第一話 2
きみの事情については、何も聞かないよ。
食事も済み、お茶を飲んでいる時彼はそう言った。私が何をどう言おうか迷っている間に。
何故、と私は尋ねた。
深い森の中に放り出された女。しかも腕を縛られている。何事があったのかと詮索したくなるのが普通だろうに。
その想いが顔に出ていたのだろう、彼は苦笑しながら手を振った。
「気にならないわけじゃないよ。こんな森まで来るもの好きは俺くらいだし……他の人間……とくに女性はまず見かけることはない。ただ事じゃないだろうし、厄介事だろうと想像はつく。それに、きみの場合は、ね……」
それ以上は彼は言葉を濁したものの、彼が言わなかった言葉は予想出来る。
それに、彼は私の体を見ているのだ。泥や……溢れさせた体液にまみれた体を。私が自分から話すのでなければ尋ねない、そう言っているような気がした。
私にしても、自分の身に起きた事を、そうそう人に話したいとは思わなかった。
それにねと彼は少し言いにくそうにして私の顔を見た。
「俺にも事情があってね……きみ、最近こども産んだんでしょ?」
私は頷いた。違うと否定しても仕方がないから。ただ彼の話の行方が分からなくて困惑する。
ちょっと待っててと言い置いて、彼は奥の部屋へと向かい、すぐに戻って来た。戻って来た彼が腕に抱えているものを見て、私は驚いた。
彼は腕の中に、赤ん坊を二人抱えていたのだ。
赤ん坊は薄茶の髪の毛をしていて、すやすやと眠っているため瞳の色はわからない。互いに顔はそっくりで、双子だとすぐにわかった。彼は事情があってねと繰り返す。
「この子たちの母親が、俺の妹なんだけど、ちょっと今遠くに行っていてね。俺が面倒を見てるんだけど、困ったのがこの子たちのごはんだよ。一応離乳は済んでるって妹は言ったんだけどさ、まだお乳の方がいいらしくってね……」
ほとんど食べてくれないんだよと眉を下げ、疲れたように笑う彼に、これまでどうしてきたのかを尋ねてみると、これまでは山羊や牛の乳をやっていたのだと言う。
こんな森の中で手に入るのだろうかと首を傾げ、そもそも彼はここに住んでいるわけではないのだろうと思いなおした。街中であれば乳母を雇うことも出来るだろうに。
それなら何故と別の疑問がわく。何故彼はこの森に赤ん坊を連れてきているのだろう。いくら仕事があるといっても、危険な森の中に連れてくるくらいなら、誰かにみてもらうべきではないのだろうか。
眉を潜める私に、彼は肩をすくめて見せる。腕に子どもを抱いた状態で器用な事だと思った。
「きみの言いたい事はわかるよ、こんな場所になんで子どもを連れてきているのかって言いたいんだろう?ちょっとね、街中には置いておけなくてね。それで、話が戻るんだけど」
よかったら一人抱いていてくれるかなと彼は赤ん坊を私に差し出す。
躊躇ったものの、おずおずと手をのばし、小さな温かい体を受け取った。
ちいさいのに、重い。腕の主が変わった事に気付いて、赤ん坊が目をあける。緑がかった茶色の目で、瞬きもせずに私をきょとんと見ている。泣かれるのかと心配した私を余所に、赤ん坊は再び眠ってしまった。きゅう、とふくふくした小さな手に私の髪の毛をしっかりと掴んで。
「どうやら気に入られたみたいだね。他でもない事情ってその子たちの事でね。きみ、この子たちにお乳をあげてくれないかな」
とうとう眠った子どもを抱きあげて、とんとんと背中を叩く。けふっとちいさな音が聞こえたのを確認して、先に眠ったもう一人の傍に寝かせた。お腹一杯になった子どもたちはどことなく満足げな顔をして夢の中だ。
同じ体勢で、同じ顔をした子どもたちが眠っている様子はなんだか微笑ましい。獣の子どもが群れているようで。しばらく寝顔を眺めたあと、静かに子どもたちが眠る部屋を後にした。
「あの子たち、寝たの?」
台所のテーブルで彼は摘んできた薬草を束ねていた。テーブルに所狭しと様々な薬草が広げられている。私が見ても何がなにやら、何に効くのかさっぱりわからないが、彼は少しも迷わず手をのばしてゆく。同じ種類を束ねたり、色んな種類の束を作ったりする。
「はい、もうぐっすりと。当分起きてこないと思いますよ」
その間にご飯の準備、しますねと私は竈の前に立った。
彼は助かるよ、きみの作る食事は美味しいから嬉しいよと、私に笑いかけながら言った。
彼の言葉はいつも私を戸惑わせる。一瞬どうこたえていいのかわからなくなる。その結果いつも曖昧な顔で私は笑い、碌な返事も出来ないままだ。それに彼は気を悪くしたふうもない。
今も困ったように眉を下げる私に、もう一度笑顔を向けたあと、彼は薬草を束ねる作業に戻った。
ため息をこらえながら、作業台に食材を並べ、適当な大きさに切ってゆく。何かをしていれば、余計な事は考えずに済む。特に……こんなふうに言葉に惑う時には。
結局、私は彼の頼みを引き受けた。
『期間は……そうだな、ひと月くらいかな』
ひと月たつ頃には、子どもたちの母親は戻って来るだろうと彼は言った。
『こちらの事情につきあわせるんだから、もちろんお礼はするよ』
ひと月のあいだ、彼らはここで……森の中で暮らすのだと言う。
どんな事情が彼らにあるのか、私は聞かなかった。聞かない方がいいような気がしたし、私自身の事情を話す気になれなかったからだ。何より私は、ここを離れていく場所のあてなどない。それに……そんなはずはないと思っていても、森の外ではあの男たちが待ち構えている気がして恐ろしかった。
ゆくあてのない私、そして森を出る事を恐ろしいと思っている私にとって、しばらくここへ居ることは、私にとっても好都合だった。
初めはそう思っていた。
そろそろご飯が出来ますと私が言えば、彼はテーブルの上を片づけ始めた。綺麗になったテーブルの上に、スープやパン、果物を並べていく。そして向かい合って食事を始めた。
彼は初め、子どもたちにお乳をやる他は何もしなくていいと言っていたのだが、寝込んでいるわけでもない以上甘えるわけにはいかなかった。昼間の子どもたちの世話と食事の支度くらいはさせてほしいと彼に頼み込んだ。
そんなことしなくてもいいよと彼は渋い顔をしていたけど、しまいには折れてくれた。
助けてくれたうえ行く所のない自分に居場所をくれたのだ、お礼がわりにもならないが、何かは返したいと思うのだ。彼らの事情には目をつぶって。
彼はスープを一口飲んで、美味しいよと笑う。ありがとうと返して私も一口飲むが、普通の味だと思う。彼は何を出しても美味しいと言ってくれるので、嬉しいような気を遣われているのか微妙な気持ちになるのだが。
ただ。スープを飲む彼を見ていて、ふと小さく笑ってしまった。
「なに?」
彼が怪訝そうに尋ねる。手にはスプーンを持ったままだ。別に大したことじゃありませんけどと手を振った。
他のものは知らないが、このスープが好きなのは本当だと思う。食材も限られているので、献立は似たようなものの繰り返しだ。このスープも既に何回か出している。それで気付いたのだけど、他のスープに比べて食べ終わるのが早いのだ。それを見ていると何だが嬉しくなってしまう。言葉で言われるのが嬉しくないわけじゃないが、本当に言ってくれていると実感できるので。
しかし、彼にその事は言わない。その代わり、違う事を口にした。
「いえ、あの子たちの事ですよ。あんなに小さくて、あんなにそっくりなのに、もう違う所があるんだなあって」
そうかなと彼は首を傾げている。ありますよと私は答えた。
「さっきもですけど、一人は一生懸命飲んで、満腹になった途端寝ちゃったんですけどね、もう一人は飲んで休んで、飲んで……寝かけてたんですけど、起こしたらまた飲みだしちゃって……やっぱり違いますね」
そうなんだと彼は苦笑していた。
「俺はとにかく食べさせるのに一生懸命で、そんなこと気にする余裕もなかったよ。あいつら気に入らないと吐き出すとかしてたしね」
まあ、と目を丸くする私に、本当だよと彼は苦笑する。
「きみには懐いているから、いい子にしてるんだと思うよ?まったく我が甥っ子たちとはいえ先が思いやられるね」
しみじみと言う彼に、まあ、と私はもう一度同じ言葉を口にする。今度は少し呆れたような響きが混じってしまった。
「あんな小さなうちから、そんなことを考えますか?世話をしてくれる人に懐くのは当たり前でしょう?」
そうかもしれないけど、と彼は少し眉を潜めて私を見た。彼の表情の意味がわからなくて首を傾げたものの、問う事はせずに、確かに、と言葉を続けた。
「確かに、とてもいい子たちなので助かってはいますけどね」
そう。子どもを産んでお乳をあげたことはあっても、その他の世話などろくにしたことはない。双子の世話をしはじめた当初は、逆に彼の手を煩わせていたくらいだ。
今でも手際はそういいとはいえない。そんな私でもどうにかなっているのは、双子がまるでタイミングを見計らったように泣くからだ。私が何か手放せない用事をしている時にはけして泣く事がない。
不思議だと思うが、深く考える事はしなかった。そういう事もあるのだろう、そういう子たちなんだろうと思う事にしていた。
「まあ、きみの負担になってないなら、いいよ」
「夜はしっかり休ませてもらってますからね……でも、本当にいいんですか?」
「いいよ。昼間だけで十分なんだから」
そうですかと私は答えるしかない。これは何度も繰り返した会話だった。赤ん坊は昼となく夜となくお乳を欲しがると知っている。しかし彼は私に、夜はゆっくり休んでくれと言ったのだ。
夜はあの子たちに構わなくていいから。たとえ泣いていても来なくていい。
それどころか、笑いながらだったけれど、夜は寝室に鍵をかけて休んでほしいとも言った。
なぜと首を傾げていると、彼は困ったような、窘めるような目で私を見下ろした。
「あのね、きみにとって俺はよく知りもしない相手でしょう。俺が何か悪さでもしたらどうするの」
え、と言われた言葉がすぐに呑み込めなかったけれど、言葉が頭に浸透していくにつれ、裏返った悲鳴がこぼれた。
はくはくと口を開け閉めしている私を余所に、彼はにこにこ笑っている。それを見て、ああからかわれたんだとわかった。それでも勝手に顔は熱くなるし、みっともないくらい真っ赤になっているだろう。彼は悪びれずに笑う。
「はは、顔真っ赤だよ、驚いた?」
「驚きましたよ……何なんですか」
たちの悪い冗談はやめて下さいと言おうとして、言葉に詰まる。こちらを見る彼の目が思った以上に真剣だったからだ。
「ほんとの所、よく知りもしない相手と一緒にいるんだから、それくらいの用心はしておいた方がいいよ」
わかった?と仕様のない子どもを見るような目で見られては、頷くしかなかった。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
ふと彼との会話を思い返しているうちに、いつの間にか彼は食事を終えていた。皿はどれも綺麗に空になっていて、野菜の欠片一つすら残っていない。
私はまだ半分も食べていないのに、だ。
慌てて食べ始めた私を見て、彼は気にしないでゆっくり食べればいいよと言う。何だかぼんやり考え事してるみたいだったから、声かけなかったんだよねえと邪気なく微笑まれて、ため息がこぼれそうだった。
目の前でぼんやりしているのを、じっと見られるくらいなら、食事時に無作法だと注意して下さい、そう言ってみても彼は見てるのも楽しいからねとよくわからない言葉を返してきた。
ため息をこらえ、食事を口に運ぶ。食事をするさまを見られるのはとても落ち着かない。無作法だの何だの言わないから、どこかへ行って欲しかった。こんな時に限って双子たちは泣きもしない。まあさっきお腹いっぱい飲んだから、当分目を覚まさないだろうと言ったのは、他でもない私、だった。
野菜とベーコンのスープを啜る。パンをちぎる。温かいそれらは喉の奥を滑り落ちて、お腹の中に収まった。
何度も何度もそれを繰り返して、ようやく皿が空になった頃、彼は行儀悪く机に頬杖をついて、私に言った。
「このスープ美味しいよね、また作ってくれる?」
いいですよと答えながら、私の中にぽつりと疑問が広がる。
まずいとは思わない、けれど、特別美味しいとも思わない料理なのに、と。
それなのに何故彼はこんな笑顔を向けてくれるのだろうかと。