出会い
光沢を放つ壁面に触れると、うっすらと刺すような冷気が指周りを覆った。
手をそのままに薄暗いその空間を俺は見上げる。
眼前に、ゆっくりと固まった氷のように透き通った壁が立ちはだかっていた。
その壁の中には、太古に生きていたであろう細やかな虫の死骸が無数に閉じ込められている。『氷の墓場』それがこの場所に付けられた名前だ。
大樹の内部でも特別冷気を帯び、その壁の奥には太古の昆虫達と共に、俺の求めるそれはある。
ふぅ、と一つため息を吐いて、 下ろしておいた鞄の中から、発光水晶を取り出す。
既に赤い暖色に光り輝いているそれは、人々の日常ではそのままランプとして使われる。それを壁に向け、目当ての物を掘る事ができそうな位置を探す。
目当ての位置はすぐに見つけることができた。その一部分だけが一段と多くの光を反射して輝いていたのだ。氷結した壁から分泌される、光の吸収率の低い樹液が固まって、壁面をより輝くようにコーティングしているらしい。
その奥に、木から生成され、木材でありながら鉱物らしい性質を保有するそれ、『木鉱』と呼称されている物質が存在する。
目星をつけた場所を見失わないよう目線だけはその場所に固定し、下ろしていたツルハシを拾い上げ、また反対に懐中灯を足元の下ろす。
そして改めてその個所に狙いを定めて、ツルハシ大きく振りかぶる。 長らく鍛え上げられてきた腕が、素早く動き、ヒュッ! と心地よい風切り音が響いた。
そして、最大加速を果たしたツルハシが壁に激突する――直前だった。本来発生するはずの破砕音が、思わぬ激音でかき消されたのだ。
「ギシャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
「――!?」
それはまるで何十人もの人間が、一斉に叫びだしたかのような声。
驚いた俺の所為で本来の軌道からずれたツルハシは、ガキュゥンと派手に火花を散らしながら、全く見当外れの場所に激突。そのまま手から抜け落ちた。
今の、金属と金属を無理やり擦り合わせたような不快な声はなんだ?地面に落ちてしまったツルハシなど忘れ、恐怖に駆られて音源を咄嗟に探る。
どうやら俺がいる通路のかなり奥、俺がやってきた方向から聞こえたようだ。目をやるが、足元でさえ薄暗いこの空間では、通路の奥は果てしない闇の黒の覆われていて何も見えない。しかし、目を細めて目を凝らして探ると、徐々に浮き彫りになる人型のシルエットがあった。
人間、それも女性が、全力で走っている。まさかさっきの声が彼女から出てきたとは思えない。
息を上げながら俺の目の前に現れた薄紅髪の人物は、暗くて顔の造形こそ良く分からないが、細いシルエットや俺の胸までの背丈から少女だと分かった。だが細いシルエットが分かったということは、それほど身につけているものが少ないということでもある。
どうしてこんな危険な場所にこんな軽装でいるのだろう。
その疑問を俺が問いかける直前、切れ切れの息をしていた少女の口が開いた。
「こ、これで君も巻き添えだから!」
「え、は?」
意味が分からず、切迫した言葉に首を傾げた刹那。その言葉の意味を嫌でも理解させるあの声が、再び降りかかってきた。
「ギシャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」
先程の金切り声に似た声。それが膝に手をつき、肩を揺らす少女の背後から聞こえた。
あまりの音量に恐怖し、全身の毛穴が一斉に開く。その声の主が、暗闇の中に浮かぶ。
「あ、アームドアント……?」
黒々として、滑らかでありながら硬質な外骨格が放つ、鈍い光沢。全ての足を不規則に全身させて進む、身の毛もよだつその動き。その形は、蟻。
少女を全力で追ってガサガサ張ってくるそれが、指に乗るサイズだったら可愛げが有ったのかもしれない。だがそいつは、少女よりも大きかった。
この状況が何を意味するかと問われれば、少女が巨大な蟻に追われているとしか説明が付かない。
「ど、どうしてこんな所に…………」
虫の対処は一端置いておき、目の前の少女を見た。
「な、何の冗談だ。鉱虫の擦り付けは禁止事項だろ?」
「キンシジコウ?! 何言ってるのか分からないけど、あの蜘蛛が見えない?! これで君の命もあの蜘蛛に狙われたことになったから!」
「お前……!」
「とにかく、話は後にしてまず逃げようよ!」
切羽詰まった少女は俺の袖口を掴んで声を荒げる。
「お、おい。なんでもいいけど、一人で逃げてくれ。アームドアントはジッとしている奴を捕食対象と見なさないから大丈夫なんだよ」
胸倉をつかんだ手を離さない少女に対し、俺はいら立ちを覚えながら言った。こいつは、敵を俺に擦り付けてようとしたのだろうがアームドアントに至ってはそうはいかない。
少女を追っている巨大な蟻――アームドアントは基本的に動体を標的と決める。つまり、今現在アームドアントの前で大きな動きを見せていない俺に危険はないのだ。
「ジッとする? そ、そうなの!? 分かった」
「あ? ああ」
俺は言い放った相手である少女ががっくりと肩を落とす姿を想像したが、彼女の反応は違った。彼女は神を見た様な表情で驚き、俺の隣に移動した。
「………………………………」
そして、何故かそのままの直立し、固まったように動かなくなる。
俺は再び首を傾ぐ。
「え? どうした? お前は逃げろよ」
声を掛けるも、少女は反応しない。ジッと前を見つめたまま俺の言葉を彼女は無視した。
「おいっ」
肩を揺さぶっても、反応すらしてくれない。俺が怪訝な表情で少女を見下ろす間も、アームドアントは刻一刻と迫り来ていた。
これ以上迫られたら逃げ出せない距離を詰められる前。俺は「あっ」と息を飲んだ。
先程の説明を少女は誤解していることに気が付いたのだ。
「おい、一つ確認したい」
「うっるさいなぁ! じっとしてなきゃ駄目なんじゃないの!?」
あからさまに苛立つ少女を怒鳴りつけた。
「聞け! 一回獲物だって認められたら、じっとしてても意味無いって事は、分かってるよな?!」
聞いた途端、少女が俺の方に顔を向け、その顔を蒼白に染める。
「…………え? どえぇぇっ!? 知らないっ!!」
「一人で逃げろって前置きしただろ?」
「こんなに急いでるのに、分かるわけ無いよ!」
少女は落雷を受けた様に動かなくなったが、それでもさび付いた人形が無理やり首を回すように、ギギギ……と顔だけは俺を向いた。
「ふへ」
「あ?」
直後、その細い腰がストンと冷たい地面へと落ちる。そしてそのまま、事切れたかの様に動かない。
「え、お、おい。大丈夫か?」
まさか、と顔が蒼白になる。この少女、腰が抜けたのではないか?
「立てよ。死ぬぞ」
「…………う、動けない。怖くて動けない」
暗くても分かる。少女の顔色は真っ青だ。俺の顔から、ますます血の気が引いていく。
どうしようか、恐怖で固まる脳を理性で回転させようとするが、こんな状況でまともに動くわけがないのは当然だ。何度も逃げることを催促したが、へたり込む少女から反応はない。頭が真っ白になった。
「おいおいおい……」
目の前の彼女が、巨大な蟻に食われる。臓物を喰われる。悲鳴を上げる。このままだと確実に起こってしまう残酷な情景が、俺の脳内に再生される。
そうなれば、俺は絶対に気を保つ事はできない。
かといって俺一人が逃げてしまえば、確実に少女は捕食されて死ぬ。見殺しというわけだ。まさか、俺がこう葛藤することまで考慮に入れて演技をしているのなら上等だと思う。そんな訳ないか。
余裕をぶっこいている時間は無い、残された道は一つだろう。とにかく逃げるのだ。死の恐怖を振り払うように頭を振る。
足を跳ねるように動かし、まず少女よりも軽い装備類を高速で回収し、続いて顔を強張らせて絶望の表情を浮かべる少女を引ったくる様に脇に抱える。
「う、えっ!?」
少女は驚きに奇妙な声を上げる。装備は付け残しがあったが、後に待つこの蟻との戦いを見据えた最低限の物以外は手を回す余裕が無かった。
果たして、このような状態でどこまで走れるかは分からないが、やるしかない。
薄暗い闇の充満する閉鎖的な通路で、俺は全力で地面を蹴り出す。革靴の硬い底が大きく削れた。
安全区画と呼ばれる場所は、簡単に言うのならば海樹の中でも外周であり、海樹特有の毒虫や巨大な昆虫、総称して《鉱虫》の出現が少なく、危険の少ない区域を示す。
対して中心区画と呼ばれる区画はその名の通り海樹の内心近く、鉱虫が出現するために武装なしでは立ち入りができず、虫の楽園、人間の地獄のごとき空間であると言われている。
この二つの区別は、鉱虫の生息する明確な境界を表すために存在する。即ち、安全区画に鉱虫は発生しないはずなのだ。しかし、何事にもイレギュラーは存在するのかもしれない。
鉱虫が安全区画に現れる今みたいに。
重量級のツルハシと大量の飲料水が入った木製のボトル、加えて様々な装備、更に人を抱え、自分よりも重い重量を身に受けながら、俺は走る。
息はとっくのとうに切れ。脚は時折フラつき、たよりなく折れそうにもなった。
それでも立ち止まらなかったのは、やはり死への恐怖ゆえだろうか。その恐怖を誤魔化そうと、息をするのも辛いのに悪態を吐く。
「あー、くそっ。重い」
「重い重い言ってないで、戦わないの!?」
どの装備よりも今直ぐ捨てたい対象である、俺に抱えられている小柄な少女は、少し釣り上がっている大きな目を上目遣いに気味に向け、叫ぶ。
「俺のどこにそんな装備が有るように見える」
「この腰の弓みたいなやつは!?」
「馬鹿かこんな金属のどこが、弓に見えるツルハシだ馬鹿。似てるけど曲がるわけ無いだろ」
今にも倒れ込みそうに激しい呼吸をしながら会話をするのは相当に体力を消費するものだ。
それでも立ち止まれないことは分かっている。
「このままじゃ追いつかれる!」
「この先、もうすぐ開けた場所に出る。そこなら今の俺の装備でも戦えるかもしれない」
「じゃあもっと速く走ってよ!」と、運ばれるだけの少女がそう言うので、思わず強張るこめかみを意識した。しかし少女を一度だけ睨みつけておくだけで心を沈める。
ついでに少女を抱えていない右手で水を捨て比重を軽くし、全力で前へ前へと走り続けた。脚がミシミシと刺激的な音を発し、骨も音を立ている気さえするが気にはしてられない。
走り続けなければならない原因である追跡者との距離を測ろうと、チラリと背後を見る。
「ギシャァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
俺と目線が合う度に目を憤怒の赤褐色に染め、身の毛もよだつ気味の悪い挙動で追って来ているのは、海樹随一の怪力を誇る鎧の鉱虫、《アームドアント》。
海樹の外部の微細な蟻達と比べて、その体は大型犬と同程度の全長を持ち、厳しい生存競争にさらされたその体の外骨格は発達し、それはもう刺々しく荒々しい容貌を獲得している。
そのパンキーな見た目に比例するように鎧は固く、必然的にその鎧に守られていない腹部と胸部の接合部分を攻撃しなければ倒せない。
今の俺のように長リーチの武器が無い状況では、ここような細長い通路ではなく広い空間に出て死角を突く戦法を取る戦法が成功法だろうか。
「見えた……!」
顔を正面に戻すと、前方の通路がそこだけ開けているのが視認できた。
その先に広大な面積の空間が存在する事を示すように、通路脇を『五番区画採掘場』と荒ぶれた字で書かれた看板が立てかけられている。
ここら辺りの採掘場は、更に効率のよい採掘場が見つかっているため現在は使われていないので、鉱虫と戦闘になっても助太刀は入ってくれない。だがここは安全区画なのだ。誰か人が居たとしても武装をしている者は居ないだろうから、別に人は居てもいなくても一緒だろう。
一人で戦わなければならない事を今更思い出して舌打ちし、眉間に皺を寄せながら俺は少女に言う。
「じゃあ入ったと同時に投げるからな」
「え? そんなの聞いてない!」
「だから今言ってんだろ、そっと降ろしてる暇はないんだ」
「ちょっ、ダメ! 女の子なんだからやさしく扱ってよ!」
「じゃあ態度をもっと女の子らしく改めてから出直せよ――っと!」
侵入した広場は、十分すぎるほど広大な空間を持っていた。
見回すと、壁面には古くこの採掘場を利用してきた先人たちが残したのか、大量の文字が、風化して崩れそうな岩壁にあちらこちらに羅列されていた。
少し時代が移り行きすぎたのか、俺がこの海樹都市の生まれでないからか、読むことはできない。




