Part.13 六花 2
「あっ、あの……」
「ん?」
授業が終わった直後、六花は恐る恐る一樹に声をかけた。授業の後半は、どうやってお礼を言おうかどうかでずっと悩み通していたのである。30分ぐらいずっと悶々と悩んで、ようやく声をかけることができたのだ。複雑に渦巻く胸中とは反対に、当の一樹はひょうひょうと返してくる。
「なに?」
「えっ、いや、その……」
あれだけ考えた言葉が出てこない。教科書を貸してくれてありがとう、とそう言いたいだけなのだが、長いことまともに人と話していないのである……言葉が、思うように出てこなかった。長い沈黙の間、訝しみながらも一樹は待っていてくれていた。
「あの……あっ、ありがとう」
「教科書のこと? それなら別に良いよ」
言外の意を言い当てながら、一樹はヒラヒラと手を振る。一樹は先生がこちらを見ていないことを確認して、六花の机の上に置いてある教科書を回収した。
「なんか困ってたみたいだったから勝手に貸しただけだし、あんま気にしないで」
「えっ?」
一樹の反応が六花には不思議だった。困っていたみたい、と言う事はまるで自分の事を見ていたみたいではないか。自分に向けられる目など、すべてが嫌悪か拒否のものだと思っていた六花からすれば、何故なのかは分からなかった。
「困ってた……?」
「どう見てもそうだったって。国柴さん、顔真っ青だったよ?」
そう言って一樹は次の教科書を出し始める。相変わらず自分の周りには人など寄ってこない。それでも、この烏飼一樹だけは自分の側から離れることなく話を続けてくれている。
「そう、なの……」
自分を真っ直ぐに見つめてくる一樹に心臓がバクバクと高鳴ってくる。何を言えば良いのだろう、どう話を続ければいいのだろう……次の言葉に困っている内に、気付けば一樹の顔が目前に迫っていた。ヒッと声を出して六花は身を引いてしまう。
「……国柴さん? どうかした?」
「あっ、ええっと……なんでも、ないよ」
「本当に? そうは見えないんだけどなー?」
垂れた目から感じる気怠さとは裏腹に、好奇心に満ちた言葉で言い寄ってくる。心臓の高鳴りが勢いを増し、呼吸するのさえ苦しくなってくる。
「顔真っ青だけど、大丈夫?」
「大丈夫……元から、こんな感じだから……」
「いや、そんなことないと思うけど……もしかして、迷惑だった?」
「っっ!!」
そんなことはない。そんなことはないのだが……上手く、言葉が紡げない。彼からの気遣いはとても嬉しかった。
だけど、上手く言葉が出てこない。手をパタパタと振りながら、六花はごまかしの言葉を継げた。
「そんなことないよ……だから、あのその、私のことは、気にしないで……」
「……ふーん。なんか、ごめんな」
そう言って一樹は机から立ち上がり、どこかへと去っていく。どこか釈然としない様子の一樹の後ろ姿は心なしかさびしそうだった。
周りを見れば、相も変わらず自分に近づく者はいない。
だが、六花が誰かと喋っている、と言う事実に目を丸くしている人は大勢居たような気がした。
――本当に、ビックリした……。
未だに鼓動が早くなっている。伏せても耳の奥からどくどくと心臓が全身に血を送っていることが聞き取れて、不快に思いながらも……どこかで、興奮していた。
――おしゃべり、してたんだ……私。
人とまともに言葉を交わしたことなどいつ以来だろうか……その高揚感が間違いなく彼女の心の中を占めていたのだ。
***
「でさ、こないだ八雲とクワガタ取りに行ったんだって」
「ふぅーん……?」
どうして自分なんかに拘るのだろうか? 六花にとっては甚だ疑問だった。隣の席にいるというただそれだけの間柄なのだが、件の日以来一樹は毎日のように六花に話しかけて来ている。最初の内は話し方など分からない六花だったが、繰り返し話を続けている内に一樹に対する緊張が少しずつ和らいでいったのだ。
最初の方は上手く喋れない、と言う恐怖心があって彼から喋りかけられても無視してしまうと言う事ばかりだった。その度に「私のことなんか気にしないで」と無碍に扱っていたのだが、それでも彼はやめようとしない。それどころか毎日毎日、しつこくも喋り続けてくれるのだった。
「その時折角だからってクワガタに相撲取らせてみたんだけどさ。俺の方が押してて、もうちょいって所で八雲のクワガタが反撃してきてさ……」
授業のことだけでなく、六花自身のことや彼のこと、昨日どんな事をしたのかだとか今日は何がしたいだとか……彼の話には自分にはない希望が満ち溢れていた。
「結局引き分け。でも絶対俺が勝ってたって。タッチの差で落ちただけだったもん」
「その……八雲って……だれ?」
こちらから話す事は特にない。喋れるほど楽しい生活をしているわけでもなければ、それでも、不思議と彼と喋っていて悪い気分はしてこない。
「俺のいとこだよ。国柴さんっていとこっている?」
「えっ……えーっと、いないよ。叔母さんならいるけど」
「そうなの? でもいとこがいないって、もしかして結婚してないってわけ?」
「そうだよ。確か今大学生だし……」
叔母は一樹にとって「いとこのお母さん」であり、六花にとっては「お父さんの妹」なのだろう。些細な認識のズレに六花は少し面白さを覚える。
――違う世界の人みたい……。
「大学生なの!? じゃあ、こないだ来た教育実習の先生ぐらいってことなの!?」
「そうなる……かな? だから、『おばさん』って感じあんましないんだよね」
六花の脳裏にしばらく会っていない叔母の顔が思い描かれる。六花の父親側の祖父母は既に他界していたため、六花の父親が面倒を見ていたのだ。大学に入学すると同時に、これ以上迷惑をかけられないと家を出て独り立ちをしているはずだ。叔母と言うよりはそれこそ姉に近いような人物で、よく遊んでもらっていた事を覚えている。多忙であるらしくて中々会えていないが、時折今の家に遊びに来ることがある。その時は伯父も六花に良い格好をさせて外面を誤魔化そうとしているのだが、ここ2、3年は本当に会えていない。
「俺のとこもそうだよ。おばさんって呼ばれたくないから、名前で呼びなさい! って言ってくるんだ」
「私はお姉ちゃんって呼んでるよ。しばらく会ってないんだけど……」
「そうなんだ。どんな人なの?」
「優しくて、すごい人だよ。頭も良くて、ここら辺で一番の高校行ってたし……」
「もしかして日浪高校!?」
「そう、それ。私の自慢の……お姉ちゃんだよ」
そう言った六花に、一樹は「あっ!」と大きな声を上げる。
「やっと笑った!」
「えっ……?」
「あー、戻っちゃったー……」
机を小さく叩いて一樹は悔しがる。何そんなに悔しがっているのだろうか? その疑問は続く言葉に払拭された。
「ようやく国柴さんを笑わせられたと思ったのに残念……」
「私、笑ってた……?」
「うん、小さかったけど笑ってたよ」
無邪気に笑いかけてくる一樹。自分の表情など気付いてもいなかったのだが、しかし彼が嘘をついているとも思えない……何年ぶりに、笑った気がする。
「もしかして、私を笑わせるために話してたの?」
「途中からそんな感じだったよ。いっつもしかめ面だから笑ったら面白いかなーって」
「そうなんだ……面白かった?」
「んー、微妙。だから、次はもっと笑わせるからね」
「そんな。すぐには笑えないよ……?」
意気込む一樹を尻目に、六花は確かに笑っていた。
――変なの……。だけど、なんか面白いかも。
「良いよ別に。難しい方が燃えるもん。それでさ、お姉さんの話もっと聴かせてよ」
「うん、えっとね……」
ぽつぽつと、雨垂れが垂れるようにゆっくりしか喋ることができない。それでも、一樹はすべてを受け入れる受け皿のように六花の言葉を待ち、時には聞き出してくれて……忍耐強く、自分の話を聞いてくれた。
自分には希望など関係ないと六花は今でも思っている。
それでも、六花の胸の内は話している内にどこか暖かくなっていたのは事実だった。
***
一樹と話すようになって、しばらく経ったある日。学校に来ることが少しずつだが楽しくなってきた彼女の元にある手紙が舞い降りる。
放課後、校しゃうらに来るように。
う飼一きには知らせるな。
もし来なかったら、おそろしいことが起きるだろう。
机の引き出しの中にそんな書き手紙が残っていた。よくよく見ればどこにでも売っていそうな折り紙の裏に、どこか丸みを帯びた幼い文字で書かれている。クラスの誰かからの呼び出し状なのだろう。
――えっ、誰だろう……どうして、烏飼君には知らせちゃダメなのかな……?
他の誰かには言っても良いと言うことなのだろうか? 六花の立場からすれば確かに他に話せる人間など居ないため理に適っていると言えなくもない。習っていない漢字が書けないちぐはぐな印象を与える文章も相まって、小学生らしい未熟さ溢れる"呼び出し状"は大人から見れば可愛い物に思えるかもしれない。だが、当の本人である六花からすれば不安を大きくかき立てるものに他ならなかった。人と接し慣れていない性格も相まって、臆病な性格も相まってビクビクと怯えきってしまう。
――おそろしいこと、ってなんだろう。怖いなぁ。
元々、快適な居場所でなかったことは間違いない。だが、それでも伯父からの束縛を逃れられる数少ない憩いの場であったことは間違いなかったのだ。
学校にいて、学校から帰って伯父が帰ってくるまでに掃除をする時間、その間だけは怖い思いも、痛い思いも、したくないこともしないですむ数少ない時間だったのだ。
なにより、最近は――、
「おはよう、国柴さん」
「っっっ!!??」
反射的に六花は手紙を引き出しの中に仕舞う。その動作に一樹は不思議に思って隣に座りながら、いつもの調子で聞いてくる。
「なに、どうかしたの?」
「えっ? いや、あの……」
ふと視線を逸らして周りを伺えば、こちらを見ている女子が数人居る。その視線に含まれるのは明らかな敵意であった。拒絶や否定とはまるで違う、関心を持っているからこそ向けられるその目に六花は背筋が強ばってしまう。
おそろしいことなんて、ここでは起きて欲しくない。
そう思って、六花は一樹に首を振りながら言葉を返す。
「本当にっ!! なにもないから……その、気にしないで。……朝の会、始まるよ」
「んっ、そうだな……なんか、ごめんな」
「良いよ、気にしないで……」
――ごめんなさい、本当にごめんなさい烏飼くんっ!!
その時間まで奪われたらどうなるのか……一種の強迫観念にも似た感情が六花の脳内でグルグルと回る。
大事な時間を奪われたくない、そう思う一方で一樹に対して嘘をついてしまったことや、突き放すように誤魔化してしまった事への罪悪感が六花の中に襲いかかる。
――もしかしたら、嫌われてしまったのかも。
つまらなさそうに唇を尖らせる彼の横顔に、六花は並々ならぬ不安を感じた。




