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べからずの薬と隠し神  作者: 絹乃
3 懐かしくも苦しい我が家
11/24

3-4

 午後になっても、蘭花は戻ってこなかった。

 長屋の狭い部屋で、双樹も桜花も言葉を交わすことさえない。


 桜花は、着古した浴衣の布で雑巾をつくっていた。

 針で指を刺すことのないよう、慎重に指先で確認しながら縫っていく。


 屋根を叩いていた雨の音が静かになる。

 夕立ちが止んだようだ。


薬草やくそう綱目こうもく』を読んでいた双樹は、ある頁で目をとめた。本の後ろの部分には、毒について記されていたからだ。


(そういえばいつだったか、師匠が「薬を知るには、毒を知らなければならない」と言っていたっけ)


 解毒の薬を調合する上でも、毒の知識は必要だし。

 なにより少量の毒は、薬になりうることもある。

 その反対に大量の薬は、毒にもなる。


 ウマノアシガタやトリカブトは毒草として有名だが。

 身近に咲いているアジサイですら危険らしい。

 浜辺でとれる貝にも、有毒なものがあるようだ。


「こんな知識を持っているってことは、薬師はそれだけ信頼が大事ってことか」


 ぽつりと双樹は呟いた。

 その言葉が思いのほか大きく響いてしまった。


「どうかしたの? 双樹さん」


 小首を傾げて、桜花が持っていた布を置く。


「いや、なんでもないですけど。祭りまでに雨がやむといいですね」


「そうね」


 すぐに会話は途切れ、軒から落ちる雨の音がやけに大きく聞こえる。


「姉さん、遅いわ」


 確かにそろそろ売り物にする薬を神社に持って行かないと、祭りに間に合わない。


「俺、先に荷を運んでおきます」


 私も、と言いかけたが、桜花は暗い顔をしてうつむいた。


「ごめんなさい。私は家で待っているわ」


 双樹ははっとした。足手まといだと思ってしまったことが、やはり桜花の心を傷つけてしまっていたのだ。


 言葉にしなくても、表情が見えなくても本音が伝わってしまうことがある。


 蘭花にからかわれはしたが、確かに桜花のことが好きだった。

 けれど、今は好きだと思うことすら、桜花には迷惑なはずだ。


 なぜなら誰よりも、彼女自身が誰かの重荷になることを恐れているはずだから。


「行きましょう」


「でも私は……姉さんがいないと一人では思うように歩けないし。それに、神社は石段があるから」


 桜花の細い手首を、双樹はぎゅっとつかんだ。

 なめらかで冷たい肌。笹生のように体温が高くない。


「その、痛いわ。双樹さん」


「あっ。済みません」


 向かい合う二人の間に、沈黙が流れる。


 双樹は表情を引き締めると、左手で背負子しょいこを担ぎあげた。

 ためらう桜花をうながし、彼女の前に草履をそろえて置く。


「外は足下がぬかるんでいるから、気をつけてください」


 表に出ると、灰色の雲が東に流されていくのが見えた。

 軒先から落ちてくるしずくに、太陽の光が反射している。


 この景色を光を、桜花に見せたいと思った。


「青空なのね」


「分かるんですか?」


 双樹は慌ててふり返ったが、まぶしい光にも桜花は目を細めていない。


「ほっぺたが温かいから」


 陽光に照らされた白い頬。

 にっこりと桜花が微笑む。


「双樹さん。きっと笹生くんも、どこかでこの青空を眺めているわ。大好きなお兄さんのことを思っているに違いないわ」


 気遣うつもりが、反対に慰められていた。

 双樹は桜花の手首から指を離し、今度はちゃんと手と手を握った。


「俺と一緒に行ってくれますね?」


 桜花は、さぁっと頬を染めた。



 神社の境内にはすでに夜店が並んでいた。

 植木屋に虫売り、占いに金魚すくい、古本やガマの油を売る店もある。


「おや、蘭花はまだなのか」


 金魚すくいの店主が、薬を並べていく双樹に声をかけた。


「今日の会合もすっぽかすし。いい加減な師匠を持って、あんたも苦労だな」


 じゃあ頑張れよ、と手をふって去っていく店主を、双樹はぽかんと眺めた。


「姉さん、会合を欠席したのね」


「でも、ちゃんと間に合うように出たはずだけどな」


 桜花が何かに気づいたように、「あらっ」と嬉しそうに目を細める。

 桜花に対して丁寧語を使っていない自分に気づき、双樹は手で口を押さえた。


 年齢が一緒でも、師匠の妹だから。言葉づかいには気をつけていたのに。


「えっと、間に合うように出たはずでしたよね」


「ふふ、言い直さないで。笹生くんとしゃべっている時みたいだし、その方が双樹さんらしいわ」


 柔らかに笑う桜花だが、その表情に影がよぎる。


「……鉦と太鼓を用意した方がいいのかしら」


 双樹は手にしていた薬の袋を、地面に落してしまった。


 神が笹生を隠したのではなく、人が誘拐したのであっても。

 鉦と太鼓を叩きながら笹生の名を呼んで歩きまわれば、その声は笹生に届くかもしれない。


 風が吹きいっせいに提灯が揺れた。

 境内に生えている木々の枝と枝をつないで張られた紐。

 その紐に吊るされた無数の提灯が、宵闇の中で橙色の明かりを揺らす。


「おやまぁ、こんなに明るくちゃ、蛍の光が見えやしないねぇ」


「遅ぇぞ、蘭花。店のことを弟子や妹にまかせっきりとは、いい御身分だな」


 金魚すくいの店主に声をかけられ、蘭花は「ふふん」と鼻で笑った。


「なぁに。師匠がいない方が、弟子が育つってこともあるさね。こら、双樹。メンタムを積み上げるんじゃないよ。個数限定ってことにした方が売れるんだ」


 双樹は慌てて缶の数を減らし、別な薬を並べていく。

 なぜ会合に参加すると言いながら、蘭花は嘘をついたのだろう。


 そのことが心に引っかかってしょうがない。




 祭りが始まり、辺りは人でにぎわいはじめる。


 蘭花は、鳥居の方を何度も眺めていた。


 参拝者のざわざわとにぎやかな声。おでんを炊くにおいや甘い蜜の香りが漂っている。


「双樹。稼ぎ時ってのを忘れんじゃないよ。ほら、桜花を見てごらん」


 桜花は夜店の横に立ち「いらっしゃいませー」「お薬はいかがですか? すり傷にも火傷にも、虫刺されにも効きますよ」と声を張りあげている。


 呼び込みのおかげなのか、それとも蘭花の戦略が成功したのか。

 客は次々とメンタムを買い求めた。


「ふひひ、こりゃ笑いが止まらないねぇ」


「師匠、笑い方が下品です」


「なぁに言ってんだい。もうかる時にたんまりと稼いでおかないとね。桜花は、信頼できるお邸の仕事しか引き受けさせていないから、琵琶の弾き語りのお代が滞るってこたぁないけどさ。それでも金はあればあるだけいい」


 珍しくキセルをくわえもせずに、蘭花はそろばんを弾く。


 我が師ながら、なんか情けない。

 はぁーと双樹はため息をもらす。


「ああ、双樹。おつりは余分に渡すんじゃないよ。勘定は正確に」


「言われなくても分かってますって」


「さぁ、どうだかね。あんたは笹生ほど計算が速くないし、桜花を任せるには、どうにも頼りないからね」


「なんでそういう話になってるんですかっ。師匠がいるじゃないですかっ」


 双樹は顔が熱くなるのを感じた。

 姉の声が届いていたのか、外に立っている桜花も恥ずかしそうにうつむいている。


「あたしがいつまでも一緒にいてやれたら、何の問題もないんだけどねぇ」


 どこか寂しげに眉を下げ、蘭花は人さし指を真横に動かして、そろばんの玉を元の状態に戻した。



 ちらりと鳥居に視線を向けて、蘭花は何かに気づいたかのように動きを止める。


 なんだろう?

 双樹は目に映った人物に驚き、思わず身を乗りだした。


 台に並べたメンタムの缶が、音を立てて落ちていく。


「笹生! 笹生っ!」


「兄ちゃんっ」


 どうして笹生が、ここに?


 砂利を蹴とばしながら駆けだし、双樹は笹生を抱きしめた。


「うわぁぁん、会いたかったよぉ。兄ちゃん」


 小さな肩を両腕でおおい、笹生の柔らかくて細い髪に顔を埋める。


 バラの精油だろうか。香り高い石鹸の匂い。

 そういえば着ているものの肌触りも違う。

 ごわっとした着物ではなく、織りの細かい布の感触だ。


 熱した炭を入れて利用するアイロンがかけてあるのか、笹生が着用している白い木綿のシャツも、ひざ丈ほどの黒いズボンもぴしっと折り目がついている。


「笹生の洋服姿なんて、ひさしぶりに見た……」


 呆然と双樹は呟いた。


 確かに自分も、子どもの頃は今の笹生のような格好をしていたけれど。

 それは家が没落する前までのことだ。


 父の財産も邸もすべて失ってからは、着古した着物ばかりだし、笹生にも洋服を買い与えたことはない。


「まったくもう黙ってどこへ行っていたんだ。 俺は薬を売らなきゃいけないんだが、一緒にいるか? それとも師匠に頼んで、一度家に戻ろうか?」


 うれしさのあまり、言葉が次々と溢れだす。


 笹生がいなくなってから三日ほどしか経っていないのに、もう何年も離れていたような気がする。


「もう大丈夫だ。ずっと一緒だからな」


「うん。一緒だね。兄ちゃんなら、きっと来てくれると思ったよ」


 目に涙を浮かべながらも、にかっと笹生が笑う。


「来てくれるじゃなくて、捜してくれるだろ? そうだ、夜店を見てまわろう。師匠、少しいいですよね」


 笹生と手をつないで、双樹は肩越しに蘭花をふり返った。

 蘭花はうなずきながらも、どこか腑に落ちない表情を浮かべている。


「笹生くん。これまでどこにいたの? 私が助けられなかったのは、本当に申し訳なかったんだけど。せめてお兄さんに説明してあげて。双樹さんは、笹生くんのことを心配してずっと眠れずにいたの」


 桜花は、双樹と笹生の声を頼りにして近寄ってきた。

 だが笹生は金魚に興味があるらしく、しきりに双樹の手を引っ張っている。


「桜花さん。話は後にしよう。笹生も混乱しているかもしれないし」


「そう? ええ、そうね。ごめんね、私はせっかちだったかもしれないわ」


「そんなことないよ。桜花さんは、本当に心配してくれていたからさ」


 向かい合う二人を、笹生があどけない瞳で見上げてくる。


「兄ちゃん達、なんか変わった」


「え? そうか。そんなことはないぞ」


 双樹は思わず早口になってしまった。

 言葉づかいを変えたことだけで、笹生は、双樹と桜花の距離が近づいたことに気づいたのかもしれない。


「兄ちゃん。金魚すくいをしようよぉ」


「いっておいで、双樹。たんと遊んでくるんだよ、笹生」


 蘭花が手をふって送りだしてくれる。

 双樹は頭を下げて、その場を離れた。


 新しい客が来たのか、背の高い男性とすれ違う。


 金魚すくいの夜店で、小さな金網を二つ買い求める。

 最近は、和紙を貼ったもので金魚をすくう夜店もあるようだ。

 紙なんか水にぬらしたら、すぐに破れそうなもんだが。


「ぼく、たくさん捕まえるね」


「おいおい、せめて二匹くらいにしておかないと。大きな金魚鉢は買えないぞ」


「平気だよー。こーんな大きな金魚鉢だって、きっと用意してくれるから」


 誰が用意するんだよ、と双樹は苦笑した。


 笹生はさっそく黒い出目金を狙おうとして、金魚が泳いでいる丸くて浅い桶に身を乗りだした。

 袂を濡らすんじゃないぞと注意しそうになって、今日の笹生は洋装であることを思い出した。


 それにしても誘拐されたとは思えぬほどの、身ぎれいさだ。

 よほど待遇がよかったのだろう。

 あるいは親切な人が保護してくれていたのだろうか。


(だけど通りすがりの人が、どこの誰とも分からぬ子どもの面倒なんて見てくれるだろうか。まず警察に届けるのが筋だろうに)


「やったぁ」


 すくった黒い出目金が入った金属の碗を、笹生は大事そうに持った。

 中で出目金がくるりと身をひるがえすたびに、小さな水面に輪が生じる。


 笹生は、今度は赤い金魚を狙っている。

 尾びれが長くてひらひらと揺らいでいる、美しい金魚だ。


「笹生さま。お話しくださいましたか?」


 背後から聞こえる声に、笹生の体がびくっと硬直する。


 立ち上がった双樹は、瞬きをすることすら忘れた。

 そこに立っていたのが、鶴原の家の使用人だったからだ。

 そう、くちなしを摘んだ彼だ。



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