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何があっても

作者: すねじい

壊す者



 おかしいと感じたのは今日で4回目だ。


 佐藤健太は夜9時、仕事を終えて自身が住むアパートへ帰った。アパートは3階建てで、健太の部屋は階段のすぐそばの角部屋にある。


 買ってきた弁当を袋から出し、冷蔵庫から麦茶を持ってきてグラスに注ぐ。テレビを付けると、丁度毎週欠かさず見ているバラエティ番組が始まる所だった。


 間に合ってよかった。


 健太は会社から駅までを走り、1つ早い電車に乗った。録画してあるが、できればリアルタイムで見たいと思うほど、健太はこの番組が好きだった。


 仕事から帰ってきて、弁当を食べながら大好きな番組を見る。健太にとって幸せを感じられる時間だ。


 しかし、その幸せな時間もすぐに終わりを告げる。番組はあっという間に終わってしまった。健太は風呂に入って寝ようと、重い腰を上げた。


 健太は今年24歳で、まだ入社2年目だ。当然、そんな良い所には住めるはずもなく、風呂はトイレと一緒になっているユニットバスだ。


 リビングで裸になり中へ入る。シャワーを出すが、中々温度が上がらない。毎回の事ながら、早く引っ越したいと思う瞬間だ。


 来年の更新までには引っ越してやるぞと心に決めながら、今日も狭いユニットバスで体を洗う。


 こんな毎日を送る健太は、田舎から上京してきた普通の若者だった。


 今日まではの話だが。


 さっぱりして眠くなるまでの間、テレビを見てリラックスしていると、階段から足音が聞こえてきた。


 健太はビクっとして息をひそめた。


 別に珍しい事ではないはずだ。このアパートには他の住民もいる。エレベーターはなく階段しかないのだから、何人もの住民が階段を使っている事になる。もう階段をコツコツと歩く音には慣れていた。


 しかしこの時間に来る足音の者は、健太の部屋の前で必ず立ち止まるのだ。


 今日で4回目になる。


 いつもこの足音の者は、部屋の前で1分以上は立ち止まっている。


 最初は部屋を間違えただけだと思い、気にしなかった。


 2回目は自分に用があるのかと思い、待っててみたが立ち去ってしまった。


 3回目はおかしいと感じ、立ち去るまでジッと息をひそめて待った。


 そして今日4回目は……


 既に2分は過ぎているというのに立ち去る気配がない。 


 何故健太がこの足音の者が毎回同じだと気付いたのかというと、いつも何か大きな荷物を持っている。足音と共にその大きな荷物の中身が、ガサガサと動いているのだ。


 足音の者はまだ立ち去らない。健太は警察に通報しようと、携帯電話を手に取った。


 するとそれを察知したのかというくらい同時に、足音の者は立ち去っていった。


 階段を降りる足音と荷物のガサガサという音が、不気味に健太の耳に届いてきた。


 足音の者はこのアパートの住民ではない様子だ。


 一体誰なんだ……


 健太はこのところ、不安でよく眠れない日々を送っている。


 健太が目を覚ましたのは午前5時40分だった。いつのまにか眠ってしまったらしい。いつも6時半に起きているのだから、まだ1時間近くは寝ていられる。


 健太はもう少し寝ようと、開けた目を再び閉じようとした。しかし、


 「うわー!」


 大声を上げて健太は飛び起きた。布団の中で何かが大量に動いているのを感じたからだ。


 その動いているものは、部屋中にばら撒かれていた。


 部屋の至る所で、大量のゴキブリが動いている。床や壁でうじゃうじゃと動き、テレビ画面にくっつきと、まさに地獄絵図だった。


 健太は無心で部屋の外へ出た。人目も気にせず、寝ぐせ頭のスウェット姿のままで交番へ駆け込むと、事情を説明し部屋まで来てもらった。


 「うわ、何だこれは」


 ドアを開けると、2人の警官がほぼ同時に同じ事を言った。それしか言えないくらい、酷い光景だった。


 すぐにドアを閉めると、1人の警官が応援を呼び、10分後くらいに更に2人の警官がやってきた。健太は不審な足音の者の事を説明し、生まれて初めて被害届を出した。

 

 健太の普通だった日常は壊され、この日からしばらくホテル暮らしを余儀なくされた。



 あの日から1週間が経った。


 健太は会社が終わると近くのカプセルホテルに泊まり、また会社へ行くという生活をしていた。


 まだ犯人は捕まっていないらしい。犯人と言っても、あの足音の者に違いないんだが。


 健太は全く身に覚えがなかった。


 恨まれるような事はしてきてないし、嫉妬されるほど恵まれてもない。見た目だって、せいぜい中の下辺りの冴えない男だ。


 自分があんな事をされる筋合いは何一つとしてない。健太は自信を持ってそう言い切れた。


 だからこそ不安で不気味なのだ。誰が何の目的であんな事を?


 しかもゴキブリは健太が最も苦手としているものだった。


 それを知っててやったのか……


 それを知っているのは小学校時代の同級生くらいのはず……


 まさか小学校時代の同級生が……?


 いやそんな事はないだろう。ただの偶然だ。


 健太は小学校時代までさかのぼって考えてみても、自分がそこまで恨まれる人間でない事には自信があった。


 控えめな性格で、誰かを攻撃した事は決してない。自分が気付かない内に、誰かを傷付けてしまった事はあるかもしれないが、あそこまで恨まれるような事はないはずだ。 


 健太はこの1週間、毎日自分に言い聞かせていた。


 そして一刻も早く、自分にあんな事をした頭のおかしい犯人が捕まる事を願うのだった。 



守る者



 カプセルホテル生活になってから2週間が過ぎた。未だに犯人の手掛かりすら見つかっていないらしい。


 狭い狭いと嘆いていたあの部屋が恋しいほど、もうこの生活にはうんざりしていた。


 たまになら良いが2週間も連続で泊まるような所ではない。満足に足も伸ばせないし、他人のいびきもうるさくてよく眠れない。3日前隣になった中年男のいびきには参ったものだ。


 健太はまだあの足音の者は捕まらないのかと不安な気持ちと同時に、何故あんな事をしたのかと怒りの感情も出てきていた。


 これは控えめな性格で物静かな健太にとって、長年忘れていた感情であった。


 出来ればこの手で捕まえて、同じ事をやり返してやりたい。という気持ちが出てきていたが、身の安全を第一に考え、警察からの連絡を待つ事にした。


 仕事を終えると、今日もコンビニで弁当を買い、カプセルホテルへと向かった。


 会社のすぐ隣にコンビニがあり、そこから歩いて5分くらいの所にカプセルホテルがある。1泊3500円で都内ではリーズナブルな値段だが、2週間も払い続けていると、健太にとっては大きな出費だった。


 犯人が捕まった暁には絶対払わせてやる。例え本人が払えなくても身内に必ず払ってもらう。健太は今回の件を機に、長年忘れていた怒りという感情が一気に爆発したようだった。


 金曜日の夜で周りが浮かれているというのも、健太の怒りを増幅させる要因となっていた。


 あと少しでカプセルホテルに着くかという所で、携帯にメールが届いた事を知らせる受信音が鳴った。


 開いてみると恋人の京子からだった。


 『大丈夫?もし良かったら今日は泊まりにきたらどう?』


 メールを見た瞬間、すぐに来た道を引き返し、駅へと向かった。


 京子も同じ24歳だ。住んでる部屋も、健太と同じく1人で生活するので精一杯だし、何より京子にも何か被害が及ぶかもしれない。


 健太はこの2週間、気持ちを抑えて京子と会う事をやめていた。


 だが、もういい加減精神的に限界がきていた。京子からのメールが、たまらなくうれしかった。


 健太は小走りで駅へと向かい、3駅目で降りて京子の住んでいるアパートへと向かった。



 駅から歩いて10分ほどの場所にある2階建てのアパートへ着いた。京子の部屋は2階の1番端、健太の部屋とは違い、階段から最も離れている。


 健太は駆け足で階段を上がると、玄関のチャイムを鳴らした。ここへ来るのは約1ヶ月ぶりだ。


 ドアが開くと、スッピン姿の京子がエプロン姿で立っていた。


 「今とんかつ作ってた所」


 京子がニコっと笑って言った。


 「そっか、ありがとう。じゃあこれは明日の朝に食べるとするよ」


 健太は右手に持っていたコンビニ袋を少し上げて言った。


 「上がって。疲れたでしょう?まだ出来上がるまで時間あるから、先にシャワー浴びちゃって」

 「うん、そうさせてもらうよ」


 健太は靴を脱いで京子の部屋へ上がると、鞄を置き、靴下を脱いだ。


 「洗濯するものはそこのカゴに入れといてね」


 京子が台所で手を動かしながら言った。健太はわかったと答えると、自分の部屋と同じようにリビングで服を脱ぎ、下着類をカゴの中に入れた。


 1人が台所で食事を作り、1人がリビングで裸になっている。かなり異様な光景ではあるが、この2人にとってはもう当たり前の事だった。


 2人の付き合いは長い。恋人という関係になったのは3年前の事だが、知り合ったのは幼稚園の時で、もう20年近くの付き合いになる。


 健太にとって初めての彼女で、また京子にとっても初めての彼氏だった。


 京子は一般的に美人というカテゴリーには入らないが、気が利くし性格も明るくて良い、何より笑った顔がとてもかわいらしいのだ。


 健太はこの女性を一生大事にしたいと思っていた。だからこそ今回の事件が起こってから、連絡を取るのは控えていた。


 事件が解決するまでは会う事はやめようと決め、京子には忙しいからと伝え、メールの返事もあまりしないようにしていた。


 すると京子が様子がおかしいと気付き、家まで来ると言い出したのだ。


 健太はもうごまかす事は出来ないな、と諦めて正直に自身に起こった事を話した。あんな事をされるほど誰かに恨まれている、と京子が知ったら離れていってしまうのでは……という不安も少しあった。


 だが京子からは予想以上の返事が返ってきた。


 『そんな事があったの!?大丈夫だった?私は何があっても味方だから大丈夫だよ』


 これが今週の火曜日、3日前の出来事である。


 健太はこのメールを夕方6時、仕事の休憩中に開いたのだが、うれしくて涙を流してしまった。


 この時、改めて京子を一生大事にしようと心に決めた。自分も、何があっても京子の味方であると決めた。


 何があっても


 シャワーを浴びて出てくると良い匂いがしてきている。リビングのテーブルには、既にとんかつがお皿に盛りつけられており、後はごはんをよそるだけになっていた。


 「もう出来てるよ。早くそれに着替えて座りなよ」


 京子がソファーに座りながら、クローゼットに置いてある部屋着を指差して言った。健太が京子の部屋に来た時には着るようになっている、上下紺のスウェットだ。


 健太は相変わらず気が利くな、と思いながらスウェットに着替え、京子の隣に座った。


 「すぐに食べれる?」

 「うん、お腹空いたよ」

 「じゃあ、ご飯よそってくるね」


 京子は立ち上がってご飯をよそりに向かった。戻ってきた京子が持っている茶碗のご飯の量を見て、健太は少し笑ってしまった。


 「こんなに食べれるかな?」

 「食べれるよ。健太とんかつ大好きじゃない」


 ご飯は下町の食堂か?とツッコみたくなるくらい、てんこ盛りになっていた。健太はとんかつを一口食べると、うん上手い、と言い、勢いよくご飯を掻き込んだ。


 京子はそんな健太の様子をニコニコしながら見ている。京子は健太の食べている姿を見るのが好きだった。


 それと、京子の目には少しげっそりしてたようにも見えたので、せめてここではたくさん食べてもらいたいという気持ちも大きかった。事実健太は、この2週間で3キロほど体重が減っていた。


 健太のご飯の量が半分くらいになってから、京子はようやくご飯を食べ始めた。


 「ふう、お腹いっぱいだ」


 健太がお腹をポンポンと叩いた後、ご馳走様のポーズを取った。


 「ほら、食べれたでしょ?」

 「美味しかったから何とかね。ただ相当ギリギリだったよ」


 京子は健太のパンパンに張ったお腹を触ると、


 「妊婦さんみたい」


 と笑いながら言って、食器を片付け始めた。


 健太はそんな京子の後ろ姿を眺めながら、こんな時間がずっと続けば良いな、と思っていた。


 しかし今は、何をしてても心が晴れる事はない。


 時計を見ると23時を少し過ぎていた。あの足音の者が現れた時間帯に差し掛かる。


 この時間帯になると、健太は無条件であの忌まわしい恐怖の記憶がよみがえってしまう。


 カプセルホテルにいる時も、どこかで見てるんではないかと心臓がバクバクして落ち着かなかった。何しろ犯人の当てはおろか、性別すらわからないのだ。もしかしたら隣で寝ている男が犯人かもしれないのだから。


 京子のアパートに着くまで、誰か付いてきていないか、慎重に耳を澄ませて足音を聞いたが、それらしき足音は聞こえてこなかった。


 恐らく大丈夫だろう。しかし、もしここに来るような事があったら、どんな手を使ってでも京子を守ってみせる。


 例えそいつを殺してでも。


 健太は拳にグッと力を入れると、玄関の外の方に耳を澄ませた。


 京子はどんな事があったかは知っているが、どの時間帯に起きたのかはわかっていない。夜と伝えただけだった。


 京子を無駄に不安にさせる事はないと、健太は平常心を装ってテレビを見ていた。


 そして食器を洗い終わった京子が、再び健太の隣に座った。健太はテレビを見ながら笑っている。


 だが20年もの付き合いになると少しの違和感で気付くものだ。目が笑ってないよ?と京子が健太に言った。


 健太はえっ?というと頭を触り、そんな事ないよ、と言った。


 その仕草を見ながら、京子は健太の手を握り、優しい声で言った。


 「ここには来ないから大丈夫だよ」


 全てわかっている、といった口調だった。少しの動揺も緊張も、京子は一瞬で見破ってしまう。健太が時計を頻繁に見ていた事、一瞬表情が強張った事で全て悟っていた。


 ああ、この時間帯にやってきたのね、と。


 京子は健太の手を握ったまま、まるで赤子に言い聞かせるかのように、優しい口調で何度も大丈夫だから、と言った。


 健太は本来自分が京子を安心させないといけない立場であるというのに、何て自分は情けないんだ、と憤りを感じていた。


 京子の手は温かく、健太の不安な気持ちをスーッと落ち着かせた。


 やがて時刻は午前0時を回った。


 少しの足音もなく、何事もなく時間は過ぎた。


 「ほら、大丈夫だったでしょ?」


 京子が微笑むと、健太もそれに応えて、うん、と少し笑った。


 「じゃあ、今日はもう寝ようか?」

 「うん、そうだね」


 電気を消して、2人はベッドに移動した。



思い出



 健太が目を覚ますと、京子は目を開いて健太の肩に寄り添っていた。


 「おはよう。よく寝れたみたいだね」


 京子がニコッと笑って言った。


 「うん、こんなに眠れたのは久しぶりだよ」


 健太は目をこすりながら時計を見た。時刻は既に9時を過ぎていた。このところ満足に寝れていなかったので、爆睡してしまったようだ。


 「もうこんな時間か」

 「何か食べる?」

 「昨日コンビニで買った弁当がある。あれを2人で食べよう」

 「そうね」


 京子は笑いながらベッドから起き上がった。健太は自分の心境は全て読まれているんだな、と苦笑しながら京子の後に続いてベッドから起き上がった。


 自分の分しか買っていなかったが、健太は昨日の夕飯がまだ胃袋に残っているくらい食べたので、とても1人前は食べられないと遠まわしに告げていた事など、京子は瞬時に察知していた。


 昨日食べるはずだった唐揚げ弁当を2人で分けたのだが、唐揚げ2つとご飯を少し食べた所で、健太は箸を置いてしまった。


 「もういらないの?」

 「うん、ちょっともう食べられないかな」

 「まだ妊娠3ヶ月くらいはあるものね」


 京子は健太のお腹を触りながら言った。昨日より治まったとはいえ、まだまだお腹は膨れている。


 その後、しばらくテレビを見て過ごした。2時間くらいすると京子が、


 「今日はどうする?」


 とテレビを見ながら聞いた。


 「うーん、どうしようか」


 健太はテレビを見つめたまま、答えになってない回答をする。 


 「せっかくだから気晴らしに出かけようよ。天気も良い事だしさ」

 「そうだね。じゃあそうしよう」


 大体いつもこんな感じである。健太から誘う事は滅多になく、京子から促されて出かける事が圧倒的に多い。10回に1回健太から誘うような事があればまだ良いくらいだ。


 目的地は特に決めずに、2人は京子のアパートを出発した。取りあえず駅に向かってみてから、どこへ行こうか考える事にした。

 

 健太には特に意見はないので、いつも京子が提案するプランを受け入れるのみになっている。


 性格的に自分の意見が言えないのだと思われがちだが、本当にどこへ行きたいとかはないのだ。


 京子と一緒ならばどこへ行っても楽しい。これが健太の本心だった。



 駅に着いて目的地をどうするか相談する。


 といっても健太は京子がどこへ行こうか決めるまで、考えてるふりをするだけなのだが。


 土曜日のお昼時の駅構内は、様々な人が行き来している。その1人1人がどんな考えを持っていて、今どんな悩みを抱えているのか、健太には知る由もない。


 もちろんそれはあちら側も同様で、健太が2週間前あんな事をされたと想像できる人なんかいないだろう。土曜日の休日をデートして楽しんでいる若者、くらいにしか思っていないはずだ。


 健太がそんな事を考えながら京子からの提案を待っていると、京子が思い出したかのように口を開いた。


 「あ、ねえ、久し振りに実家に帰らない?それで明日の夜帰ってこようよ。下手に都内周辺をうろつくより、遥かに安全だと思うんだ」


 いきなりの提案に多少ビックリしたが、確かに良い案だと思った。まだ犯人は捕まっていない。いっそ地元まで行ってしまった方が、まだ犯人に出くわす可能性は低くなるだろう。可能性は少しでも低くするに越したことはない。


 何よりこのところ精神的にかなり参っていた。京子と一緒に地元の空気を吸い、両親の顔でも見てくる事が、何よりの気晴らしになるだろうと思った。


 「良い案だね。そうしよう」


 健太がそう頷くと、京子はニッコリと笑った。


 2人は一度東京駅まで行くと、静岡県三島駅までの新幹線の切符を2人分、もちろん自由席を買って、改札口を通った。


 健太は昨日までの憂鬱な気分が嘘のように、今は小躍りしたいほど浮かれた気分になっていた。


 新幹線から見える景色を見ながら、京子との会話を楽しみ、生まれた土地へと向かった。


 三島駅までは50分ほどで着いた。相変わらず早いな、と思いながら新幹線を降りた。


 しかし、ここからが長い。


 三島駅で伊豆箱根鉄道に乗り換えて修善寺駅で降りる。そしてここからバスに乗り換えて湯ヶ島駅で降りるのだ。


 ここまで待ち時間も含めると3時間近くは掛かる。湯ヶ島駅に着く頃には、2人はぐったりとしていた。


 本当は湯ヶ島駅より先に実家があるのだが、ここから先へのバスは、2時間に1本くらいしか出ていない。


 元から少なかったが、2人が通ってた小学校がなくなってから、更に本数が少なくなった。


 2人はタクシーに乗り、実家の住所を告げた。



 健太の実家に帰ってきた時、時刻は15時を回っていた。


 京子のアパートを出てからここまで、3時間弱の長旅だった。


 実家の玄関を開けると、両親が出迎えてくれた。東京駅を出る前にメールしておいたのだ。京子と一緒に玄関を上がり、居間へ入るとお茶菓子が用意されていた。


 両親は実にうれしそうだ。2つ下の妹が高校を卒業して実家を出てから、この家には両親しかいない。本当は長男である自分がこの家を継ぐべきなのだと思うが、年々人口の減少が収まらず働き口さえ少ない。


 実家を継ごうと考えている同級生など少ない。健太もその1人で、両親には申し訳ないが、実家で働き口を探す、という選択肢は頭の中になかった。


 両親もそれは仕方ないと思っているらしく、健太が高校3年生の頃、この家も私達で終わりね、と言っているのが聞こえてきた。健太は心の中でごめんと謝った。


 両親へはあの事件の事は伝えていない。犯人が捕まって事件が解決してから、全部話そうと考えていたからだ。


 昔からよくお互いを知っている両親と京子の会話はよく弾んでいた。気付けば18時近くになっていて、母親は夕飯どうする?と聞いてきた。


 健太がもらうよと答えると、母親はうれしそうに台所へ向かった。もう既に揚げるだけになっていたようで、20分ほどで出来上がった。


 夕飯は2日続けてのとんかつになった。健太の隣で、京子はクスクスと笑っていた。


 夕飯を食べ終わると、京子、健太の順で風呂に入った。健太が風呂から上がると、京子と両親が健太のアルバムを見ながら談笑していた。健太は照れ笑いしながらアルバムを取り上げると、京子にドライブに行こうと言った。


 母親が普段使っている軽自動車に乗り込み、地元を周るドライブが始まった。


 健太は久し振りに運転する事に気を使いながら、どこから周ろうか?と京子に聞くが、京子は外の風景を見つめながら、ただ黙っていた。


 健太も京子の心境を察し、黙って運転した。


 京子にしてみれば、地元に良い思い出は少ないだろうな。俺の事を考えて実家に帰ろうと言ってくれたんだな、と健太は心の中で京子に何度も感謝した。


 その頃東京駅では、1人の女が三島駅までの切符を買っていた。



 京子の家庭は少々複雑で、母親は京子が9歳の時に新しい男を作り出ていった。それから真面目だった父親は変わってしまい、ギャンブル、風俗へとはまり、借金までするようになった。


 そして京子が17歳の時に自己破産をし、京子は高校へ通う事も出来なくなってしまった。同級生の中で5人ほどしか入れない有名進学校に頑張って入ったのにな、と健太も肩を落とした記憶が残っている。


 それから京子は18歳になるまでの1年間でラーメン屋でバイトしてお金を貯め、誕生日の日の朝に東京へと旅立っていった。


 それから2年後、健太はもう会えないと思っていた京子と、案外あっさりと再会する事になる。フェイスブックが京子を探してきた。健太はすぐにコンタクトを取り、その週の週末に再会を喜んだ。


 その時健太は都内に通う大学生で、京子は郵便局に勤める職員だった。つまりは公務員だ。


 健太はよくあの状態からそこまでになったなと感心したが、元々頭は良かったので、別に驚きはしなかった。


 それから頻繁にメールのやり取りをし、月に何回か遊ぶようになってから1年後、交際へと発展し、今に至るというわけだ。


 京子の実家はもう跡形も残っていない。1人住んでいた父親が1年前に癌でこの世を去ってから、取り壊されており、ただの更地になっている。


 公務員だった京子の父親の最後は、娘とその彼氏にだけしか見送られない寂しいものだった。京子は涙ひとつ見せずに父親を見送った。


 今京子はどんな心境なのだろう?昔を思い出しているには違いないが、何を考えているのか、と健太は気になった。


 地元の街頭すら少ない道をしばらく走っていると、助手席から声が聞こえてきた。


 「ねえ、ちょっと小学校まで行ってくれないかな?ちょっと見たくなっちゃった」


 京子が昔通っていた小学校へ行きたいと言い出した。その声は落ち込んだものとは違い、いつもの明るい京子の口調だったので、健太も安心した。


 健太はOKと軽快に言い、車を走らせた。



 2人が通っていた小学校は、今は廃校になってしまっている。しかし取り壊す予算もないみたいで、いつまでもそのままで残っているのだ。


 「懐かしいね」


 京子が車を降りて言った。


 「もう10年以上も前になるんだね」


 健太が車の鍵を閉めながら答えた。


 今はこの小学校もなくなり、地域に小学校はなくなってしまった。今この地域に住んでいる子供達は、少し離れた小学校へ通う必要がある。父親が通っていた時は1学年3クラスもあったみたいだが、廃校になる前年には17人の1クラスまでに減っていた。


 廃校になるのも仕方ないよな、と健太は呟いた。


 健太と京子が通っていた当時も、1学年30人の1クラスしかなかった。1クラスしかない連帯感からか、同級生は皆仲良しだった。いじめというのが出てきたのは中学校に上がってからで、小学校時代は誰もいじめの標的になる事はなかった。


 中学校は町で1つしかなかったので、周辺地域にある小学校の子供達が集まる形となって、3クラスになった。中学校では特に理由もなく、たらい回しのようにいじめの標的は変わっていった。小学校時代はリーダー的存在だった増田までも、いじめの標的にされた事もある。


 健太と京子もそれぞれ、2年生の時に3週間ほどいじめの標的になっていた。いじめといっても無視程度の事だが、この年代の頃はある意味1番辛いだろう。


 最初に京子が無視されていて、京子に話しかけていたのを目撃された健太が、次の標的になる形となった。


 京子は「あの時話しかけてくれたのに、健太が無視されていた時に見て見ぬふりしてごめん」と健太に謝った。「その事で謝るのこれで何回目になるんだろうな。もう忘れたよ」と健太は笑って京子の肩に手を置いた。


 2人はしばらく廃校となった小学校を見つめていた。2人とも相手が何を考えているかはわからなかったが、思い出に浸っている事だけはわかった。


 やがて先ほどと同じように、京子が口を開いた。先ほどとは違い、控えめな口調だ


 「美術室だったね」

 「……うん」

 「ごめん。今は1番触れられたくない話題だったよね。でもどうしても話しておきたくてさ」


 15年前の小学校4年生の時、美術室で健太がゴキブリ嫌いとなる事件が起きた。



 ゴキブリの事を好きな人間なんかいないだろう。好きか嫌いかという質問なんか意味がないほど、嫌いという人間ばかりになるはずだ。


 それでも自分ほど嫌いな人間は1000人に1人、いやそれ以上のレベルではないかと健太は思っている。


 15年前、健太と京子は放課後の美術室で折り紙をして遊んでいた。いつも17時のチャイムが鳴るまで、時間を忘れて楽しんだ。


 この日もチャイムが鳴るまで楽しんでから、帰ろうと立ち上がった時だった。美術室の机の裏にいたゴキブリが、丁度あくびをした健太の口の中に飛んできたのだ。


 健太はそのまま床に倒れて、頭を打って気絶してしまった。床からは多量の血が流れていた。京子は急いで担任に伝えに行き、救急車を呼ぶまでの大ごとになった。


 結局健太は頭を6針縫う大けがをし、次の日は学校を休んだ。京子はゴキブリの事は誰にも言わないつもりだったが、お調子者の担任が口を滑らせた。


 それからしばらくの間、健太はゴキブリマンと呼ばれるようになってしまった。いじめという認識は本人も周りもなかっただろうが、内心は嫌だろうな、と京子は健太がゴキブリマンと呼ばれる度に心が痛んだ。


 「あの当時さ、お母さんがいなくなって、お父さんもおかしくなって、すごい沈んでた時に、健太だけが毎日心配して遊びに誘ってくれてたでしょ?私すごいうれしかったんだよ。だから健太が無視されていた時に見て見ぬふりしてしまった事、未だに後悔してるんだ」


 京子は月を見つめながら話し、健太は黙って聞いていた。


 「私はお母さんやお父さんとは違って、立派な大人になろうと決めてたくさん勉強した。なのにお父さんが自己破産して高校を中退せざるを得なくなった時、もう何もかもが嫌になった。もうお父さんも地元も捨てて、1人で生きていこうと決めた」


 健太は当時の京子の様子を思い出していた。


 「東京で1人で生きている時に健太と再会して、心臓が破裂するくらいうれしかったのを覚えてる。私の人生はこの人によって救われてきたんだなと心から感じた。そしてもう絶対に健太を裏切らないと決めた。一生この人を守ると決めた。だから健太にあんな事をした相手は絶対に許さない。私が殺してあげる」


 京子はそう言って振り返った。その先には不気味な人影が見えていた。


 京子はそしたら私だけを一生愛してね、と言って人影に向かって歩き出した。



約束



 健太はいきなりの展開に混乱していた。状況が全く理解できていなかった。


 ただ京子が言った言葉だけが頭の中を駆け巡り、その先にいる人影が誰なのか、必死に目を凝らして確認した。


 顔はよく見えなかったが、体格、髪の長さからして、女である事は間違いないだろうと健太は判断した。


 その女と判断した人影は、その場を動こうとしない。およそ30メートルほど先で突っ立ったままだ。


 健太はその人影を警戒しながら、歩き始めた京子の腕を掴んだ。


 「ちょっと待ってくれよ!どういう事なのか全然意味がわからないんだけど?」

 「だから安心してって言ったでしょ。健太にあんな事した相手は、私が殺してあげるから」


 京子は歩みを止めようとせず、健太の方を振り返らずに答えた。まるで何かに取りつかれているようだった。


 「あれが犯人なの?」

 「そうよ」

 「どうやって突き止めたのさ?」

 「あれを殺したら全部話す。健太危ないから離れてて」


 京子は服の隙間からバタフライナイフを取り出した。


 本気だ……


 健太は焦った。犯人の事は何発殴っても気が済まないほど憎んでいるが、いくらなんでも殺すのは違う。何より京子が犯人に返り討ちにあうかもしれない。犯人は何をしてくるか、何を持っているか全くわからないのだから。


 「取りあえずこの場は逃げよう!?犯人が分かってるなら警察に通報すれば済む話だよ?」

 「あいつは健太の実家までわかってる。捕まっても何年かしたら出てきて、また健太に被害を及ぼすよ。ご両親にも迷惑が掛かるかもしれない。そうなっても良いの?」


 健太は「それはそうだけど……」と言葉に詰まってから、「でも」と言って京子を説得しようとした。だがその前に、健太の説得の内容を全て理解している京子が言葉を遮った。


 「大丈夫。あいつは頭がおかしい。正当防衛だって言い張れば捕まる事はないよ。それに私は犯人が誰なのかわかってる。何をしてくるかも予想が付くからやられる事もない。だから健太、危ないから離れてて。あいつを殺してくるから!」


 京子はそう言ってナイフを右手に構え、人影に向かって走り出した。


 健太は一瞬たじろいだ後、京子に続いて走り出した。人影の女もビクッとして、一瞬たじろいだように見えた。


 京子はその走った勢いのまま、刺す気満々である。健太は何とか止めようと追いかけるが、一瞬たじろいでしまったハンデがあるため追いつけない。


 せめて50メートルあれば、なんて健太が考える暇もなく、すぐに人影の女との距離は縮まり、京子はナイフを突き刺す体制に入った。


 健太はその様子がスローモーションのようにゆっくりに見えた。しかし自分の体もスローモーションのように重くて動かない。


 何とかして京子を止めなければ


 その思いとは裏腹に、京子が人影の女の目前までたどり着き、心臓目がけてナイフを突き刺そうという所だった。


 もう無理だ、と健太が思った次の瞬間、人影の女がそれを寸での所で避けて地面に倒れ込んだ。そしてそのまま地面を何度かゴロゴロと転がった後、大声で叫んだ。


 「やっぱり無理よ!やめて京子、私にはこんな方法はできないわ!!」


 いきなりその女から発せられた声は、紛れもない老女のものだった。


 倒れ込んだ老女の顔を近くで見た健太は、自分の母親と同じくらいだとすぐに思った。


 「うるさい!黙って刺させろ!」


 倒れ込んだ老女に向かってナイフを振り下ろそうとした京子を、健太は後ろから羽交い絞めにして止めた。


 「やめろ京子!」

 「離せ!離せよ!」

 

 京子は手の先と足だけをバタバタと動かしている。しかし羽交い絞めの体制になってしまったら、たとえ男であっても中々抜け出せるものではない。京子は動く事は出来なくなり、ただ大声でわめき散らすだけになっていた。


 数秒の間、その光景を倒れ込んだまま見ていた老女が、正座して京子に語りかけた。


 「京子、お母さんが悪かったから許して。あなたを捨てた事、今では本当に悪いと思ってるのよ……」



 京子の母親を健太が見たのは幼稚園の卒園式が最後で、それ以降の行事にはいつも父親が来ていた。


 運動会にも京子の母親は来ておらず、いつも父親だけがシートを広げて応援していて、父親が作ったと思われる冷凍食品ばかりの弁当を、京子は食べていた。


 健太は幼いながらも、京子が不憫だと思っていた。家が近所で、幼稚園に上がる前からよく遊んでいた京子の事を、健太はほっとけなかった。


 いつも一緒に帰り、京子の父親が帰って来るまで遊んでいた。京子の父親に「いつも遊んでくれてありがとう」と笑って言われると、健太は何かすごい良い事をしているような気持ちになり、うれしくなった。


 父親に手を引かれて歩く京子は、見えなくなるまで健太に手を振っていた。


 そんな日々が何年か続いた後、京子の母親が見た事もない男と車に乗っているのを、2人で帰り道を歩いている時に目撃してしまった。3年生が終わろうかという、冬の終わりの出来事だった。


 京子の顔色が変わったのを感じ取ったが、健太はこれは触れてはいけないと思い、見ていなかった事にした。それまでも母親の話題はタブーだと思い、聞いた事はなかった。


 しかし本当は聞いてみたかった。


 「何で京子ちゃんのお母さん、いつもいないの?」と。


 それから3ヶ月後、学校を休んだ京子の家に行くと、母親が出ていってしまった、と京子が泣いていた。健太は取りあえず京子の手を握り「僕がいるから大丈夫だよ」と言った。後で思い返して何度か赤面したくらい、健太にしてみれば恥ずかしい台詞だった。


 それから、父親の姿も見る事はなくなった。小学校の上学年になっていた健太には、何でなのか想像は付いた。


 以降は参観日にも運動会にも京子の父親は姿を見せず、運動会の時には、京子は健太の家族に混じって昼食を取っていた。


 最後に父親が姿を見せたのは小学校の卒業式の時で、式が終わると記念撮影も待たずに帰ってしまった。


 京子はそんな父親を見る事なく、笑顔で記念撮影の輪に混じっていた。


 京子は強いんだな、と健太は感心していた。この感情は、それ以降も何度も感じる事になる。



 中学校に上がってからは入学式、参観日、運動会、卒業式に至るまで、京子を見守る身内は誰1人として現れなかった。既に京子の身内は父親しかいないわけなのだが。


 この頃になると、京子の父親の悪評は色んな人を通じて健太の耳にも入ってきた。


 平日にパチンコ店で見た。競輪場で何十万も使っていた。風俗店から出てくるのを見た。スナックの女に貢いでいるらしい。


 その1つ1つが、中学生である健太にはインパクトの強い内容で、聞く度に京子の事が心配になったが、学校での京子はいつもと変わらず明るかった。


 そして父親の事で内心は色々悩みを抱えていただろう中学2年の時、京子はいじめの標的となり無視をされる事になる。健太はそんな京子を例によってほってはおけず、人目も気にせずに京子に話しかけにいった。


 それが原因で、今度はいじめの標的が健太に変わったのが3週間後だ。これまでの標的のサイクルの中では、最も短い方ではないだろうか。


 いじめというのは大勢が1人を標的にする事で成立する。つまり健太がいる内はいじめにならないと考えたのか、標的を健太に変えて京子を味方に引き入れた。


 今にして思えば、あれでいじめの標的が自分に移って良かったと、健太は心の底から思っている。あの頃の状況の京子が、無視をされていたんだなと考えると、今でも心が痛む。そして未だに、あの時の京子を無視していた同級生達を見かけると、はらわたが煮えくり返るほど怒りがわいてくる。


 その健太もいじめの標的からはすぐに免れた。奇しくも京子と同じ3週間で呪縛から解けた。同級生の高田が、学校で小便を漏らしたからだ。高田は中学を卒業するまで、標的となってしまった。


 余談だが今では医療系の研究科で働いており、同級生の中で誰よりも稼いでいるという話を健太は最近聞いた。


 そのすぐ後に、京子は泣いて健太に謝りにいった。


 「健ちゃんは話しかけてくれたのに、本当にごめん」と。


 健太はその時は手を握るなんてキザな事は出来もせず、


 「ああ、別に大した事じゃないよ」


 とぶっきらぼうに答えるのみだった。


 高校受験の事で頭が一杯になっている中学3年の夏の終わりかけの夜、勉強している健太の携帯電話に、京子から電話が掛かってきた。


 「父が少し心を入れ替えたみたい。高校の学費と通学費は心配しなくて良いから、好きな所を受けなさいと言ってきた」


 うれしそうな声だった。すぐに健太に電話した理由は、健太が家庭の事情を気にして今まで色々してくれたから、報告する義務があると京子は感じていたからだ。また1番報告したい相手でもあった。


 京子は学校でも上位10人には常に入っているほど頭が良かったが、高校には行けないんじゃないかと、健太の両親は話していた。健太も同意見で、本当に京子が不憫だと思った。


 だからこの報告を聞いた時は、健太も本当にうれしくなり、すぐに両親に「京子ちゃん高校に行けそうだって」と報告した。



 高校は別々になったが、週に一度は電話をするほどの交流は続いていた。健太はもっと声を聞きたいと思っていたが、京子は有名進学校に通っていて勉強が忙しかったようで、それ以上は厳しかった。


 別々の学校に通うようになってから、健太は京子が好きなんだと確信した。京子と同じ大学に行けなくても、京子と同じ地域にある大学には行きたいと思って、健太も勉強をそれなりに頑張って、いくつかの大学には行けるくらいの成績はキープしていた。


 そんな事を考えていた高校2年の冬、京子から電話があった。嬉々として出るが、いつもとは様子が違う。えらく取り乱していた。


 「もう嫌だ!どれだけ頑張っても、結局身内に足を引っ張られて私の頑張りは無駄になる!どれだけ信じても結局裏切られる!だったらもう1人で生きてやる!もう誰も信じない!」


 それだけ言い終わると、京子は電話を切ってしまった。健太に言っているというよりは、世の中の不条理に対して訴えている、といった感じだった。本当に全てがどうでもよくなってしまったのだろう。健太は自殺でもしないかと心配で家まで見に行ったが、誰もいなかった。


 それから電話を掛けても繋がらず、家に行っても誰もいないで、健太は心配で満足に寝られない日々を過ごしていた。


 後日京子の父親が、自己破産したという事を聞いた。


 京子から連絡があったのは、それから4ヶ月後の事だった。電話ではなくメールだった。健太はメールを開く前から、京子との最後のコンタクトになるような気がしていた。


 『健ちゃん、心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ私。1人で生きていく覚悟を決めた。健ちゃんにはこれまで色々してもらって本当に感謝してます。でもこれからは私は私の道を行きます。健ちゃんも健ちゃんの道を行ってください。もう会う事はないでしょう。今まで本当にありがとうございました。さようなら』


 予想通りだった。それは返事をするのにも迷う内容で、もう返事はいらない、と言っているように感じた。付き合いだしてから確認すると、本当にそうだったらしい。


 健太は散々迷った挙句、返事はせずに京子に関して残っていたデータを全て消して、忘れる事にした。


 2年後、フェイスブックで京子を見つけた時は本当に驚いた。まさか京子を見つける日がこようとは考えもしなかった。しかも同じ都内に住んでいるらしい。


 フェイスブックで疎遠になっていた知り合いを見つけ、再びコンタクトを取るなんて事は珍しい事ではない。むしろよくある方だ。住所や出身地、共通の知り合いがいれば、フェイスブックが勝手に知り合いかも?と思う人を探してきてくれる。その中には高校生になってから連絡が途絶えていた、小・中学校時代の友人もいる。


 しかし京子がやっているとは思わなかった。いや、フェイスブック自体はやっててもおかしくないと思っていたが、出身地や出身学校を正直に書いていたのは意外だった。


 あんな形で地元を去る事になってしまった京子が、地元の知り合いとまた連絡を取りたいと思うだろうか?


 もしかして俺を見つけるために始めたんではないだろうか。


 健太は自分の考えがいかに厚かましい事かはわかっていたが、見つけてしまった以上コンタクトを取らずにはいられなかった。この2年間忘れようとしても、健太の心の奥にはずっと京子がいたのだから。


 友達申請を出すとすぐに返事があり、1通のメッセージが送信されてきた。健太は2年前のメールの時とは違い、わくわくした気持ちで文面を開いた。


 『健ちゃんお久しぶりです。お元気ですか?またこうやって出会えた事が本当にうれしいです。今の私の携帯番号とメールアドレスです。もしよかったら連絡下さい』



 それからはまた以前と同じように連絡を取り合い、1年後、健太から告白する形で交際が始まった。告白が終わった後、京子は来月になったら私からするつもりだったと笑顔を見せた。


 京子から父親が癌になって死んだと健太が聞かされたのは、カラオケ店を出た深夜3時過ぎだった。交際が始まってからおよそ2年後の事だ。


 京子は、何かがあったのだと悟られずに過ごすのが本当に上手い。健太はこの日、少しの違和感も感じなかった。まさかそんな事があったなんて、と耳を疑った。


 「そっか、それは大変だったね」


 健太は神妙な顔を作ってみせたが、京子は背伸びをしながらこう答えた。


 「あんな父親どうなったって構わないもの」


 そう思うのは当然だろうな、と健太が思い終わるのも待たずに「ただ……」と京子が続けて話した。


 「あの人、癌になってから急に私の心配ばかりするようになったのよ。ご飯は食べてるか?何か心配事はないか?ってね。おかしいよね。あれだけ私に迷惑ばかり掛けて生きてきて。自分がもうすぐ死ぬって時に私の事ばかりなの。そして最後に、色々すまなかったって言って死んでいった。謝るくらいなら最初からやるなよって感じだよね」


 京子は健太の顔を見て微笑んだ。その目には、うっすらと涙が光っていたようにも見えた。


 「京子と毎日遊んでくれてありがとう」


 そう言って笑う京子の父親の顔が、健太の脳内によみがえってきた。彼は毎日、仕事終わりに京子を迎えに来ては、手を握りしめ帰っていった。そして入学式や参観日には母親達に混じって並び、運動会には慣れない弁当を娘のために作り、一生懸命走る。


 元はそういう人なんだろうな、と健太は思った。真面目で娘思いの優しい父親。それが京子の父親の本来の姿だろう。京子もそれはわかってると思う。


 何か原因があって、あの人間性は大きく狂う事になってしまった。その原因を作ったのは他ならぬ京子の母親、今目の前で正座している人なのだ。



 健太は走馬灯のように、京子とのこれまでが頭の中を駆け巡っていった。


 そしてそれが終わると、今直面している非現実的な現実の問題をどう解決しようか、考えを巡らせた。


 「京子ごめんねえ。お母さん急に怖くなっちゃって……」


 正座したまま京子の母親だという老女は、俯いて泣いている。会話の内容からして間違いはないだろう。その母親に向かって、京子は大声で叫んでいる。


 「今さら何よ!刺される約束だったでしょ!?大人しくしててよ!」


 京子は後ろで羽交い絞めしている男の存在を、忘れているかのような事を言っている。事実頭の中から消えてはいただろう。目的を達成させなかった母親への怒りで、我を忘れている。


 その母親は、健太を不思議そうな顔で見ていた。何で?と言いたげな表情に、健太は感じた。


 「これが終われば、健太は一生私のものになるはずだったのに!」


 京子の言っている意味が健太は理解できなかった。母親を刺した事で、何で自分が一生京子のものになるのだ?と思った。普通なら、逆に離れるだけだと考えないか……と。


 段々冷静さを取り戻してきた健太は、事件がこの2人の仕業だという事はわかった。


 後は理由だけだ。


 「京子、話してくれないか?」


 努めて冷静に、優しい口調で健太は言った。その声を耳のすぐ後ろで聞いた京子の動きは、ピタッと止まった。


 「全ては、健太が私から離れないようにするためだよ……」

 「だからそれが、何でこんな事をしないといけないのかが俺にはわからないんだ。説明してくれよ」

 「……わかった。もう落ち着いたから離して。これも手放すから」


 京子が持っていたバタフライナイフを地面に落とすのを待ってから、健太は力を緩めた。


 京子は正座している母親と健太を見れる位置に立ってから、話を始めた。


 「私がこの計画を思いついたのは1年前の事。……この人を見つけた時よ」


 京子は母親を顎でクイッと示した。


 「この人は15年前、私と父を捨てて、新しい男と家を出ていった。父が私の学費にと貯めておいてくれた、500万と一緒にね」


 初めて聞いた話だった。健太は母親をチラっと見た。母親は俯いたままだった。


 「そうだったんだ」

 「それを私は、父が死ぬ1週間前に知ったの。私はその時、父に対する怒りがスーッと消えて、代わりにこの女が憎くてたまらなくなった」



 健太はカラオケ店の出来事から1週間前を思い出していた。別に普段と変わらない京子の様子が映し出された。


 「それから父の死を待ってから、私はこの女を探す事にした。探偵に絶対見つけてくださいと50万払ったら、3日で見つけてきたもんだから驚いちゃった。身辺調査も依頼していたのにね」


 京子はフッと笑って続けた。


 「そしたらこの女、一緒に逃げた男にDVされて体中あざだらけになってたんだって。しかもその男に多額の保険金をかけられていたらしいの。探偵は、もしかしたら事故に見せかけて……って言ってた。私もそう思ったわ。だって年を取ったこの女には何の価値もないんだもん。お金に変わってくれるならその方が良いって思うのが普通だよね。私はその話を聞いてから、この女を使って健太を一生私のものにする計画を思いついたの」


 健太はまだ理由が見えてこなかった。時折小さく頷き、話を聞いている。


 「私はまず偶然を装ってこの女と再会する事にした。健太と違ってフェイスブックなんかやってるわけないから、どうしようか迷ったよ。だけどどうせ深く考えない女だし、長年DVされて判断能力もなくなってるだろうからって事で、この女がコンビニに出かけた時に、サクッと再会をしちゃったの。健太の時と違って憎悪の感情しかなかったけど、必死でお母さんに会いたがってた娘を演じたわ」

 「京子……」

 「黙ってて!あなたが話す事はもうないの」


 京子は顔を上げて何か言いたげな母親を、腕組みをした状態で黙らせた。母親は再び俯いた。


 「それから何度も親身になって話を聞いている内に、この女は、もう娘は許してくれたんだ、やはり母親の私の事が好きなんだ、と思ったらしく、何でも私に話すようになった。そして私は徐々に、遠まわしに、あなたはもうあの男にとって用済みなんですよって事を刷り込んでいったの。お母さんあの男今日も違う女と歩いてたよ、今日も風俗に行ってたよって事を繰り返し何度も言ってね。すると段々私はもう生きてる価値がないのかな?って事を言い出すようになっていった。私は当然でしょ?って心の中で思いながら、とどめに保険金をかけられている事を教えてあげたの。そして5ヶ月後、やっとこの女は、もう死にたい、と言ったわ。私は心の中でガッツポーズを取った」



 ”人間は死を意識した時、誰もが極楽浄土に逝きたいと願う。その時、自分の人生を振り返り、迷惑を掛けた人間に償いたいという気持ちが出るんです”


 健太は数年前に、テレビでお坊さんが言っていた言葉を思い出した。恐らく京子も同じのを見ていたんだろうと直感した。


 この身勝手な母親でさえも、せめて死ぬ前に娘のために何かしてやれないかと思ったのも、納得のいく話だ。


 「京子、最後にお母さんに何かできる事はない?」


 母親がそう言い出したのを聞いてから、京子はニヤリと笑いたいのを堪えて言った。


 「最後にって……。実はお母さん、いや、やっぱりこんな事頼めないよ……」


 ここで死んだら嫌だよ、なんて言葉を言ってはいけない事を、京子はよくわかっていた。そんな事を言ってしまえばこの女の事だ。京子のために生きる、と言い出しかねない。とにかく真剣な表情を作り、本題に入るのが得策だと判断した。


 「何だい?何でも言いなよ。あんたには苦労掛けたからね。私にできる事なら何でもするよ」

 「本当?実はね……。今ストーカー被害にあっているの」

 「ストーカー?」

 「うん、知り合いの男にもう何年も……」

 「それは大変だねえ……。警察に相談はしたのかい?」

 「そんな事したら殺されたりしそうで怖い……。とにかく粘着質な男で私以外は見えていない男なの。例え捕まっても、出てきたらきっと私を殺しにやってくるわ」

 「参ったねえ……。それで私は何をしたら良いんだい?」

 「お母さんには、その男にストーカーされる気持ちってのを味あわせて欲しいの。それでその男が心を入れ替えてくれないかなって」

 「入れ替えなかったらどうするんだい?」

 「もっとその男が嫌がる事をやっていくしかない……。お願いお母さん、力を貸して」


 母親は大きく頷いた。どうせ自分は死のうとしてる身だ。最後に京子のためになるなら、なんだってやってやる、と言って帰っていった。


 京子は相変わらず単純でバカな女だ、と思った。


 「それからの事は、多分健太の今考えている通りだよ。この女を何回も健太のアパートへ行かせて、それでもまだストーカーが収まらないと言って、ゴキブリを撒かせに行かせた。本当にごめんね」


 京子は健太に向かって、申し訳なさそうに手を合わせた。


 「そして、それでもストーカー被害が収まらないと言った私の次のプランを聞いて、流石に萎縮したようだね。まあ刺されて欲しいなんて言われたら、この女に限らずそうなるか。流石のストーカー男でも、人を刺すような頭のおかしい女には執着しないはずだって、ここにそのストーカー男を呼び出したから来てくれって言ったの。それはちょっと……とかごねるから、これで最後だからお願いって言ったら承諾したわ。最後って便利な言葉だよね」


 どのように犯行が行われたのかも、母親に復讐したかったのだという事もわかった。後は自分を一生私のものにする、という言葉の意味を、健太は早く聞きたかった。


 「この女には軽く刺すだけだって言ってたけど、本気で殺す気だったって事は健太はわかってるよね?」


 健太は黙ったまま京子を見つめていた。さっきのは紛れもなく心臓を狙っていたというのを、健太も、そして京子の母親もわかっている。


 「私の人生で達成したい事は2つ。この女に復讐する事と、健太を一生私のものにする事。それが今日両方とも達成できるはずだったんだけどなあ……」


 京子は髪の毛を掻きむしった。


 「京子、何で今回の一連の事で、俺が一生自分のものになると思ったんだ?逆に離れるだけだと考えると思うんだけど……」


 健太はさっき心の中で思った事を口に出した。


 「まだわからないの?あなたに罪悪感と責任感を背負わせる事、そして絶対他人に言えない秘密を共有する事で、あなたを私から離れられなくしようとしたのよ」

 「と言うと?」


 健太がいつもの癖で聞き返してしまった。京子はプッと笑ってから、説明を始めた。


 「自分のために犯人を殺してくれた恋人に対する罪悪感。その恋人がここまでしてくれたんだから、自分もその気持ちに応えなければいけないという責任感。そして正当防衛だったと口裏を合わせる事で、2人にしか共有できない秘密が出来る。秘密が大きいほど絆は深まるから」


 なるほどな。


 京子の計画が完全に成功していたら、確かに自分はそう感じていただろうな、と健太は思った。


 「京子……」

 「何も言わないで健太。悪い方法なのはわかってる。だけど私は、あなたに一生離れて欲しくなかったの。いずれ健太も父やこの女と同じように裏切るのかもと考えたら、今回の事をやめる気にはなれなかった」


 健太は無言で、京子の肩に手を置いた。そして絞り出すような声で、


 「バカだよ……。こんな事しなくても、俺は離れる気も裏切る気もなかったのに……」


 と言った。京子は眼を閉じ、


 「わかってる。ごめん」


 とだけ言った。


 「さて、それじゃ行こっか?」

 「え、どこへ?」

 「もう!警察署に決まってるでしょ。計画がバレた以上、健太とはいられないもの。今回してしまった事の罪を償ってくる」


 京子は車を停めてある場所に向かって歩き出した。その京子の耳元に、すがるような声が聞こえたのは、歩き始めてすぐの事だった。


 「京子、私はどうしたら良いの……?」

 「さあね、死んだら?」


 京子は振り返らずにそれだけを冷たく言い放つと、スタスタと歩いていった。健太は京子の後を急いで追った。


 車へ向かう2人の耳には、京子の母親がわんわんと泣く声が聞こえていた。


 ここから最寄りの警察署までは40分ほど掛かるが、2人は一言も言葉を交わさなかった。もう今は話す事はない。2人は同じ心境だった。


 やっと会話が交わされたのは、警察署に着く直前の信号で止まった時だった。


 「なあ、ゴキブリ用意しすぎじゃないか?」

 「健太が被害届出さないと意味ないと思ったからね。あと犯人がいかに頭がおかしい人物か思わせとく事で、正当防衛を通しやすくしたかったら……」


 本当に殺す気だったんだな、と健太は改めて思い、少し寒気を感じた。

 

 車が警察署の駐車場に入ろうとした所で、京子がここで良い、と車を停めさせた。


 降りようとドアを開ける京子に、


 「もうゴキブリは勘弁だからな?」


 と健太は微笑んで言った。京子はフッと笑って降りていき、警察署に向かって歩き始めた。


 健太はその姿を見送ると、車を発進させた。既に太陽が昇り始め、辺りは明るくなってきていた。




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[一言] 何と言うか… 過ぎたる愛が狂気と表裏一体な有様が凄く怖かった。
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