Part.1 愚挙
――動ける時に動いていれば、こんな状況にはならなかったんだろうな……。
「……」
無駄な脂肪も筋肉も付かない華奢な腕が持ち上がり、自分に向けて振りかざしてくる。どこを見ているかも定かでないぼんやりとした目をしている癖に、その拳の狙いはやけに正確だ。
決して避けられない早さではない。まっすぐ正面から向かってくることもさることながら、大ぶりな軌道……しかし、七曜はチラリと背後を顧みる。
「……」
そこには同じように拳を振り上げる黒い肌の少女が。意識を奪われてぼんやりとした顔つきのまま、こちらも確実に拳を振り抜いてくる。
――日常に浸りきって目を逸らしていた報い、なんだろうね……今、動くことができないのはっ!!
再び視線を戻せば、マフラーを巻いた少女の拳がすぐ近くまで来ていて……
「ぐっ!」
拳が突き刺さる音が前から後ろから響き、七曜の体内で共鳴する。
精巧にできた人形のごとく、表情1つ変える事がない浅葱と火蓮の姿を見て、彼女達が意識を奪われていると言う事実にまだ感謝ができる。良心の呵責を感じさせることはないのだから、自分がこうやって殴られていれば彼女達に直接の被害はないはずだ。2人の攻撃は終わらない。次から次へと拳や足を振り上げては七曜の体を少しずつ痛めつけていく。
「女好きとは聞いてましたが、殴られるのもお好きなんですか?」
拳や足が突き刺さる音に紛れて、神経を逆なでするかのような声が耳に入ってくる。防御したときの衝撃すらも彼女には与えたくない。最小限の防御をとる意外に身動きがとれない七曜はせめてもの抵抗にと、その声の主、セキラに鋭い眼光を向ける。目があったとき、彼の顔に浮かぶ喜色はより大きくなり、代わりに嘲笑を向ける。
「そう睨まないでくださいよ。恐いですね?」
「畜生ッ!!」
七曜1人をターゲットにしている割には2人の振り抜く軌道は大きい。無駄が多い拳の軌道は戦闘慣れしていない素人であろうと簡単に避けることができるだろう。
それでも、七曜は避けることができなかった。仮に七曜が避けよう物なら、振り抜かれた拳は間違いなくもう片方に当たる事になる。本来であれば儲け物の相打ちだが、しかし状況が状況なのである。今自分を殴っているのはセキラに操られているとは言え大切な後輩である水山浅葱と木下火蓮である。大の親友を知らぬうちに殴る、などという事を七曜は許せなかったのだ。拳を押さえ込み、時には弾いて軌道をずらしながら七曜は対処をするが、2人の連撃は止まることを知らない。
――はっ、他人に「友達を殴るな」って強要するなんておかしいかな?
自分に殴られ、口の端から血を垂らしながらも黙って睨み付けていたあの眼光が脳裏を過ぎり、自虐的な笑みが浮かぶ。その隙を突かれて浅葱の拳が自分の腹にめり込んだ。
――しまっ……た。
そこからは砕けた堤防からあふれ出す流水の如く、2人の攻撃が襲いかかってくる。片方が殴ったと思えばもう片方が、それぞれの攻撃を押さえようとすれば、もう片方が攻めてきて……
溜まった痛みもあり、2人の行動に七曜の手が追いつかない。主導権を完全に握られ、殴られっぱなしの七曜の脳裏には、未だにあの時の眼光が睨み付けている。
――あいつなら、どうするんだろう?
「烏飼一樹なら、遠慮なく相手をたたきのめすでしょうね」
七曜の考えを読んでいるかのようなタイミングで放たれるセキラの言葉が、ぐさりと七曜の心に刺さる。ただ挑発するために言っているわけではない。七曜ができないことを知っていてなお、あえて口に出しているのだ。タコ殴りにされている七曜を見て楽しんでいる性根の悪さが伺える。
「でも、貴方も別にできるんじゃないですか? 他でもない、大切な恩人を殴って来た訳ですし」
まるでその場を見ていたかのような言い方をするセキラ。その言葉は七曜の心にグサリと突き刺さる。殴られた痛みすべてに勝るその衝撃は、お返しにとかけられた言葉を思い返させる。
『敵につくだのなんだのうるせぇけど、安っぽい正義気取ってんじゃねぇよ』
――安っぽい、正義……違いない。裏切ることを叱責しておきながら……その手段に、暴力を使う僕の正義なんて、所詮そんなものだろうね。
『水山の事が心配だぁ? 水山以外で被害に遭っている人間は大勢いる。そいつらの事を特に気にもかけず、自分の知り合いが被害にあった時だけ動こうとする程度で正義漢気取るのは点でおかしいっつーことだよ。正義語るんならもっと早くから動きやがれ』
――今なら……分かる。一樹は、最後まで僕を殴ろうなんてしなかった。裏切ると言っておきながら、その行動を実際にしようとはしてなかったんだ。
『敵の目標を穿つこと、そうすれば必然的に水山を助けることもできる……違うか?』
――だって、最初に一樹は間違いなくそう言っていた……みんなを助けることを、最初から頭に入れていた……。
火蓮の拳が七曜の頬を抉り、メガネが宙を舞う。
殴られた痛みと自分自身への呵責が、心身ともに襲いかかり、自分でも思うように体を動かせない。
――昨日のサンゴちゃんと同じだ……あの時、僕は蚊帳の外だから一樹の思いがよく分かったけど……実際に、ぶつかると、全然気づけないもんだね。
セキラに最初に言われた「一樹が自分勝手に動く人間か?」と言う問いかけ、サンゴとケンカしたときの怒り、自分自身の状況……
為す術なく殴られている七曜は、その身だけでなく心もまた後悔にうちひしがれている。
――アイツは、話を聞こうともしない僕に怒っていたんだっ!! 勝手に決めつけて話を進めた僕に流れを任せて、早く終わらせたいと……それだけを、目標にしてあんな事を言っていたにすぎないはずだっ!!
――一樹からすれば、僕こそが自分勝手な人間なんだろうな……後手に回ってばかりで、動こうともしないんだから。だから、後悔してばかりなんだ……。
浅葱が足を蹴り飛ばし、七曜は蹌踉めいてしまう。地面に倒れ込む七曜の胸中には、後悔の念ばかりが渦巻いている。
――あの時だって、何もできなかった……目の前で、ただ泣き叫ぶことしか、できなかった。
倒れ込んでしまった七曜の背中に、強い衝撃が走る。
どっちがやっているのかは分からない。肺から空気を捻りあげるかのように、背中を踏みにじられている。それでも、体の痛みよりも胸を締め上げる痛みの方が七曜には大きく感じられた。
――そうだ……結局僕は……後悔してばかりの……愚か……も、のだ……。
目の前が霞み、意識が遠のいていく感覚が七曜を襲う。夢を見るかのように、七曜の目の前には過去の自分が写っていた。
***
七曜は実の父親のことを知らない。
自分が生まれた時には既に死んでいただとか、物心ついたときには母と離婚していたとかそう言う訳ではない。ひょっとかしたら、今でもどこかで生きているのかもしれないし、死んでいるのかもしれない。しかし、七曜はそんなことを知るよしもないのだ。
母親が教えてくれなかったから、と言うのが一番の理由であるが……そもそも、母親自体相手のことを知らないのである。母親のことは覚えている。色白な肌がよく似合う類い希なる美貌に加え、いかなる話にもついていく事ができる豊富な知識、様々な意味において"客"を退屈させない器用な手先、それらすべてを兼ね揃えた……娼婦であった。優れた手管を持つ彼女だが、彼女の名前を知る物はほとんどいない。それもそのはず、彼女は名前を上げて客を増やすのではなく、無名のまま相手を油断させて近づき、男のすべてを奪い、去っていくと言う狡猾な手法をとっていたのだ。そんな彼女が、ふと油断した時に身ごもった子ども……それが七曜なのである。
手を上げることこそしなかったものの七曜の扱いはあくまで他人同士。死なれると嫌だと言う、ただそれだけの理由で自分の世話をする母親に愛情があったようには思えなかった。自分が4歳ぐらいになった頃に母親は七曜に様々な教育を施すようになっていた。母親の才能を色濃く受け継いだ事も影響しているのだろう、生きていくために必要な様々な処世術を次から次へと教わっていた。
そして小学校に入る直前、七曜が生きていくだけの充分なお金を残し、母親は蒸発してしまった。取り憑かれたかのように急いで七曜に教育を施していく彼女の姿から、幼い七曜は捨てられると言う事を覚悟していたし、なによりあんな愛情も何も感じさせない母親など所詮他人の一人としか思っていなかった。だからか、特に落ち込むこともなく七曜はのうのうと生きていた。
むしろ、彼女がいなくなったことで七曜はつけ上がった。人間界にありながら、魔力を使う無法者が溢れかえる"暗黒街"にいたこと、魔力量が多かったこともあり来る日も来る日も魔力を使ったケンカに明け暮れていた。2年生に上がる頃には学校中で彼に敵う者などいなくなり、3年生になった頃には学校を飛び出し、"暗黒街"に蔓延るチームに入っては中から瓦解させていく……ということを繰り返していた。穏やかな顔つきで油断させ、親族が一人もいないと言う情報から使えると誤認させて大人のチームに入っては内部を壊していく。その悪名が表に出ないように細心の注意を払いながら、確実に相手を潰していく手管は間違いなく母親から受け継いだ天性の才能だった。仲間だと信じていた者から裏切られたときの間抜けな顔が、七曜はたまらなく好きだったのである。
"内部から壊していく"……確かに幼い七曜にとっては大きな快感だった。だが、その快感は酷く刹那的で虚しく、自分の心もまたゆっくりと朽ちさせていくだけだった。
しかし、そんな生活もある日を境に終止符が打たれる。
4年生の時、七曜はいつものように計画を立てていた。なにやら大きな組織をバックに持つチームだったようで、七曜はいつになく胸を躍らせていた。
だが、七曜はその連中を倒す事ができなかった。
いくつものチームを潰してきて浮かれていた所があったのかもしれない。計画を実行に移す段階で、その企みが露見してしまったのである。
子どもだからと七曜を許そうとする者などいなかった。裏切り者を許さないと言う組織の教えに従って、七曜は徹底的に追い詰められたのである。自分よりも強大な魔力を持つ大人達を幾人も相手取っては、流石の悪童でも対処できない。死ぬかもしれない、そんなとき七曜は「別に良いか」と思って諦めたことを覚えている。
――僕は負けたんだ、負けた者が消えていくのは当然だろ?
暗黒街では負けが死につながる。人を殺めた経験はないながらも、何人もの人間を負かしてきた七曜はこの世の摂理を密かに学んでいた。
しかし、その時チームの1人が急に裏切ったのだ。完全に諦めきった七曜の目の前で、その男は次から次へと団員を倒していく。現実離れした強さを見せつけながら、10人以上もいる団員を一瞬で捻り上げ、男は七曜の方を向いてこう言った。
「まったく、計画が漏れたのかとヒヤリとしましたよ」
表情筋がないのだろうか? にへら、と言う擬音が聞こえそうなほどに、柔らかな笑顔だった。若い見た目なのに、年齢以上の包容力が溢れる落ち着きがある。しっかりと向き合うのは初めてであるはずなのに、心が安まる温かさを感じさせる男だった。
「もっと早く助けろって思ったかもしれませんが、私もチャンスを窺ってたんですよ。まあ、やんちゃへの罰と言う事で許してください」
輝かしいまでの笑顔を見せるその男は、口を開いてこう続けた。
「自己紹介がまだでしたね。私は、後藤延喜と言います。君は、なんて名前なんですか?」
温和な雰囲気が全身を包むが、しかし頼りなさは感じない。
これが、春に優しく照りつける木漏れ日のような男、延喜との最初の出会いだった。




