第一話 彼の事情
あの人を取り戻すまでは戻って来ないわ。
そう妹は言い残し、身軽く駆け去っていった。
妹の夫……自分の義理の弟が何者かに浚われたのは、ついこの間のことだ。 妹にはその犯人が誰か心当たりがあるのだろう、一報を聞くなりぎり、と険しい顔で唇を噛んだ。
妹が腕に抱く双子の子どもが、母の怒りを感じてか落ち着かなさげに体を捩っている。
私に袖にされたからって、あの男……っ。
低い怨嗟のような呟きに、相手がどういう人物かは知れた。
おそらく歌姫として舞台に立つ妹に懸想した男。妹が誰と結婚しているか調べられる男、そして妹の夫を浚えるだけの腕を持つ誰かを雇える男、だ。
妹の夫は力仕事など無縁ですというような、線の細い優男なのだが、あれでいて意外と腕がたつ。
その男がやすやすと浚われたのだ……手練れを雇える男か、多勢に無勢だったか、どちらかなのだろう。
妹の夫は、妹を招き寄せる餌だから、酷く痛めつけはしまい。
いきり立つ妹をそう言って自分は宥めたし、事情を知った一族の他の者たちも同意見だった。
まずは行方を突きとめて、それから奪還しに行くのだ、いま無闇に動いて手がかりを失くしたらどうすると悟され、妹は不承不承頷いていた。
あの男を締めあげればいいのではないかと苛々と爪を噛む妹に、あの男は下手に権力を持っているから、まともにぶつかるのは避けたほうがいい。後々言いがかりをつけられても面倒だ。だからこそ、何も言い訳が出来ぬよう、浚われた先から取り戻してくるのが一番だと。
妹も自分たち一族の長であるから、頭ではわかっていたはずだ。
しかし己の半身とも呼べる夫を奪われて、冷静ではいられなかったのだろう。それがわかる一族の者たちは、一人で飛び出していきかねない妹を必死に宥め引きとめたのだ。
行方を突き止めたのなら、引き絞られた矢のような妹を引きとめたりはしない。
しかし、相手が下手に権力を持っている以上、闇雲に探し回るわけにはいかなかった。
じりじりと焦る気持ちを抑えながら、どれくらいの時間がたっただろうか。
ついに妹の夫の行方を突き止めたのだ。妹は爛々と目を光らせ、矢継ぎ早に指示を出す。妹とともに行動する者、相手が変な気を起こさないように、陥れる策を実行する者。
その中で、自分に課せられた役目は、妹の子どもたちを保護しておくことだった。万が一にでも子どもたちを浚われたら、その時こそ妹は……そして一族の他の者たちも禍根が残ろうともなりふり構わず相手の所へ乗り込み、力ずくで奪われたものを取り返しにいくだろう。
最終手段としてはそれしかなくとも、一応人間社会で暮らす以上は無用な争いやもめごとは出来るだけ避けるべきだった。
妹やそれに従う一族の者を見送り、残された自分たちはそれぞれに散った。情報や連絡を待つため街に残る者もいたが、多くは元の生活に戻った。 このような……一族の誰かに何かがあれば、駆けつけられるようにはするが、曲りなりにも人間社会で暮らす以上、そして万が一を考えて自分たちの繋がりは表立っては知られていない。
異端を忌み嫌うヒトの中において、混じって暮らすための用心であった。
自分は他の一族の者と別れた後、乳飲み子の甥たちを連れ森へと向かった。
人はまず足を踏み入れない鬱蒼とした森は、迷いこめば二度と出てこられない魔の森として土地の人間からは恐れられている。
しかし自分にとっては庭のような場所であるし、ヒトは知らないが休める場所もある。森がここまで広がる前、酔狂なヒトが……自分の師匠でもあった男が、山小屋を建てたのだ。森が薬草の宝庫だと知っていた男は、作業場として、そして煩わしい街中を避ける場所として、建てたものだった。恐れなく魔の森をゆく師匠に、自分は呆れた声をかけたものだ。
迷いこんだら二度と出てこられない魔の森ですよ、恐ろしくはないんですか、と。
師匠は笑って言った。怖いくらいでちょうどいいのさ、自分の分を忘れずにいられるからな、と。
師匠が自分の事を知っていたかどうかは、わからない。最後まで何も言わなかったし、自分も何も言わなかった。師匠が老い、自分が独り立ちをした時に、彼は森の中の小屋はお前の好きにしろと言った。壊すも手入れして使うも好きにしろ。ま、あんな森の中だ、やって来る命知らずはそう居らんからな、煩わしさは感じずに済むぞ。
それ以来、二度と師匠に会う事はなく。譲り受けた山小屋は手を入れ、単に雨風をしのげるだけの場所から、暮らす事も出来るほど居心地のいい場所に変えていった。薬草を採りに行ったとき休める場所として使えるし、街の喧騒が煩わしくなればしばらくそこで暮らせばいい、そう思って。
そしてその場所ならば、まず誰も入り込めまい。道はなく方角を知ろうにも繁る木々により太陽の位置を知る事も困難だからだ。力では妹たちに劣る自分であるが、場所の利もあり何かあっても対処できる自信はあった。
やっと寝てくれたかと、自分の腕の中で眠る、双子の甥たちに視線を向ける。母親と離された事が不安なのか、不穏な気配を感じてか、甥たちは落ち着かない様子だった。薄味のスープでやわらかく煮たパンを口に運んだところで吐き出してしまうし、山羊の乳をもらって口に含ませてもむずかって碌に飲もうとしない。一人がその調子だとつられてもう片方もぐずりだすから、時として泣き声は二重奏になる。何とか食事をさせ、宥めすかし、寝かしつける頃には、ほとほと草臥れ果ててしまった。
こんな事なら、後方待機でなく実働する方へ加わった方が気が楽だったかもしれない。そう思い、そして思わず妹に尊敬の念を向けるほど、ここ数日の甥たちの様子は凄まじかった。
街中の家に居たとしたら、何事かと近所の者が飛んで来るに違いない。
本当なら、街中に居た方が甥たちの面倒を見るには楽だったろう。
食べ物よりもまだ乳を恋しがる甥たちだ、短い間でも乳母を捜せばどうかと思わなくもなかった。自分の住みかに連れて帰り、表向きの事情を作れば、近所のご婦人がたからの手も借りられただろう。
それをしなかったのは、甥たちまで浚われる事を懸念したのと、何より自分たちの性質にあった。
獣に変じる人なのか、人が獣に変じるのかは、わからない。
けれど自分たちは人と獣、二つの姿を持つ一族だ。
ことに幼いうちは変じる衝動を抑えるのが難しい。また獣さながらの行動をとってしまう。
早く片を付けて戻ってきてほしいと切実に思った。自分ではこいつら二人共を抑えておくことは難しいのだからと胸の内で苦く呟く。
乳飲み子は変じれば仔狼になる。駆ける足は早く、一族の者であっても変じる事の出来ない自分では到底追いつけないのだ。街中で獣に変じた場合、何が起こるか考えるだけで恐ろしい。まだ人も通わぬ森の奥なら、仔狼に変じた甥たちが外へと駆けだしても、人目に触れる危険は少ないと思えた。
さて、嵐が落ち着いているうちに作業をしておくかと、テーブルに薬草を広げた。どうせ森にこもるのだからと、日に何度か森を歩いていた。鮮度が必要なものは採れないが、乾燥させたもので大丈夫なものなら沢山採っておいても構わないだろう。しばらく商売あがったりなのだから、作り置きできる薬も作っておくかと、甥たちが眠っている間にもする事はたくさんあった。もしくは甥たちの夜泣きに備えて体を休めるか、だ。
本当に世の母親たちを尊敬すると、しみじみ思う。
薬草を束ねたり、乾燥させた葉をすり潰したりと、どれくらい作業をしていただろうか。
ふと感じた甘い匂いに、顔をあげた。甘い花のようなにおい。自分が広げている薬草からの香りでは、ない。
一体どこからかと首を傾げた。窓も閉じられているし、第一今は冬が終わりようやく春になりはじめたばかりの時期だ。甘いかおりを放つ花など、どこにも咲いていない。
窓が閉まっていても、普通の人間より嗅覚が鋭い自分は、漂う匂いを感じ取ることは出来る。しかし、この甘くて引き寄せられる匂いは、一体何だろう。ふらふらと立ちあがり、窓を開け放ったのはなかば無意識だった。
開け放った窓からは、より強い甘い匂いが漂ってくる。それを嗅ぐと頭が痺れたようになり、思わず外へと足が向いてしまったが、かさりとテーブルから薬草の束が転げ落ちて、はっと我に返る。
今自分は何をしようとした。甥たちが眠っているのに、ここを離れるわけにはいかない。
そう思うが、感じる匂いはますます甘くなり、居てもたってもいられない気分にさせられる。
落ち着かない気分で部屋の中をぐるぐると歩きまわった。
そこへ。がたがたと奥の部屋で物音が聞こえ、慌ててそこへ飛んでいく。奥の部屋は小さめの寝室になっていて、そこへ甥たちを寝かせていた。よく眠っていたと思ったが、もう目が覚めたのだろうか。それにしては、泣き声が聞こえてこないのは変だと思い、扉を開けて……中から飛び出してきた金色の塊に目を剥いた。
仔狼に変じた甥たちが、風のように足元をすり抜け、外へと走り出していくではないか。
どこへ行くんだ、待てと叫びながら金の毛並みを必死で追いかけた。本気で走られたら、自分の足ではすぐに追いつけないが、匂いを辿る事はできる。
舌打ちをしたい苦い気持ちで、既に遠くまで駆けている甥たちを追うべく走り出したのだった。
甥たちを追いかけ、森の中を駆けた。道なき道でも、深く積もった落ち葉や、ぬかるみがあっても、自分にとってはたいした苦にならない。薄暗くてもまるで支障はなかった。走りながら、この方向は普段足を向けない場所だと頭の隅で思う。
こちらの方向に薬草がないわけでは、ない。ただ、こちらは……深い森の中で、比較的人が入り込みやすい場所であるのだ。広がる森の外縁に、大きな道が通っているせいかもしれない。稀に度胸だめしをする子どもが入り込んでいるのを見かけたり、残り香を感じることがあった。またこれも稀だが、自分のような薬師が入り込んだ形跡も見つけた事がある。ただどちらにせよ森の奥へはいりこんだ形跡はなかった。
頭の隅にひっかかりを覚えながら、ひたすら甥たちの匂いを追いかける。不思議な事に、甘いにおいも同じ方向から感じられて……首を傾げてしまう。
これは偶然なのだろうか。
その答えは、駆けた先で見つけた。
僅かに森がひらけた場所、そこは倒木が折り重なり、落ち葉が深く積もっていた。自分からすれば、かなり森の外へ近い場所だ。甥たちが止まったのはそんな場所だった。
金の仔狼が、蹲り一心に何かを舐めている。流石に息を乱してはいないが、何となしに疲れた気分で甥たちに近寄ると、聞いていないだろうと思いつつも文句を言った。
急に駆けだすな、俺はお前たちに追いつけないんだから。その言葉は最後まで言えなかった。なぜなら、落ち葉に埋もれるように横たわる女性を見つけたからだ。
枯葉色の髪に、落ち葉が絡み、また暗い色合いの服を身につけているため、すぐに人が居るとは気付けなかった。青ざめてみえる白い顔には泥がこびりつき、まくれ上がったスカートの裾から見える細い足も泥まみれだった。驚いて目を見開く自分の鼻先に、ふたたび香る甘い匂い。これまで以上に強いそれに戸惑っていると、それは横たわる女性から香るのだと気が付いた。甘くて引き付けられる匂いだ。頭の芯が痺れるような。
それに身を任せたい衝動にかられたが、無理やり意識を押し留める。今の自分には甥を保護するという役目がある。そうである以上流されるわけにはいかないのだ。
頭を振って、もう一度横たわる女性を見た。長い枯葉色の髪が白い顔を縁取っている。目を閉じているため、瞳の色はわからない。年の頃は妹よりもまだ若いくらいだろうと見当をつけた。
そして。
無言で甥たちの首根っこを掴み、女性から引き剥がそうと試みた。女性からは別の甘い匂いも漂っていた。
はだけた上衣からまろい乳房がのぞき、とろとろと白い乳が零れていた。甥たちはそれを一心不乱に舐めていたのだ。
甥たちはおそらく、この匂いをかぎ取ってここまでやって来たのだろう。山羊の乳にも、スープで柔らかくしたパンにも殆ど見向きもしなかったから、空腹で仕方ないはずだから。
今は女性に意識がないが、目がさめてこの状態をしれば、再び気絶しかねない。小さいとはいえ、狼が二匹、自分にのしかかっているのだから。そうでなくとも、酷く恐れ怯えられるのは間違いなかった。
痺れたような頭のまま、このひとにそんな目で見られるのは嫌だと思う。
しかし、甥たちはがしりと女性の衣服に爪を立て、離れるのを嫌がった。ようやくありついたものだ、満足するまで離さないと言わんばかりだ。無理やり引き剥がせば、女性の体に傷をつけてしまいそうで、さてどうしたものかと焦りながら頭を巡らす。
それにいつまでも女性を湿った土の上に寝かせておくのは忍びなかった。
どうにか甥たちを引き剥がし、山小屋まで連れて行こう。着替えは妹が置いて行ったものがあるはずだ。寝室も使えるように整えているから……そう考えていた時、ふと女性が腕をあげた。
白い手首には、布切れの残骸が纏わりついていた。不揃いな切り口を目にし、甥たちが噛み切ったものと知れる。擦りむけて真っ赤になった痕が、ぐるりと腕輪のように廻っていた。
女性は何かを探すように腕を動かし、そして自分の体の上に乗っている甥たちに触れる。確かめるように何度も何度も金の毛並みを撫でる。そうしてゆっくりと目を開け、不思議そうに甥たちを見た、と思った。
彼女の目はやわらかな新芽を思わせる緑だった。その目が恐慌に彩られ、怯えた目で自分たちを見るに違いないと苦く思った瞬間。
彼女はなぜか、ちいさく笑い……そして再び目を閉じる。
意識のない彼女を腕に抱き、山小屋へと急いだ。先導するように甥たちは前方を走っている。
どれくらいあの場所で横たわっていたのかわからないが、春浅い時期である上、冷たい泥の中に浸されていた体は、ぞっとするほど冷えていた。
少しでも早く温めてやって、そして少しでも早く……彼女の体についた不快な匂いを消してしまいたいと、それだけを考えていた。そしていつか、自分のものとわかるように、自分のにおいをつけてしまいたい、とも。
いつかわかるわ。わたしだってそうだったもの。
そんな相手なんて、現れやしないって思ってた。
でもね、あのひとに会った瞬間、わたしが待ってたのはこのひとだってわかったの。
理屈じゃないわ、どうしようもなく引き寄せられるの。ほんと、自分でも、どうしようもなかったわ。
妹の言葉が耳の奥でよみがえる。自分にしても、まさか伴侶と呼べる相手に出会えるとは、思ってもみなかったのだ。
だから、かつて妹が言っていたような状態に自分が陥っても、まさかそれが……伴侶を前にした時の反応だとすぐに気付けなかった。
自分たちのような一族は、夫あるいは妻の事を伴侶と呼び習わしてきた。人の社会と似ているが、大きな差異がひとつ。一目見た瞬間に結ばれるべき相手だとわかるのだ。たとえ一族を異にしていても、また争いの最中であっても、他の掟に先んじて優先されるものだった。
誰にも引き離せない対の翼のようなものだった。
しかし、それが今の状態を招いた一因でもあるのだろうと苦く考えた。一族の数は減り続けて、他の一族の血が混じったり人の血が混じったりで、純血の一族は殆どいなかった。また他の一族との間には子どもが出来にくく、伴侶が他の一族であった場合は、喜びと同時に悲しみももたらすものだった。そして伴侶が人であった場合は……これが一番難しかった。受け入れられた場合はいい。しかし怯えられ、恐れられたある一族の者は、伴侶として見つけた相手をとうとう害してしまった。
人の方は、相手が己の伴侶だと気付けないのだ。
腕の中の重みを感じながら、森を駆ける。自分が巡り合った伴侶はヒトだった。
それも、何やら事情を抱えているらしい。子を産んで間もないと知れる若い女性が、魔の森で倒れていたのだ。両の手首にあった縛られた跡から、そして彼女の体に残っていたヒトの残り香から、何人かの男にこの森へ連れて来られたのだとわかった。
森の外を走る道まで馬車でやって来て、あの場所に彼女を放りだしたのだろう。湿った土の上に、硬い長靴で踏みしめた跡が残っていた。
彼女の事情を想像してみるが、どうも胸が悪くなるようなものしか思い浮かばない。
あの場所で放置されていれば、彼女は遠からず命を落としただろう。
彼女に関わると言う事はすなわち、何らかの厄介事に関わることかもしれない。
しかし、それが何だと言うのだろう。
自分は彼女を見つけてしまった。彼女をこの腕に抱いてしまった。
そうである以上、何があっても……彼女が望んだとしても、手を放すつもりはなかった。
彼女を引きとめるにはどうしたらいいか、それを考えながら、暗くなりゆく森を駆けたのだった。
END
ここで一旦区切りです。
お読みいただき、ありがとうございました。