Part.16 怠惰
――ん? 風の抵抗がない?
重くのし掛かっていた刀が不意に軽くなる。砂嵐の中を文字通り切り開きながら進んでいたが、ようやくその終着点に辿り着けたようだ。風月を振り払い、自身が入れるだけの隙間を作った一樹は、その中で虎に凭れていた六花と目を合わせる。
「あっ……あっ……」
「よう、昨日ぶり」
思わず口を突いた言葉と共に、一樹は笑顔を見せる。どこか引きつってしまうぎこちない笑みだが、ここまで来れた安心感と会えた嬉しさが自然と漏れた微笑みだった。
――やっぱり、泣いてたんだな。理由は知らねぇけど、昔の記憶そのまんまだぜ……
ずきっと、頭が痛くなる。鮮明に思い出すことは出来ないが、この痛みの中にぼんやりとかつての六花を見ることが出来た。
***
時間は昨夜、サンゴと写った写真を倒してしまった時に遡る。
記憶を失った直後、何故か机の上に置かれていた一片の写真。それを思い出したのだった。自分と、誰かは分からないが仲よさそうに少女が写っていると言う写真。一緒に見ていた八重や八雲にも心当たりがなかったため、忘却の彼方に追いやっていたのだが……まさかと思って覗き込む。そこに書かれていた名前をよく読めば……
「くにしば……りっか? アイツのこと、だよな?」
ガリガリに痩せ細ったその体躯は今の豊満な体つきとは比べるべくもないほど弱り切っている。自信なさげに微笑んだ笑顔はぎこちないがあどけない。実に可愛らしく微笑ましい写真だ。そんな少女と……こちらも、今と比べれば活気に満ちている自分が写っている。
――この写真は手がかり、なのか……? いや、手がかりだとしてもこの写真があったからなんだってんだ?
いくら写真を見たところでこの写真を撮ったときの事など思い出しようがない。写真が効果を発揮するのはその写真が撮られた瞬間を少なからず覚えている時に限られる。記憶がなければ、極端な話作り物の合成写真を見ているのと大差ないのだ。
――ここに写っているアイツを見たところで……!?
突如、ガラスをたたき割ったかのような、パリンという音が響く。いや、幻聴の類ではなく確かにその音は響いていた。自身の脳がガラスその物となって、そしてたたき割られているかのような感触が脳を襲ったのだ。
「うぐっ!? 痛ってぇぇ!!?」
耳を閉じてもその音は止まない。内部を砕くその音は止まることなく幾度も繰り返し響きわたる。ピキピキとガラスがひび割れる音、入った皸に耐えきれずガラスが崩れ去る音……繰り返される内に反響の音はどんどん広がっていく。頭の中でなにかが割れるという奇妙な感触とその音に一樹は頭を抱えて暴れ回るが、それは一向に止まる気配がない。
『大……じゃ……して――』
――俺の、声!?
ひび割れたガラスからなにかが漏れ出るかのように、一樹の頭の中を様々な映像が、音声が流れていく。
複数のモニターに写される監視カメラの映像のように、その映像は一挙に一樹の頭の中を埋め尽くすのだ。
映像と音の奔流が、一樹の頭痛を更に加速させる。膨大な情報を一息に吹きかけられて、処理がまったく追いつかないのだ。
『別……けど、なに……一緒に……ちゃダメ? 俺は……たくな……とやるタ……じゃないしさ』
――初めて見る割にはやけに懐かしい……なんだ、まさか俺の記憶か?
ヴァンに"焼き付けられた"時ですら、映像しか流れなかった過去の記憶。1つ1つは途切れ途切れの記憶ばかりで、詳細はよく思い出せない。数多の場面を写した映像達だが、その映像には共通点がある。
『うん。女の子に……トしてや……ぞって……から聞いてさ……』
――間違いない……俺の、記憶だ!!
1つは、すべてが一樹の主点で写し出されていると言う事。
そして、もう1つが……
『……って言う……けどさ、どう?』
『どうし……なの?』
『うん……って……はね――』
――なんだ、なんて言っているんだ、俺は……?
国柴六花が、必ず写っていると言う事であった。
***
「うっ……」
未だに頭痛は続いている。割れたガラスがそこら中に散らばっているからだろうか 思い出そうとする度にチクチクと脳が刺激される。痛みに顔をしかめていると、気付けば六花は立ち上がってこちらに向かっていた。涙を拭いしゃくり上げながら、六花はこちらに向かってくる。
彼女と話すのに刀はいらない……"風月"をしまいながら、一樹もまた六花の元へと駆け寄った。
「大丈夫か?」
「……た?」
「ん?」
砂嵐の音に巻き込まれてその音は聞こえない。彼我の距離まで後一歩という時、六花は顔を上げていた。
涙を流した修羅がそこにはいた。虎の猛々しい声と共に、六花は吼える。
「何しに来たと聞いてるんだこの抜け殻がぁぁっっ!!」
直後、砂嵐にも負けない程の怒号と共に砂の触手が一樹に襲いかかる。あまりの不意の出来事に一樹は抵抗する間もなく締め上げられた。押し潰されかねない程の強さで圧迫され、悲鳴が喉を通るも、首にかかる拘束に遮られる。
「何が昨日ぶり、だ。知ったような口を利くんじゃないっっ!!」
フィルムケースから溢れた砂が弾丸のようになって一樹に打ち込まれる。怒りで我を忘れているからか、その狙いは乱雑なものだった。何発も打ち込んだ弾丸が外れる事に痺れを切らした六花は、息を荒くしながら詰め寄ってくる。
「その知ったような口ぶりが、どれだけ私を苦しめたと思っているっ!? 何も知らない癖に、知ったようなフリをしてなんになるっ!?」
締め上げる圧力が、飛沫が飛ぶことも厭わない六花の剣幕が、彼女の怒りのすべてを伝えてくる。身動きを封じられた一樹は、文字通り全身で怒りを受け止めることしかできない。
彼女の拳が一樹の頬を捉えた。
「昨日ぶり、そんな言葉が出るのなら、あの時私を呼んでくれた名前を覚えているんじゃないか!?」
「……」
「言ってみろ、烏飼一樹っっ!!」
喉の拘束が解ける。漏らしたくない悲鳴はいくらでも上げたかったのに……その名前を、一樹は思い返せなかった。
『……って……けど……どう?』
――だめだ、よく聞きとれねぇ。
何度思い出そうとしてもその名前を呼ぶことができない。沈黙を答えと見出した六花は、その怒りを拳に込めた。
「言えないだろう!? 昨日からそうだ! 根拠もないことをペラペラと喋って……その結果、私がどれだけ苦しんだと思っているっっ!!」
何度も何度も殴るその拳は、想像していた以上に弱かった。殴られた経験がないため分からないが、その痛みはサンゴでなくとも、恐らく火蓮や浅葱が殴ったときの方が遙かに強いに違いない。ただ当てているのと大差ないほどの弱々しい拳は、彼女の衰弱ぶりが推して知れる。
「"君"に……会えないと知った私がどれだけ辛かったか……分かるか?」
振り上げた拳が一樹の鼻先を掠める。息も枯れ枯れになった彼女は、その場にへたり込む。何度も何度も大きな息を吐き出した。
「……分かる、はずがない」
パラパラ、と。水を吸った砂が崩れていく。
いや、それだけではなかった。自分を覆っている砂の拘束がサラサラと音を立てながら解けていく。彼女の魔力は枯れ果てる寸前らしい。周囲を覆う砂嵐は未だに続いているものの、少しずつ弱くなっている。
「一方的な、優しさを振りかざして……自己満足に浸っていたお前に分かるわけがない」
ギュッと砂を握り締めながら、彼女は涙を流している。開放された一樹は地面に倒れ込みながら、すぐ近くですすり泣く彼女の顔を見た。
――そうだ。分からなかった……。自分の都合で勝手に打算的だと決めつけて、他人を分かった気でいる俺は、他者の気持ちなんて分かるはずがない。
悲痛に歪む彼女の顔からは、昨日見せつけられた氷の仮面のような彼女の面影は感じられない。人の目を憚ることもなく、感情を剥き出しにしている彼女の思いは痛いほどに一樹に伝わってきた。
――サンゴや七曜だって、こんぐらい怒ってた……なのに、俺は……
いや、怒りに限った話ではない。それこそ、昨日彼女が自分に話しかけてくれていた時だって、自分は情報を引きだそうと言う事を第一に話していた。彼女の真意に気付くこともなく、最低限の道筋を辿って向かおうとしていたのだ。
他者と関わることサボっていた罰は、一樹自身が充分すぎるほどに思い知っている。たった一人になって、ようやく他者の大切さが分かったのだった。
――他人の思いを……感情を、すべて無視していた。だから、今こんな事になっているんだ。
自分を支えてくれていた友人達がすべて離れ、目の前で泣いている少女を救うことすら出来ない。
彼女の思いは、ただただ過去の一樹に会いたいと言うただそれだけなのだ。
今、それを叶えることなどできはしない。僅かながらも記憶が残っているとは言え、今の一樹がそれを伝えたところで彼女の心には届くはずがない。そもそも、残っている記憶など、すべてがすべてまやかしの物なのだ……客観的に記憶を知っていても、体感で覚えてなどいないのだから、それは体験とは呼べない。小説を読んだり、映画を見たりして得た経験と一緒だ。……それらしく語ったところで、所詮は無意味な優しさに他ならない。
――そうだ……彼女を、論理で救う事なんか、できない。
「うぐっっ……」
「六花!? 」
六花の容態が悪化する。泣いていた彼女が、突如胸を押さえて苦しみ始めたのだ。魔力が枯れ果てている……苦しみながらも、しかし彼女は砂嵐を解くことなどしなかった。
ここまでして死のうとしている人間を、救うだけのなにかを一樹は持っていない。
――何を言ったところで、彼女を救うことなんかできはしないかもしれない。
それでも……それでも、
諦めきれない一樹の脳に、師匠の言葉が過ぎる。
――『時には自分の心に素直になってみろ……そうしなければ、人と共に生きることなど出来んぞ』
「六花っ!」
考えるよりも先に、体が動いていた。苦しそうに呻いている六花の肩を抱き上げる。思いがけない行動に六花は驚いたそぶりを見せたのもつかの間、すぐに払いのけようとする。
「はぁ……はぁ……お前の、優しさなど――」
「無意味、なんだろうな。それは分かっている。だけど、聞いて欲しい事があるんだ」
言葉を選んでいる暇などない。息も絶え絶えに拒絶する六花に向けて、一樹は思いの内を吐き出した。
「ごめん……本当に、ごめん。他人の気も知らないで、ただ誤魔化していた最低な野郎だよ。嘘で繋いでいた自分が本当に情けない……」
「謝られた……ところで……お前、の、言葉なんかいらない……私が、私が欲しいのは……」
「一樹の言葉だ……」と嗚咽と共に吐き出した言葉が、一樹の心を抉る。
今の一樹では、何もできないのは自明の理だ。
「俺の言葉なんかいらないだろうな」
理屈で彼女を救うことなど、できはしない。
理屈がない以上、自分が今から言うことが必ず果たされる保証などない。
「だから、許して欲しいとか、そんなつもりで言っているんじゃない」
それでも、一樹は諦めたくなかった。
何もできないからと言って、易々と諦めたくはなかった。
仲間を失った悲しみを、二度と味わいたくなかった。
「記憶が戻ったら……あの時のあだ名をもう一度思い出すことがあったら……その時は、その名と共に会いに行く」
「っっ!!」
何の根拠もない口約束だった。
果たす手立てなど未だに見えない、途方もない約束だった。
それが、一樹の思いだった。
「絶望させてしまったお前に、改めて謝りたい。だから、その時まで生きていてほしいんだ」
「生き、ろ……だと?」
擦れ擦れの声で、彼女は話す。雨で濡れた冷たい体がずっしりと重くのし掛かってくる。
「お前の思いを全部が全部理解したわけじゃない。だけど、俺に会いたいって気持ちはとっても伝わってきたよ」
「……」
雪白の美しい肌は青白くなっている。生気を感じさせない不気味な白さが一樹の心をかき立てる。
「今ここでその想いに報いることはできねぇ……けど、記憶が戻ったら、何を置いてでも会いに行く。君が肯定する俺として、ちゃんと謝りたいんだ」
「…………る。……て……さ」
小さく開かれた六花の口からの言葉は聞き取ることすらできない。彼女の最期が徐々に近づいている気がして、彼女の肩を強く揺する。
「頼むっ!!……頼むから、死なないでくれ!」
虚ろな視線は焦点を定めずただ泳ぐ。青白さを通り越した不気味な蒼白さに染まった顔。青紫色に染まり痛々しさすら感じさせる唇は、ついに動きを止めてしまった。
「お前の会いたかった俺になって、必ず戻ってくるから……」
最後の力を振り絞って、六花の口角が上がる。
蒼白くなったその笑顔は、間違いなく今の一樹を捉えていた。
そして……
「六花? おい、六花ッ!!」
六花はゆっくりと目を閉じていった。
一樹の慟哭は、砂嵐が巻き起こす音を上回って虚空に響く。
降り注ぐ雨は、涙を零す一樹を無慈悲なほどに打ち続ける。




