たゆともたゆな
「……思ふこと むなしき夢の 中空に たゆともたゆな つらき玉の緒」
「え?」
「定家の、」
「…ええ。でも、突然なぜ?」
「…ふと、浮かんだから…」
僕がそう言うと彼女は少し首を傾げて、困ったように微笑んだ。
僕が苦心して破った沈黙はあっけなく縫い繕われて、再び静寂が満ちた。
透明な金魚鉢の中で黒い金魚が跳ね、ぴちゃん、と微かな水音を響かせた。唐紙は開け放たれ、続く縁廊下の向こうの濃藍の夜空には、乳白色の朧な待宵の月が危うげに浮かんでいた。
座敷の中央に敷いた布団の上で居住まいを正して座る彼女は、目を細めて月を眺めている。けれど傍らでその彼女の横顔を見つめる僕には、彼女は月よりももっと遠くを馳せ眺めているように思えた。月よりももっと遠くの、彼女の行く先を。
昨晩まで身の置き所のないほどに苦しんでいた彼女の顔から懊悩の影がすっかり消え、憑きものの落ちたようにすっきりと穏やかな表情で今宵彼女は僕を迎えた。
その姿を見た瞬間、安堵よりも不安が色濃く僕の胸を巣食った。
この世の執着を手放した彼女はもはやこの世ならざる者の雰囲気を纏い、その清浄な空気に絶えず僕の胸はざわついた。
柔らかく降り注ぐ月光を浴びた彼女の輪郭が、淡くほろほろと曖昧になる。
ふと、吹き込んだ優風が僕の頬を撫でたかと思うと、その風は庭先の金木犀の花弁を連れて細く続く橙色の一筋となり、彼女を囲うようにくるくると螺旋を描いた。
彼女が橙に包まれ姿が見えなくなるのを、僕は不思議と平静に見つめていた。
そうだ。彼女の苦悶の姿に安堵し、しがらみを断ち切った彼女に不安を覚えた僕は、どこまでもこの世に執着する。この世を去らんとする彼女には、もうあの定家の歌は届かない。届かないと分かってそれを口にした僕は、あるいはこの世での彼女の存在をすでに諦めていたのかもしれない。
透けるような橙の羽衣を纏い、縁先からふわりと宙へ舞い上がった彼女は、こちらを振り返り微笑んで言った。
「また、会えるわ。きっとよ」
キラキラと鱗粉のような天上の余韻を撒き散らし、彼女は朧月にすっと溶け入った。
僕の残された寿命なんて、幾つもの世で邂逅を重ねてきた僕等にとっては、泡沫の時でしかない。
そう、だからきっと、すぐにまた彼女に会える。
傍らの寝具に手を滑らせると仄かに温もりが残っていた。
頬を伝う一筋が顎の先から一滴の雫となって、音もなく畳に吸い込まれた。
完