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ああ、嫌な音だ。
深町双樹は眉をしかめ、耳を手でふさいだ。
カンカンカン、と甲高い音を響かせて、初夏の夕暮れに鉦が鳴る。鉦に重なるのは太鼓の音。
また一人、子どもが消えた。
背負子を石橋に置き、十五歳の双樹は大騒ぎする大人達を見すえた。
(お願いです。どうか……どうか。笹生の名が呼ばれませんように。俺からあの子を奪わないで)
鉦と太鼓の音は、いなくなった子を呼び戻すための手段だ。かつて子どもが行方不明になれば、神隠しにあったとされた。
お江戸の時代は遠くなり、明治も二十年以上経った今では、行方知れずは人間による子さらいだと明らかになっている。
それでも神に呼びかける風習は今も残っている。
「神さま、どうぞ三喜夫をお返しください。後生ですから」
「三喜夫坊ちゃまー。」
ちがう。笹生じゃない。
ほっと息をついたとたん、双樹は地面に座りこんだ。切れ長の一重まぶたの目を閉じて、鉦の音が遠ざかるのを待つ。
西の空にはまだ明るさが残っているのに、石造りの洋館やビルが並ぶ街は闇に沈んでいる。
ガス灯の明かりがともされ、ぼんやりとした光が、暗い川面にゆらゆらと映っている。水のにおいのする湿った風が、双樹の短い髪をなでた。
「そうだ。笹生が待ってるんだ」
朝より軽くなった背負子をかついで双樹は立ち上がった。
着物の裾をはしょって帯にはさみ、足には膝までの脚絆をはいている。すらりとした足を速め、家へと向かう。
今日は薬が売れたんだ。夕飯は何にしよう。
坂を下りると石畳の道は終わり、双樹が暮らす浜潟町の手前でぬかるんだ土の道へと変わる。
海に近い浜潟町は、吹く風に海藻のにおいが混じっている。
屋台で買ったこんにゃくの田楽と、塩焼きの魚が包まれた経木を抱え、双樹の足はますます速くなる。
ふくらんだ着物の袂を体に近づけぬよう、気をつけながら。
「あー、兄ちゃんだ。おかえりー」
笹生が竹馬から降り、着物の袖を揺らしながら大きく手をふる。
洋館が立ち並ぶ街とは違い、この辺りは木造の長屋が連なっている。
「こら、笹生。また神隠しがあったんだぞ。暗くなってから、外に出ちゃだめだろ」
「えー、心配しすぎだよー。ぼくだってもう九歳になったんだよ。兄ちゃんみたいに薬を売りに行きたいよぉ」
「まだ九歳だ」
ふん、と双樹は胸を張る。自分自身が九歳の頃には、簡単な薬草の本を読んで勉強していたことは内緒だ。
「あー、魚のにおいがする」
「当たり。それから田楽と、あとはおまけでこれ」
双樹は袂から冷たい瓶をとりだした。それを笹生の頬にぴたりとくっつける。
「うわぁ、ラムネだ。これ、ぼくの? 飲んでもいいの?」
「もちろんだ。いい子で留守番していたからな」
「やったぁ、ありがとう」
黒目がちの大きな瞳を輝かせ、笹生は何度も跳びはねる。
ああ、もう。今にも草履が脱げそうじゃないか。
「こら、待てって。しばらく置いておかないと、泡がふきだすぞ」
「う、うん。中身がへったら、もったいないよね」
笹生はもぞもぞしながら待っているが、もし尻尾があるなら盛大にふっていることだろう。
(なんか、餌を前にした子犬みたいだよな)
くっくっと、双樹は肩を揺らした。
「あれ? なんだか懐かしい匂いがするね」
笹生は香りの出どころを見つけようと、顔をめぐらせる。
双樹は鼻をくんと動かした。どこかの家から漂ってくる味噌汁のにおいに、どぶ川のすえたような臭さ。あとは背負子の中の薬くらいしか分からない。
「あ、見つけた。あそこだ」
反対側の道のわきに生えている、濃い緑の茂みに笹生は突進する。
「こら、走ったら危ないぞ。馬車にはねられたら、どうするんだ」
「へいき、へいきー。どうせ通らないもん」
そりゃそうだけど。
こんな貧乏長屋を上流の人々の乗り物が訪れるはずもない。
丈の低い木は、仄白い花をつけていた。暗がりで、まるで明かりを点したかのようにぼうっと見える。
鼻にまとわりつく甘ったるさに、双樹の足が凍りつく。
「兄ちゃん。いい匂いだね」
しまった。今年はつぼみを落とすのを忘れていた。
「これ、何て花かなぁ」
「名前は知らないな」
うそだ。くちなしの実は熱を下げ、炎症をおさえる薬だ。薬師の弟子が、その花を知らないはずがない。
けれど薬の知識のない笹生は、ふぅんと言うだけで白い花びらに鼻を寄せている。
「ほら、飯が冷めるぞ。早く家に入ろう」
「えー、もうちょっと」
「ラムネがぬるくなってもいいのか?」
切り札の名を出すと、笹生はくちなしの木に背を向けた。
双樹がほっとしたのもつかの間、笹生はふりむいて白い花を一輪つむ。
「だめだ。花を持って帰っちゃ」
思わず大きな声で叫んでしまった。笹生がびくっと肩をすくませる。
「えーと、その花は家に飾ったら火事になるんだ」
「……そうなの?」
火事を招くのは別の花だが。そんな事実は、どうでもいい。
「長屋で火が回ったら大変だろ」
「えー、でも他の長屋は人がいっぱい住んでるけど。うちの長屋は空き家ばっかりじゃないか」
「それでも住む所がなくなったら困るし。近所の長屋に火が燃え移ったらどうするんだ。さぁ戻るぞ」
双樹は弟の細い手首をつかんで、足早に道を渡った。草履の下で、ぬかるんだ土がべしゃっと音を立てる。
「でも。ぼく、この花の匂いがする飲み物を飲んだことがあるよ。兄ちゃんが買ってくれたのかなぁ」
「俺は覚えていない。笹生、男のくせして、花にこだわるなんておかしいぞ」
「兄ちゃん、どうしちゃったの。いたっ」
双樹が指に力を加えたせいで、笹生が手を離そうとする。
「一人で歩けるから、いいよ」
「無理だ。転んで着物を泥で汚したら、どうするんだ」
頭の奥がかっとする。
ずんずんと道を渡る双樹は、後ろで笹生が口を尖らせていることには気づかなかった。