第一話 1
後ろ手で縛られたままの両手首と肩が、じくじくと疼くように痛い。
下草が生い茂り、落ち葉が深く降り積もった場所であっても、荷物を放り投げるように無造作に放られ、受け身も取れずに転げたのだ。頭から地面に突っ込み、頬や肩、腰や膝に痛みと火傷をしたような熱がはしる。
あげた悲鳴は掠れ切っていたから、誰の耳にも聞こえなかったかもしれない。
聞こえていたとしても、誰も関心すら持たなかっただろうが。
痛みをこらえて起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。
背中にずしりと重みがかかり、胸が詰まって呼吸すらままならない。苦しくて喉奥から呻き声が零れる。
長靴で背中を踏みつけられているのだとわかった。
容赦なくまるで踏みつぶすように力を込められ、苦しさに喘ぎ身を捩ろうとしても不自由な格好ではままならなかった。
そして。次いで聞こえた、金気の音に動かない体を必死で動かそうとする。その音が何か、わかっていたから。
ひたり、と首筋に当てられた、ひんやりとした硬いもの。少しでも動かされれば、間違いなく自分の命を奪うもの、だった。
恐怖で凍りつく私をよそに、頭上で会話が交わされている。
ここで始末していくのか、そこまでは命じられていないだろう。
どのみち、この森でなんの装備もなしに生きてはいけまい。獣が勝手に始末してくれる。わざわざ手を下す必要もないだろう。
そうだがな、ここで始末しておいた方がいっそすっきりする。今まで散々不愉快な思いをさせられたからな。
奥方様……お前の姉上様にとっては、まあそうだろうさ。それにしても振いつきたくなるいい体だ。旦那様のお気持ちもわからんではないな。こんな女が周りをうろうろしてみろ。なあここで始末するなら最後までしていいか。
駄目だ、さっきまで散々弄くっていただろうが。その女はもう用済みだ、ここに放ってゆけ。そうすればこの森の狼どもが始末してくれる。何もこちらが手を汚す必要はない。
……わかった。
残念だなあ。
首筋から硬い金属の……剣が離れ、そして背中から重みがなくなった。
体を丸め、咳き込みながら貪るように呼吸を繰り返す自分の耳に、酷く冷淡な声が聞こえた。
湿った下草や土に頬を押しあてたまま、もう顔をあげる力もなく、それを聞いた。
のこり少ない生をせいぜい足掻くがいい。
どこで何を間違えたんだろう。
体中が軋むように痛い。地面に打ち付けた場所も、後ろ手に縛られたままの腕や肩も。そして擦りむいた頬も焼けつくように痛む。
息を吸い込むと湿った土のにおいと草のにおい、そしてしんしんとした深い森のにおいがした。可笑しくもないのに、喉の奥からくぐもった笑い声がこぼれる。倒れ込んだ時に入ったのだろう……口の中に土の味がして、奥歯を噛みしめれば、じゃり、と不快な音をたてた。
私が物のように放り出された場所は、薄暗く時間もわからないような深い森の中。
目に見える範囲には道らしい道はなく、やって来た方向もわからない。
私をここへ放りだした男たちの気配は既に遠く、聞こえるのは葉擦れの音や獣の鳴き声ばかり。何とか体を起こそうとしても、縛られたままの腕では難しかった。うつ伏せのまま身を捩れば、張った胸が地面に擦れて痛みを覚えた。そして……下肢の間の、ぬるりとした感触に泣きたくなる。
もう、涙など零れないのに。
どこで何を間違えたんだろう。
再びそう思った瞬間、ふっつりと意識は闇に呑まれた。
そのまま二度と目覚めなくていいと半ば祈るように思いながら。
暖かいと感じた。そして何やらくすぐったいような、ぞくぞくするような不思議な感覚も。
何が起きているのか確かめたくて、目をあけようとしても眠りの精に引き摺られ叶わない。
胸の辺りに温かみと重みを感じ、そして何やら吸いつかれている感触がある、のに。
これは、あの子だろうか。多分、もう二度と会う事は出来ない、子ども。
こうして乳をやる時だけ抱く事が出来た、あの子だろうか。
腕を動かして抱きしめてみる。これはやはり夢だ。腕が自由に動くのだから。
けれど……夢なのに、何故。
抱きしめた体は、柔らかくて……暖かいのだろう。
目を覚ました時、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。というより、戸惑いが大きかった。
私は森の中に居たはずではなかったか。
湿った土のにおいや頬に触れた泥の冷たさを覚えている。耳元で鳴った枯葉の音を覚えている。
それなのに何故、ちゃんとした寝台に寝かされているのだろう。掛けられている毛布からは、花のようないい香りがした。恐る恐る体を起してみて、そこで自分の手が自由になっている事に気付く。不自由な姿勢で長くいたためだろう、肩はまだ鈍い痛みが残っている。縛られていた両手首は皮膚が剥けるほど擦り切れていたはずだが、そこには白い包帯が巻かれていた。
誰かが自分を森で見つけ、ここへと運び手当てをしてくれたようだった。 でも、一体誰がと疑問がわいた。
私を森へ捨てていった男たちは、ここを人も通わぬ森だと言っていた。そんな森に足を踏み入れる人が居るとして……一体どのような人なのだろうかと想像しかけて、すぐにやめてしまった。
どのような人であれ、助けてくれ手当までしてくれている。何を思うにせよ、まず顔を合わせてからの事だと思ったのだ。どのような人であれ、意識を失うまでの事を考えると、何があってもさほど変わらないだろうと思ったのだ。
そこへ、何の前触れもなく扉が開く。私も驚いたが、中へ入ってきた背の高い男性も驚いたようで、目を丸くして私を見下ろした。どうやら、まだ眠っているものと思っていたらしい。
「ああ、目が覚めた?体の具合はどうかな」
すぐに親しみやすい笑顔を浮かべて、彼は寝台の傍へと歩み寄って来た。緩く波打つ、金茶の髪を首の後ろで束ねている。私を見る目は、濃い琥珀色だった。
「少し痛む所がありますが、たいした事はありません。あの、あなたが助けて下さったんですか?」
あの、人も通わない森の奥で。その疑問を読み取ってか、彼は何でもないような口調で答える。
「そうだよ。俺はこの森には時々来るんだけどね、まさかあんな場所に人が倒れているとは思わなかったな」
彼は、自分は薬師をしていてね、と言葉を続けた。
「この森は色々珍しい薬草が生えているからね、時々摘みに来るんだ。つい摘むのに夢中になって、足を伸ばした先で、きみを見つけたってわけだよ」
ま、この森に入る物好きは俺ぐらいのものだけどねと彼は笑った。
「そうでしたか……助けていただいてありがとうございます」
物好きでもなんでも、彼が居たからこうして助かったのかと私は思った。 あのまま……あそこで倒れたままであれば、男たちが言ったように遠からず獣の餌食になっていただろう。それを思えば今更ながらに身がすくむ。
礼を言いながら、私は改めて室内を見回した。さして広くはない室内だが、掃除も行き届いていて乾いた木のにおいがする。山小屋のようなつくりだと思い、そういえばここはどこなのだろうと思う。
倒れていた私を連れ、森の中、遠くまで行くのは難しいだろう。しかし、人も通わぬ森の中に、簡素とはいえ人が休める場所があるものだろうか。
「ここは……どこなんでしょう」
彼はあっさりと答える。
「きみが倒れていた場所からは少し離れているけどね、同じ森の中だよ。ずっと前はこの森もここまで深くなかったから、この小屋もその時に建てられててね。人が来なくて放置されていたのを、俺が手入れして使っているんだ」
薬草採りに夢中になって、帰りが遅い時には泊ったり、そうでなくとも休憩に使ったりしているよと彼は答えた。
そうですか、と私は息を吐き出した。人好きのする笑顔で朗らかに答えられては、身構えるのが馬鹿らしくなりそうだった。
そうだ、と彼は思い出したように手を打ち鳴らした。
「そろそろ食事にしようと思うんだけど、起きられるかな?」
その言葉を聞いた途端、くうとお腹が鳴った。かあっと顔に血がのぼる。
そういえば……どのくらい眠っていたのかわからないけど、覚えている限りでは丸一日何も食べていなかったのだ。ひとまず危険が去ったと分かった瞬間、空腹を感じて自分の現金さに笑いたくなる。どうでもいいと投げ出してみても、体の方は正直だった。
お腹が鳴る音を聞いただろうに、彼はにこりと笑うだけで、それじゃあ用意しているからねと言い置いて、部屋を出て行った。
小屋、という割には、この建物は広かった。作りは山小屋のようなのだけど、見るからに頑丈そうで雨や風にびくともしない様子だった。
私が寝かされていた部屋のほか、台所兼居間のような場所があり、そして奥にもまだ部屋があるようだった。彼の後を追おうとして、私は思いとどまった。見下ろす体には、踝までを被うようなゆったりした象牙色のワンピースが着せられているだけで、昼日中に人前に出る格好ではない。
そしてこれは、私がもともと身につけていた服ではなかった。
いつの間に誰がと首を傾げ、そして体のどこにも、濡れた不快感がないのに遅まきながら気付く。
こんな深い森に、まして魔の森と呼ばれる所に、たとえば女性を連れて来るなどありえないだろう。そうすると誰が体を清めてくれたかに思い至ると、顔から火を吹きそうだった。
他に誰も居ないようだから、彼以外にはあり得ないと思っても……身の置き所がない気持ちになる。
泥にまみれた体では寝台に寝かせられないと思ったのか、傷の手当てをするついでだったのか、少しでも綺麗にしてあげようという気持ちだったのか……ただ、これほど居たたまれない気になるなら、泥まみれで構わないから放っておいてほしかった。
寝台から出られず頭を抱えて項垂れていると、扉の外から声が聞こえた。
「ああそうそう、そこに着替え置いているからね、それ着てきて」
視線をあげると、寝台の足元の方に、きちんと畳まれた衣装があった。手に取るとシャツとベスト、そしてスカートだった。ちゃんと洗濯されているのだろう、広げた瞬間ふわりと石鹸の香りが広がる。少し考えたものの、薄いワンピースでは体の線がまるきり出てしまうので、ありがたく身につけることにした。背中に垂らしたままの枯葉色の髪の毛も手櫛で整えて、ざっくりと編んで衣装と一緒に置いてあった紐で結わえる。
自分には少し大きい衣装は、一体誰のものだろうか。人も通わない森の中に、何故女物の衣装があるのだろう。彼の衣装ならまだわかるのだ。時々ここを使っていると言っていたから。
わからないことばかりだと思うものの、とりあえずそれには蓋をして、彼の後を追って部屋を出た。
彼の姿はすぐに見つかった。竈の前に立ち、湯気のたつ鍋をかきまわしていて、私に気が付くと振りかえり、テーブルを示した。
「もう出来るから、そこに座ってて」
手伝いを申し出る間もなくそう言われては、大人しく指示に従うしかない。使い込まれた古びたテーブルに着き、所在なくぼんやりと彼の背中を眺めていた。首の後ろで束ねた金茶の髪が、獣の尻尾のようだと思う。
背は高いが細身の体に、丈夫そうなシャツと焦げ茶のズボンを身につけている。街で暮らす住人と何一つ変わらない格好だ。森の中を歩くためか、足元だけは頑丈そうなブーツを履いていた。
「はい、どうぞ」
少しの間ぼんやりしていたらしい。ことりと音をたて、目の前にスープの入った皿やパン、飲み物が置かれる。
ぱちぱちと瞬きをして、顔をあげると存外近い場所に彼の目があって、少し驚いた。仰け反るほどではなかったが、私の反応に気付いたのだろう、琥珀の目が穏やかに細められ、距離があいた。
「俺もお腹が空いたしさ、温かいうちに食べよう」
ね、とにこりと彼は笑う。私が疑問に思っているように、彼も私の事について不思議に思っているだろう。何か聞きたいに違いない。それは当然のことだ。
それでも……今は何も聞かず、そう言ってくれることに、驚くほど安堵した。失くしてしまった“日常”を取り戻せた気がして。
「はい、ありがとうございます」
いただきます、そう言うと彼は、たいしたものがなくて悪いねとまた笑った。




