文面王
よく通う小さな本屋さんでのことです。
「力だ、ふはははは」
一口一口刻むように笑う男は、眼が黒ずんでいました。店内にいたすべての人が彼を見ていました。私も驚きと好奇心から眺めていました。彼は一冊書籍を持った手を掲げて、突然、大声で笑いだしたのです。独特な音、リズムな笑いでした。不意に彼がこちらを、フッと見返してきたとき、ギヅい目に、私は怖くなりました。何が起こるかもわからないので、急いで外へ駆け出したのです。ヒトの流れは逆を向いていました。野次馬が変なもの見たさにぞろぞろっと店の中を覗きこんでいました。逃げるように立ち去った私の背中を、笑いはずっとずっと追いかけてきました。
ヒトの壁越しから、私は彼の方を見ました。
これまでにも変だと思う人は何度かみたことがありました。電車の中で歌いだす人、奇声を発する人、大声で独り言を言う人。人の多い都会ではそんな人がいても大事に至りません。私自身、特に耐性がないわけでもありませんでした。けれどその時は、あまりにも印象が強く、終日忘れることができませんでした。何より気になって仕方がありませんでした。彼が手にしていたあの「文面王」という本が、一体何だったのだろうかと。
それから数年のことです。それなりに評判の良い高校へ進学が決まって、入学式までの時間を余していた私は出先で見知らぬ本屋に寄りました。華やかな女性誌の棚から順に少女コミック、文庫本、雑学本と眺めていったとき、そこで、あるタイトルを目にしました。黒い装丁に白文字の「文面王」という本を手にしてみたとき、まずそれが大きさに反して異常に重いものであることがわかりました。次いで開こうと指を押し当てると、本来であれば必要のない金属性の輪が全頁を穿ち、閉ざしていることに気がつきました。これでは立ち読みはおろか、購入してもすぐには読むことができません。リングを切り壊す道具が必要です。気になって買ってみようとも思いましたが、値段「15万円(税込)」と見れば諦めるしかありませんでした。
それからさらに数年のことです。私は社会人となり、小説家を目指して片手間にも勉強をしていました。本もよく読んでいましたし、書店に行く機会も増えていたのですが、子供のころとは違って、足を運ぶのはもっぱら品ぞろえの良い大きな書店と決まっていました。
「また本?」
「うん。待ってた新刊が出るから」
同僚にいつもの応えで別れを告げると、私は行きつけの大型書店へ向かいました。かねてから期待していた新人作家「黒江田 了」の最新作「見るも無惨に」の発売日だったのです。それも本人の握手会を兼ねています。ファンである私は列に並び、その時を待ちました。そしてその時が来たとき、私の中で鮮明に記憶されていたあのギヅい目が、フラッシュバックしました。私の時間は止まりました。
「ふはは」