくれる。
双樹は頭を下げて、その場を離れた。
新しい客が来たのか、背の高い男性とすれ違う。
金魚すくいの夜店で、小さな金網を二つ買い求める。
最近は、和紙を貼ったもので金魚をすくう夜店もあるようだ。
紙なんか水にぬらしたら、すぐに破れそうなもんだが。
「ぼく、たくさん捕まえるね」
「おいおい、せめて二匹くらいにしておかないと。大きな金魚鉢は買えないぞ」
「平気だよー。こーんな大きな金魚鉢だって、きっと用意してくれるから」
誰が用意するんだよ、と双樹は苦笑した。
笹生はさっそく黒い出目金を狙おうとして、金魚が泳いでいる丸くて浅い桶に身を乗りだした。
袂を濡らすんじゃないぞと注意しそうになって、今日の笹生は洋装であることを思い出した。
それにしても誘拐されたとは思えぬほどの、身ぎれいさだ。
よほど待遇がよかったのだろう。
あるいは親切な人が保護してくれていたのだろうか。
(だけど通りすがりの人が、どこの誰とも分からぬ子どもの面倒なんて見てくれるだろうか。まず警察に届けるのが筋だろうに)
「やったぁ」
すくった黒い出目金が入った金属の碗を、笹生は大事そうに持った。
中で出目金がくるりと身をひるがえすたびに、小さな水面に輪が生じる。
笹生は、今度は赤い金魚を狙っている。
尾びれが長くてひらひらと揺らいでいる、美しい金魚だ。
「笹生さま。お話しくださいましたか?」
背後から聞こえる声に、笹生の体がびくっと硬直する。
立ち上がった双樹は、瞬きをすることすら忘れた。
そこに立っていたのが、鶴原の家の使用人だったからだ。
そう、くちなしを摘んだ彼だ。




