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今日もまた、一睡もできぬ内に夜が明けた。
兄ちゃん、ただいまぁ。
何度、空耳で起き上がったことだろう。
そのたびにめくられた形跡のない、空っぽの夏布団が目に入った。
何度も寝返りをうっては布団をけとばす笹生のことが気になって、眠れなかった夜。
あの日々は、戻ってはこないのだろうか。
(いや、笹生の家はここなんだ。俺だけが笹生の家族なんだ)
笹生がいつ戻ってきてもいいように、夜は必ず二人分の布団を敷いている。
双樹は朝食も取らずに、蘭花の部屋へと仕事に向かった。
警察に笹生がかどわかされたことを届けはしたが、わざわざ捜してくれる気はなさそうだ。
薬を粉に挽きながら、双樹はぎりっと奥歯を噛みしめる。
「ちくしょうっ!」
拳を床に叩きつけると、焦げ茶色の粉末が飛び散った。
桜花が「きゃあ」と悲鳴を上げ、蘭花が咳き込む。
「なにやってんだい、双樹。熊の胆は高価なんだよ。無駄にするんじゃないよ」
「分かっています。けど」
長いため息がもれてしまう。
笹生が行方不明になってから、すでに一週間は過ぎている。
今日は蛍祭りだ。
弟が連れ去られてしまったというのに、なんで祭りに参加しないといけないんだ。
(師匠は、笹生のことよりも金もうけの方が大事なんだろうか)
もしいなくなったのが桜花なら、蘭花は仕事なんてそっちのけで捜しまわるに違いない。
師匠と弟子とはいえ、所詮は他人だ。
ぽけん、とメンタムの缶が双樹の頭に命中した。
「そういう陰気な顔を、おしでないよ」
双樹は熊の胆の粉末がついた手で、乱れた前髪をかきあげた。
干からびた熊の内臓なのに、不思議なことに少し焦げたような香ばしいにおいがする。
粗悪品やまざりものがある熊の胆は、魚臭い嫌なにおいがするものだ。
「ちょいと神社に行ってくるよ。露店を出す者で会合があるのさ」
立ち上がり、長屋を出ていこうとする蘭花を、双樹は思わず引きとめようとする。
そんな双樹を、桜花がこれまでよりも大きく感じる目で凝視していた。
桜花は、おそらく気づいていない。
自分がどれほど双樹を見つめているのかを。
「帰りが遅くなったら、桜花と一緒に神社に来ておくれ。その頃には露店もできあがって、後は商品を並べるだけだからね」
蘭花は、双樹が小分けにして熊の胆を入れていった薬包みを手にした。
袋の表には蘭の字が丸で囲んである。
師匠の薬である印だ。
「そこまで送ってくれないかい」
愛用のキセルを吹かしながら、蘭花が片目を閉じて双樹に外に出るように促す。
表に出ると、電柱に貼られた尋ね人の貼り紙が、はたはたと風にはためいていた。
すでに紙は半分ほどちぎれ、住所は読めなくなってしまっている。
「あたしゃ、もう一回鶴原んちに行くよ」
薬包の数を数えながら、蘭花は口にくわえたキセルを上下させた。
「鶴原の旦那さんが熊胆を注文してくれたからね。あそこの使用人は、うちに何度も薬を買いに来たことがある。なぁに、この蘭花が頼むんだ。きっと中に入れてくれるよ」
やはり蘭花も、笹生と讃央の関係を疑っていたのか。
「すみません。この熊胆、師匠が鶴原さんに掛け合ってくれた結果ですよね。単なる商いの話をしていたんじゃなかったんですね」
「あそこのご主人は、腎臓が悪いから体がむくんでいるらしいんだ。小便を出す作用のある熊胆は、必要不可欠さね」
「せめて利尿作用があるって、言ってくださいよ」
「ふん。同じことさね」
恥じらいなどとうに捨てたと言わんばかりに、蘭花は赤い唇をにぃとつりあげた。
「あんたも笹生も、あたしにとっちゃあ大事な弟子と弟子候補だ。それに双樹、あたしのことが分かってんなら、桜花のことも目を配ってやんな」
「桜花さんのことを? 危なくないようにですか?」
「あーあ、まったく。桜花も男の趣味が悪い」
メンタムの缶がないからか、代わりにキセルで頭をこつんとやられた。
「え、どういうことですか?」
「桜花は勘が鋭いから、雰囲気で察するんだよ。あんたがいらいらしていたら、笹生のことに決まってる。そうすれば、笹生を助けることのできなかった自分を、桜花は責めちまう。笹生がいなくなってから、ろくに飯ものどを通らないんだよ」
「そうだったんですか……」
桜花の目が大きくなったと感じたのは、実際にはやせたからそう見えただけだろう。
そういえばしばらく琵琶の音を聞いていない。
おそらく、事件の日からずっと。
(俺のせいだ)
双樹は唇をかみしめた。
以前は桜花を見ると、ふんわりと甘い気持ちになっていたが。
今は、飲みそこねた粉薬が口の中に広がったような、苦さしか感じない。
「双樹。教えておくれでないかい? あたしのなじみの客には深町信二さんがいたのさ。でも深町商会は潰れて、ご夫妻は自ら命を絶ったと噂になっていたよ。もう六年も前にね」
どうしてその深町信二から、出どころのあやしげな手紙が届くのかと、蘭花は暗に尋ねている。
双樹は緊張で、口の中が渇くのを感じた。
本当のことを明かせば、蘭花は呆れかえって、今後一切あたしの弟子と名乗らないでおくれと言い放つかもしれない。
蘭花はまっすぐな瞳で、双樹を見すえている。
嘘やいいかげんなことを言えば、きっと見透かされる。
双樹の掌は、じっとりと汗をかいてしまっている。
「父さんも母さんも、もういません。あの手紙は、俺が書きました」
ようやく絞りだした声は、かすれていた。
「何のためにだい?」
湿った風が吹き、キセルの火皿から細かな灰を散らしていく。
一雨きそうだねぇ、と蘭花は雲の垂れこめた空を仰いだ。
「家族は俺だけじゃなくて他にもいると、笹生に伝えたかったんです。違う、そんなのは嘘だ。笹生は間違いなく深町の子だと、そう信じ込ませたかったんです」
蘭花が双樹の頭をなでた。
「よく話してくれたね」
「知っていたんですか」
「双樹って子の名前は、深町さんからも薬を買いに来た使用人からも聞いたことがある。けど笹生という名も、次男の話も誰も口にしなかった。そりゃそうさね、だって深町さんの息子は一人っ子だったんだから」
遠くで雷の音がして、重く湿った風が吹いた。
季節外れに一輪だけ咲いたのだろう。
緑の葉の中から、白い蛾に似たくちなしの花が開いていた。




