【2】甘い汁
コウが帰ってこない。
今までこんなに家を空けたことはなかった。
少し帰るのに時間が掛かるかもしれない。
だからと言って、コウは食材を買い込んでいてくれたし、食べ物には困らないけれど。
やっぱり酷く――喉が渇く。
大目にあの甘い汁も貰っていた。
あの甘い汁は作り置きに向かないらしく、翌日分までしかなかった。
コウがいなくなって、一週間目。
もう私は限界が近かった。
水を飲んだところで、お腹に溜まるだけで満たされはしない。
気付いたら、自分の指を噛み千切っていた。
生暖かくて湿った、鉄の味。
自分のものだからかあまり美味しくない。
無性に何かをかきむしりたい衝動に駆られて、それに耐える。
自分の体を抱きしめるようにして、肩に爪を立てて正気を保つ。
グルグルグルグルと、頭の中が回転するように、思考がまとまらなくて。
楽しみにしている勧善懲悪のご老公様が出てくる番組さえ、内容が入ってこない。
コウコウコウコウコウコウコウコウ……。
何度も頭の中で名前を繰り返す。
呪文のように。
早く、早く。
早くあの甘い汁を頂戴。
でないと、狂ってしまう。
ふいに、鼻先に甘い香り。
ばっと起き上がり、玄関へと走る。
甘い香り、あの汁の……コウの内側から香るかぐわしい匂い。
「よう……ただいま。いい子に、してたか?」
ドアを開けた先には、仕事用の赤いコートを着たコウ。
傷だらけで、痛々しくて。
それでいて。
――とても美味しそうな匂いがした。
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温かい何かが、喉を潤していく。
甘くて舌の上で蕩ける。
こくりと嚥下するたびに、体を満たす液体は、同時に私を高ぶらせていく。
極上の味に、私の全てが歓喜する。
息をつくために、やわらかな首筋から口を離す。
手の中にはくたりとした肢体。
恍惚としたまま、私はそれを愛おしげに抱きしめて頬ずりし、そして我に返った。
さーっと頭の中から血の気が引いていく。
「コウ!」
私の腕の中にはコウがいた。
明りのない玄関。
あたりは薄っすらとした闇に包まれていて。
コウの服の赤い服は湿っていて、血の香りがした。
こんなにも暗いのに、私の目は色も事象もしっかりと全てを捉えていた。
私は今何をしていた?
その異常さに、今更気づく。
一週間ぶりに帰ってきたコウからは血の匂いがして。
駆け寄れば、その香りに喉の渇きが酷くなった。
目の前が紅く染まっていって……それから私はコウに何をした?
腕の中にはぐったりしたコウ。
カズマからの依頼を受けた時にいつも着ていく赤いコートに触れると、血がべっとりと手についた。
後ろに撫で付けられた髪も乱れ、吐く息は荒く、意識はない。
そっとその首筋にふれれば、生暖かい液体が手にまとわりつく。
ぎょっとすると同時に、指先についた液体を舐め取れば、美味しくてもっと欲しいと思った。
最悪だ。
自分がコウをこんな目に合わせた。
なのに、私の心の奥深いところは、目の前のコウをエサとして捉えていて、喉がごくりと鳴った。
私は何なのだろう。
爪は鋭く伸び、短かった髪が腰の下まで伸びていた。
髪は端だけが黒く、伸びた部分は血のような紅で、艶を帯びている。
その問いの答えを見つける前に、コウをどうにかしなければと思った。
コウはいたるところに傷を負っていて、このままだと危険だった。
「あ、あ……」
首筋を手で押さえるけれど、血は止まってくれない。
どうすればいいかわからなくて、私の口からか細い声が漏れる。
生命の力を持つその液体が、コウから零れ落ちていく。
私の手をすり抜けて、床に広がって。
そのたびにコウの存在が薄れていく気がした。
「死ぬな! 死ぬなコウ!」
自分でやったくせにそんな言葉が口をついて出る。
目から零れた何かが、コウの顔に落ちる。
――こんな事が前にもあった。
そう思った矢先、コウがうっすらと目をあけて私の頭を自分の顔に引き寄せた。
「大丈夫、だから。早く血止めろ」
「ど、どうやって」
「傷口を舐めろ。唾液で、濡らすようにして、治れと念じればできるはず……だ」
苦しそうにコウは言う。
私は素直にそれに従った。
コウの首筋に口をつけ、そっと舌を這わせる。
甘美な味に意識を取られそうになったけれど、それを無理やり頭から排除する。
ぴちゃぴちゃと猫がミルクを飲むように、コウの傷口を舐める。
「うっ……あっ」
染みるのか、コウは顔をしかめる。
嗜虐心を煽られる色っぽい表情だった。
艶っぽい声をもっと聞きたくて、もう一度首筋に牙を立てたいという気持ちが湧き上がってくる。
けれどその本能にも似た衝動を押さえ込んで、一生懸命に唇と舌を使ってコウに奉仕するように、血を舐め取った。
私の中に滾る力が、唾液を、舌を伝ってコウに流れこむのがわかる。
その力がコウの傷を塞いでいく。
「……ったく、遠慮なく噛むんだもんな。まぁすっげー気持ちよかったといえば、気持ちよかったんだけど。さすがに激しすぎ」
薄っすらと金色の目を細めて、ははっとコウは軽く笑う。
いつもの調子で。
「なんで、コウ……私」
「平気だ。怖がんな。お前には、俺がついてるだろ?」
コウは私の頬に手を伸ばす。
優しく言い聞かせるような声で。
「……悪いが、ちょっと寝かせてくれ。色々聞きたいとは思うけど、続きは起きてから……な?」
そう言ってコウは目を閉じた。
死んでしまったのかと焦ったが、寝息を確認して、体から力が抜ける。
どこで何をしてきたのだろうと思う。
カズマからの依頼がいつも、物騒な事柄であることは知っていた。
けれど、今までコウがこんな風にボロボロになって帰ってくることはなかった。
疲れていたり、怪我をしている事はある。
けれど、ちゃんと手当てをして、身なりを整えて。
血の匂いを誤魔化すように、石鹸の香りをまとってコウは帰ってくる。
それなのにどうして今日に限って、こんなに血の匂いをさせているんだ。
コウの血だけじゃない、他の血が混じった匂い。
それほどまでに急いで、私の所に帰ってきてくれたんだろうか。
「……手当てしなきゃ」
薬箱がどこかにあるはずだ。
そう思ったけれど、場所はよくわからなかった。
ふと、舐めれば傷が塞がったことが頭に思い浮かぶ。
覚悟を決めて、コウを脱がす。
腹の辺りに、大きな爪でえぐられたような跡があった。
抵抗はあったけれど、そっと口をつける。
首筋にやったように丁寧に傷口を舐めた。
コウのお腹は引き締まっていて、腹筋が綺麗に割れている。
ゆっくりと傷口に舌を這わせ、血を舐め取る。
「んぁ……ん、くっ」
寝ているけれど、くすぐったいのかコウが声を上げる。
しかめられた顔には汗が浮かんでいて。
やっぱり色っぽいなと思ったけれど、そんな場合ではなかった。
口の周りが血だらけになるのも構わず、傷を下から上へと舐めとっていく。
ぴちゃぴちゃという水音が、静かな部屋に響き、コウの艶めかしい吐息に妙な興奮を覚えた。
三十代という割には、コウの肌はきめ細かい。
身奇麗にすれば、外見の年齢はもしかしたら二十代なのかもしれないとそんなことを思う。
ふいにドアが開いて、月光が玄関先に降り注いだ。
誰かの影が私とコウの上に重なり、夢中になっていたコウの体から唇を離す。
「……一体これは? その姿はどういうことですか?」
そこにはカズマが立っていた。
カズマは、私を見て目を見開て。
目の前の光景が信じられないというように、呆然と立ち尽くしていた。