【3】化け物
「違うこれは!」
慌てて口元についた血を拭う。
これでは私がまるで、コウを襲ったみたいだ。
間違ってはいないけれど、そうじゃなくて。
慌てて言い訳をしようとすれば、カズマの私を見る目が急激に冷えていく。
その視線は、私の頭上に注がれていた。
「その角……そういうことだったんですか。ボクはあなたの事を同類だとばかり思ってましたけど、大きな間違いだったみたいだ」
憎しみの滲む視線で、カズマ私を見た。
「角? 何のことだ?」
「そうやってまた、何も知らないふりをするつもりなんですか? そんなに立派な角を生やしておいて」
戸惑いながら頭に手をやる。
そこには、カズマの言う通り、角としか思えないものが生えていた。
触れば、触られた感触が自分に返ってくる。
この世界には鬼がいる。
人を喰らい、血を啜る化け物だ。
そして角は――鬼である証し。
鬼は人の姿をしていて。
髪や目の色は《贄人》と呼ばれる、鬼によって不死にされてしまった人間によく似ている。
鮮やかな赤や、青、紫に緑。人の髪色としては自然にありえない色ばかり。そして瞳が金の色。
カズマやコウは鬼によって不死にされた元人間の《贄人》であり、人知れず鬼を退治する《退鬼士》でもあった。
二人は私を鬼に襲われて《贄人》になった被害者だと思って、匿ってくれていたのだ。
――どうして《贄人》であるはずの私に、鬼の角がある?
「どうして、こんなものが……」
自分の頭の上にある角の感触に戸惑う。
カズマはすらりと腰に刺した刀を抜き、私に突きつけてきた。
「この化け物が」
放たれたカズマの殺気に反応するように、自然と体が動いていた。
とっさに避けたその軌道上に、カズマが懐から短冊くらいの紙を取り出して放る。
それはまるで投げられたナイフのように私に迫り、腕に張り付いた。
紙が皮膚に触れると、焼け爛れるように肉が溶けて、激痛が走る。
「ぐぁぁっ!」
喉の奥から張り付いた声が出た。
痛い。剥がそうにも、触った側から指先の肉が削げ落ちていく。
「あぁやっぱり、こんなにも術符が効くということはボクらとは違う」
痛みに意識が飛びそうになる中、淡々としたカズマの声が聞こえた。
この文字の書かれた紙は、術符と呼ばれるものらしい。
手の平から血が滲むのも構わずに、無理やり腕から引き剥がす。
「術符は人には無害だ。《贄人》にも効果は薄く、《鬼》や《鬼もどき》に絶大な効果を発揮するんですよ」
そうやって術符で苦しんでいることこそ、私が鬼である証拠だというように、カズマは冷めた口調で語る。
カズマは、躊躇いなく私を正面から切りつけた。
とっさに顔を庇うようにして腕の角度を変える。
手の甲から肘にかけて、つぅっと皮膚が切れ、熱い痛みが走る。
後ろに飛んで、カズマとの距離を取った。
「なんで……カズマ」
汗が額から流れ落ちる。
血を拭い取るように下から上へとすくえば、すでに私の腕の刀傷は消えかけていた。
「ボクの名前を軽々しく呼ばないで下さいよ、化け物が。憎むべき鬼を懐にいれていたのだと思うと、本当に反吐がでます」
カズマが冷たい声で吐き捨てる。
刀で切られたところよりも、術符という紙切れがくっついた場所の方が酷い有様だった。
それでもそちらに目をやれば、骨が見えていた腕の部分にしゅるりと肉が巻きつくようにして、ゆっくりと再生する様子が見える。
――化け物? 鬼?
私は人間のはずだ。
そう思うのに目の前の現象が、人間ではありえないと私に教えてくる。
傷の痛みよりも、カズマにそんな目で見られることの方が応えた。
「まぁ死に難いことはありがたいことかもしれませんね。何度も何度も、苦しませてあげられますから」
この前まで一緒にご飯を食べて、てれびを見て。
笑い合って過ごしていたというのに、その日々さえカズマにとっては、汚点であるかのようだった。
カズマの冴え冴えとした金の瞳の中にある瞳孔が、一際大きく開く。
普段は黒のコンタクトで隠しているはずの瞳がその色という事は、カズマは仕事中だったのかもしれない。
カズマは、踏み込むと同時に刀を一閃させてきた。
私は床を蹴り、後ろへと跳躍する。
カズマが術符を取り出し、投げるような構えをした。
私の背後には窓ガラス。
ここは建物の三階だ。
けれど、迷っている暇は無かった。
そのまま背中から窓を突き破り、落ちる。
地面が近づく瞬間、猫のように体をくるりと回転させて、膝をやわらかくつかって衝撃を和らげる。
もの凄く簡単なことだった。
カズマにもこれはできることらしく、躊躇いなく窓から飛び降りて追ってくる。
私を化け物扱いしたくせに、カズマだって人間ではありえないじゃないかと頭の隅で思った。
振り返ったのは一瞬で、街を走る。
この一角は寝静まっているのか、道には人がほとんどいなかった。
地面を蹴って街灯の上に立ち、さらに建物の上へと移動する。
建物から建物へと飛び移り、風を切る。
この感覚がとても懐かしいと感じた。
こんな風に街を走り抜けたことなんて、今までなかったはずなのに。
四肢を自由に動かす、この開放感。
体に巡る血のままに走り抜ける。
気づけばカズマはもう追ってきていなかったけれど、もはやそれがどうでもいいことのように思えていた。
術符を受けた腕はまだ皮が再生しきってはいなかったけれど、血はすでに止まっていた。
「ははっ、はははっ!」
笑いが込み上げてくる。
本来の私はこうあるべきだったと、頭の中で思う。
どこへ行くあてもなく、ただ体の疼くままに疾走して。
少し気分が落ち着いたところで、建物の上に足を乗り出して座った。
風が心地いい。
後ろに倒れこむようにして、空を見上げる。
星があまり見えないのが残念だ。
一呼吸着けば、落ち着いた頭のなかに、自分がしたことが過ぎった。
高揚していた気分が、瞬時に落ち込む。
私は、コウを殺そうとした。
首筋を噛んで、その中身をすすったのだ。
そこまで考えて否定する。
殺そうなんて思ってはいなかった。
少し冷静になってみれば、コウが帰ってきたあたりの事を思い出すことができた。
とても酷く喉が渇いていて、コウを見たらたまらなくなった。
ただ、コウが欲しくて、欲しくてしかたなくて、衝動が私を支配した。
なんで血なんて飲んだんだ。
あんなものを美味しいと感じてしまったんだ。
何故私の腕は、肉をそぎ落とされても平気なんだ。
疑問がぐるぐると巡るけれど、答えはでない。
何もかもがわからない中、ただ一つわかるのは。
――私が化け物だという事だけだった。
コウは大丈夫だろうか。
きっとカズマがどうにかしてくれただろうと思う。
私を追わずに途中でいなくなったのは、きっとコウが心配だったからだろう。
しかし、これからどうしようか。
平気だとコウは言ったけれど。
もうあの場所には帰れないと思った。
コウは鈍感で優しいから、私が化け物だとまだ気づいてないのだろうけれど。
カズマが私を見たときの、あの視線を思い出す。
あんな風に、コウが私を見たらと思うと想像するだけで、身が切り裂かれそうだった。
それだけの事を、私はしたのだ。