復縁のお祝いは結構です。私は、別の方に恋をしています
「最後くらい、気持ちよく送り出してくれないか」
婚約を破棄すると告げた男は、私が泣きそうになっているのを見て、困ったように笑った。
オーブリー家の客間には、私が彼を待ちながら選んだ花が飾ってあった。今日は結婚式の招待客を決めるつもりだったから、父も母も隣の部屋にいる。私は膝の上で、二人で見るはずだった名簿の端を握った。
「私に、何と言ってほしいのですか」
「幸せになってくれと、それくらい言えるだろう。アデル、君はそういう優しい人じゃないか」
ユベール様は、ほかに好きな女性ができたのだと言った。
その方といると、毎日が面白いらしい。私とでは何を話すかも、どんな返事が来るかもわかってしまう。長く一緒にいすぎたのだと、二年間の婚約を説明された。
私は今日、彼に話したいことを三つ用意していた。招待状の話が済んだら、昨日母と出かけた店のことを話そうと思っていた。
その三つを、いま言えばよいのだろうか。私といるのも面白いですよと、証明してみせればよいのだろうか。
「私は、あなたと結婚するのを楽しみにしていました」
声が震えた。ユベール様は少し目を伏せ、わかっているよ、と言った。
わかっていて、祝ってくれと言うのだ。
名簿を持つ手に、力が入った。
「あなたのお話を聞くのが好きでした。でも、私にも話したいことがありました。途中で退屈そうにされるのが嫌で、言うのをやめたことも、何度もあります」
「今になって、そういう話をされても」
「今まで言わなかった私も悪かったのでしょう。でも、あなたが退屈しないように、別れるときまで笑うのは嫌です」
彼が顔を上げた。そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったらしい。
私は名簿を卓上へ置いた。角が折れてしまっている。慌てて伸ばしかけ、その必要はもうないのだと気づいた。
「婚約の解消はお受けします。ですが、お祝いはできません。私はいま、とても悲しいんです」
言い終えてから立ち上がると、ユベール様も腰を浮かせた。
「アデル、そんな大げさな。私だって、君に幸せになってほしいと思っている」
「でしたら、結婚しない方の機嫌を取るのは、今日で終わりにさせてください」
隣の部屋へ父を呼びに行った。
扉の取っ手へ触れたところで涙が落ちたけれど、拭いてから開けた。彼が帰るまでの間は、自分の言ったことを取り消したくなかった。
一週間後、両家で婚約を解消し、私は指輪を返した。
その夜、母の前で泣いた。好きだった頃の話も、最近寂しかった話も、順番を間違えながら全部した。母は途中で結論を出さず、お茶が冷めると新しいものを注いでくれた。
もうあの人の妻にならなくてよいと思うとほっとした。それなのに、妻になるのを楽しみにしていた私が、まだどこかに残っている。眠る前になると、その私が悲しがった。
「明日は泣かずに済むかしら」
何度目かのお茶を受け取りながら、私は尋ねた。
母はすぐには頷かなかった。
「どうかしらね。朝になってから考えましょう。いま、明日の分まで我慢しなくてもいいわ」
翌朝も少し泣いた。
ただ、朝食のあと、母が父の靴を間違って履こうとしていた話には笑ってしまった。笑ったあとで悲しくなっても、最初に笑ったことが嘘になるわけではなかった。
* * *
婚約破棄を告げられて三週目の日曜日、私はイザベル伯母様の昼食会へ出かけた。
母の姉である伯母様の家には、小さい頃からよく通っていた。客間の大きな鏡も、冬は少し寒い廊下も知っている。ユベール様も家同士の付き合いで招かれる方だったが、その日は来ないと聞いていた。
それでも玄関に入ると、足が遅くなった。誰に何を聞かれるだろう。気の毒そうな顔をされたら、また泣いてしまうだろうか。
「アデル様。お父様とお母様は、無事に会えましたか」
客間へ入るなりそう尋ねたのは、ノエル・ブランシャール様だった。
男爵家の次男で、王都の役所にお勤めの方だ。以前から、この家の集まりで顔は知っていた。少し笑い声が大きくて、話していると手まで動く。
私は驚いて立ち止まり、それから、前に何を話したのか思い出した。
「会えました。廊下の真ん中で、互いに相手を捜していたとわかったそうです」
「よかった。お二人が違う部屋へ行くたび、ますます遠くなる話だったので、気になっていました」
先月、うちの居間の壁紙を張り替えたときの話だった。
父は母が普段使う部屋へ行き、母は父の書斎を訪ねた。どちらも入れ違いになり、使用人に居場所を尋ねてまた動いたので、しばらく会えなかったのだ。
つまらない話をしたと思っていた。ユベール様が途中で狩りの話を始め、私もそれきりにしたからだ。
「最後は父が、ここにいる、と廊下で叫んだんです。母はすぐ近くにいたので、もっと早く呼んでくださればよかったのに、と」
「お父様が一か所に留まる決意をなさったんですね。賢明です」
ノエル様があまり真面目に頷いたので、私は笑ってしまった。
彼も笑い、昼食の席では、ご自分の兄上の話をしてくれた。先日、初めてのお子さんが生まれたのだという。
「兄は、赤ん坊を抱かせてもらうときに名乗ったんです。初めまして、父です、と」
「丁寧なご挨拶ですけれど、まだおわかりになりませんよね」
「義姉にもそう言われました。それでも、最初の挨拶は大事だと言い張るので、僕も叔父ですと申し上げてきました」
慌てて口元に布を当てた。笑い声が大きくなったからだ。
その動きを見て、ノエル様も口を閉じた。何か失礼なことを言っただろうかという顔をしたので、私は首を振った。
「すみません。声が、大きくなってしまって」
「僕のほうが大きかったでしょう。向こうの方が何の話かと振り返っていらしたので」
確かに、卓の端で伯母様がこちらを見ていた。
ノエル様は少し赤くなり、赤ん坊に挨拶する話です、と説明した。伯母様まで笑ったので、今度は私も口を隠しきれなかった。
帰りの馬車で、母が今日は楽しかったわねと言った。
私は頷いた。誰に何を言われたかを思い出して怯えるより先に、ノエル様へ話しそびれた父の返事を、次にお会いしたら伝えようと思っていた。
そのあと、私たちは伯母様の家で何度も話した。
ノエル様はいつも愉快な方、というわけではなかった。ある午後には窓際でぼんやりしていて、私が声をかけるまで気づかなかった。
「何か、お困りですか」
「友人が地方へ赴任することになりまして。栄転なので、喜ばしい話なんですが」
そう言う顔が、少しも喜ばしそうではなかった。
同じ役所で働く、学生時代からの親友だという。仕事帰りに食事をしたり、何も用がなくても顔を出したりしていた人が、来月にはいなくなる。
「わかっていたはずなのに、今日、引っ越しの荷物の話を聞いたら、急に寂しくなってしまって。僕だけがまだ、来月も同じ店で会うつもりだったようです」
私を楽しませようとしたのか、彼は途中で笑おうとした。
それがうまくいかなかったので、私は椅子を少し彼のほうへ向けた。
「お会いしに行くことは、できないのですか」
「休みをまとめれば。ですが、向こうも新しい暮らしが始まりますし、邪魔になるかもしれません」
「ご本人がそう仰ったのでなければ、聞いてみてもよいのではありませんか。私なら、来てくださったら嬉しいです」
ノエル様が私を見た。
少し長く見られたので、私は慌てて、遠くへ越した友人の立場なら、と付け足した。彼は頷いてから、それでも嬉しい答えですね、と笑った。
そのときの笑い方が、いつもの大きな笑い声より長く、心に残った。
一週間後、ノエル様は母と私を訪ねてきた。
お友達に会いに行く日が決まったという。早すぎるだろうかと尋ねたら、引っ越しを手伝ってくれるなら今からでも来いと返されたそうだ。
「楽しみにしていらしたのね」
「僕は荷物を運ぶ人として呼ばれた可能性もあります」
「では、次に呼ばれる頃には、家具を全部並べ終えているとよいですね」
彼は笑った。それから、訪ねる日の夜には好物を作って待つと言われたのだと、少し照れながら教えてくれた。
それが嬉しかった。元気になった彼を見られたことも、私にその話をしに来てくれたことも。
母が庭の花を切りに席を外したあと、彼は、また伺ってよいでしょうか、と尋ねた。
「友人の近況ばかり持ち込んでも、ご迷惑かもしれませんが」
「あなたの近況も、お願いします。お友達のことばかり詳しくなってしまいますから」
自分で言って、恥ずかしくなった。
ノエル様は頷いたあと、カップを持ち上げかけ、飲まずに戻した。
「では、今日は楽しい日だったとお話しできます。次もそうなるといいなと、いま思っています」
その日は、彼の馬車を見送ってからも、しばらく玄関にいた。
次に来る日を聞けばよかった。楽しみにしていますと、もう一度言えばよかった。お茶の味を尋ねるより、ずっと聞きたいことがあったのに。
そんな後悔をする自分が、少し可笑しく、たまらなく嬉しかった。
* * *
ユベール様が戻ってきたのは、それから三週間ほどたった頃だった。
先方の令嬢には結婚を断られたらしい。伯母様から短く聞いていたが、私に何かできる話ではないと思った。
ところが、彼は我が家へ訪ねてきた。母も同席する客間で、以前より穏やかな笑顔を作った。
「少し遠回りをしたが、やはり君がいちばん落ち着く。もう一度、やり直さないか」
私は、彼が遠回りをしている間のことを考えた。
指輪を外した指を夜中に見たこと。誰かに婚約の話をされるのが怖くて、外出をやめたこと。久しぶりに声を立てて笑い、その相手にまた会いたいと願うようになったこと。
その全部を、彼は知らない。
「お断りします。私は、あなたとは結婚しません」
ユベール様は驚いたあと、困った子供を見るように笑った。
「怒るのは当然だ。傷つけたことは謝るよ」
「謝っていただくことと、また結婚することは別です。やり直すつもりはありません」
母が私の隣に座り直した。
彼はそれ以上、その場では強く出なかった。わかった、また落ち着いた頃に、と言いかけたので、私は次のお約束はしませんと答えた。
帰ったあと、母がお茶を下げようとしたところで、私は呼び止めた。
「お母様。私、好きな方がいるの」
母は盆を置いた。
私がノエル様のお名前を言うと、少し微笑んだが、知っていたとは言わなかった。向かいの椅子を引き、どんな話をしたの、と尋ねてくれた。
私は彼の笑う顔や、お友達が引っ越すのを寂しがっていたことを話した。言葉にしてみると、ただ優しくされたから好きになったのではないとわかった。
嬉しい話をいちばんに聞きたい。彼がしょんぼりしている日にも、会いたい。その日の帰り道に私を思い出してくれたら、どんなに嬉しいだろう。
「まだ、何もお約束はしていないのね」
「ええ。だから、私からお話ししたいの。今度の伯母様の晩餐会で」
母は頷いて、それなら服を決めなくてはねと言った。
いつかは新しい縁談が来るだろうと待っていた頃より、ずっと胸が騒いだ。私は誰かと結婚したいだけではなかった。ノエル様に、好きになってほしかった。
晩餐会の日は、淡い薔薇色のドレスを選んだ。
鏡の前で髪飾りの角度を直すたび、侍女が同じところへ戻してくれた。三度目で気づいて、二人で笑った。
話を聞いてもらう言葉は、もう決めていた。
今度は伯母様の集まりでお会いするだけでなく、私とお出かけしてくださいませんか。あなたが好きなので、と。
後半まで言えるかどうかが、いちばんの問題だった。
伯母様の客間には、すでに十人ほどが集まっていた。
ノエル様は暖炉の近くで、伯父様と話していた。私に気づくと、顔が明るくなる。それだけで、玄関から抱えていた勇気の半分が、嬉しさに変わってしまった。
彼がこちらへ歩いてくる。私は母の隣を離れかけた。
「皆様。ちょうどよい機会なので、ご報告させてください」
近くでユベール様の声がした。
来ているのは、さっき玄関で上着を見て知っていた。伯母様の招待客を私が決めるわけではない。挨拶だけして離れればよいと思っていたのに、彼はまっすぐ私の隣へ来た。
「アデルとは、もう一度やり直すことになりました。お騒がせしましたが、これからも二人を見守っていただければ幸いです」
何を言ったのか、一度では理解できなかった。
すぐ近くのご婦人が、まあ、おめでとうございますと微笑んだ。伯母様はほっとした顔をした。ほかの方も次々にこちらを向く。
ノエル様の足が止まった。
私を見て、それからユベール様へ目を移す。さっきまで笑っていた口元が動き、何か言おうとして、言葉が出ないようだった。
「よかったわね、アデル。お二人でちゃんと話したと、いま伺ったところなのよ」
伯母様にそう言われて、ようやく何が起きたのかわかった。
私の返事が、知らないところで書き換えられている。
ユベール様が私の手へ触れようとしたので、私は両手を自分の前へ引いた。
「そのような約束はしておりません」
近くの会話が止まった。
ユベール様は私へ顔を寄せ、皆が見ている、と小さく言った。私も小さな声で頷いてしまいそうになった。伯母様の家だ。せっかくの晩餐の前に、揉め事を起こしたくない。
ノエル様が視線を伏せた。こちらへ来るのをやめ、窓際へ身を引こうとしている。
このままなら、今夜はもう彼を呼び止められない。復縁を喜ぶ婚約者の隣で、別の人を誘いたいとは言えない。
私は顔を上げた。
「伯母様。お話ししたのは本当です。でも、私はお断りしました。婚約を戻すお約束は、していません」
伯母様の笑顔が消えた。
私とユベール様を見比べる。その沈黙が怖かった。小さい頃から大好きな人の家で、皆を困らせているのは私なのだと、そう思われたらどうしよう。
ユベール様が、話を引き取った。
「少し、行き違いがあったようです。二人で話せば済むことなので、皆様はどうかお気になさらず」
彼は私を廊下へ促そうとした。
私は動かなかった。母も聞いていた私の返事を、彼は勝手に変えてしまった。ここを離れて話し直しても、ここにいる方たちには何も伝わらない。
「いま、ここで訂正してください。私たちは復縁していませんし、私はあなたと結婚しません」
「アデル。意地を張るのはやめてくれ。君が傷ついたことは謝っただろう」
「謝ってくださったので、お断りする理由もお話ししました。お返事を聞いていなかったことには、しないでください」
声が少し大きくなった。
奥の卓からも、こちらへ目が向く。私は胸の前で組みかけた手をほどき、ドレスの脇へ下ろした。震えているのを隠そうとしても、いまはうまくできなかった。
「お祝いを言ってくださった皆様には、申し訳ありません。でも、復縁のお祝いは結構です。私がお願いしたことではありませんから」
先ほどのご婦人が口元へ手を当てた。
伯母様がユベール様の名を呼んだが、彼は私だけを見ていた。その顔から、穏やかに取り繕う余裕がなくなっていく。
「君はまだ、一人なんだろう。私が戻ると言っているのに、どうしてそこまで怒るんだ」
寂しかった夜の私を、知っているような言い方だった。
確かに一人で泣いた。もう会えなくなるのが怖くて、彼の嫌がることを言わなかった時期もあった。けれど、その私が、いつまでも同じ部屋で彼を待っているわけではない。
腹が立った。泣いた時間を、この人の都合のよい話で塗りつぶされたくなかった。
「私は、別の方に恋をしています」
ユベール様が黙った。
言ってから、顔が熱くなった。でも、嘘ではない。今日ここへ来たのも、その方に会いたかったからだ。
「その方にお返事をいただけるかは、まだわかりません。ですが、お断りされても、あなたとの結婚を選ぶつもりはありません」
これだけは、先に言っておきたかった。
ノエル様に頷いてもらえなければ、自分の返事まで変わるような言い方にはしたくなかった。
ユベール様は私の視線を追って窓際へ目を向け、それから私へ戻した。
「まさか、あの男のために私を断るのか」
「あなたとの婚約を終えたあとで、好きになった方です。あなたに決めていただくお話ではありません」
私は彼の横を離れた。
一歩目で膝が頼りなくなった。母がこちらへ動きかけたのが見えたが、私は小さく首を振った。あと少しだけ、自分で行きたかった。
ノエル様は窓の手前で立ち止まっていた。
「ノエル様」
呼ぶと、すぐにこちらを向いた。
いつもなら、私が話し始めるまでに笑ってくださる。今は驚いた顔のまま、何を聞いてよいか迷っているようだった。
「今日は、あなたにお話ししたいことがあって来たんです。こんな形で申し上げるつもりでは、なかったのですが」
用意した言葉は、もう順番を失っていた。
彼を見上げると、帰ってしまう前に言わなければという思いが、恥ずかしさより強くなった。
「あなたが好きです。今度は、私の恋人として、お出かけに誘ってもよいでしょうか」
言い終えた途端、客間の静けさが戻ってきた。
大勢の前で言ってしまった。彼は困るだろうか。笑ってごまかしてくださるだろうか。私が勝手に恋をしただけなのに、ここで返事を求めるのは、ひどいことだったかもしれない。
「お返事は、あとで構いません。いまは、私の気持ちだけ――」
「あとにしないでください」
ノエル様の声が、思ったより大きく響いた。
彼は自分でも驚いたように一度口を閉じ、それから、私のほうへ歩いた。
「すみません。待つのは構わないのですが、いま答えたいんです。僕も、同じお願いをしたくて来ました」
目の前まで来た彼の耳が、赤かった。
笑おうとして、口元が落ち着かない。いつも私の話を聞いている方が、何を先に言えばよいのかわからないように、息を吸った。
「あなたが好きです。あなたと二人で出かけたい。今日はそのお話をするつもりで、早くから来ていました」
嬉しい、と思った。
次の瞬間には、その気持ちが胸に収まらなくなった。彼の顔を見ていようとすると涙が滲み、笑うと頬が震えた。
こんなときまで、上手に笑えない。
「私も、早くお会いしたかったです」
それだけ言うと、ノエル様が大きく頷いた。
腕を差し出そうとして、途中で手に変える。私が迷わずその手を取ると、彼は今度こそ声を出さずに笑った。息だけが少し漏れて、それがまた嬉しかった。
「少し、お話ししませんか。向こうの小部屋で。……二人で」
「はい。私も、そのために来たんです」
母へ顔を向けると、母は目元を拭いていた。
頷いてもらい、私はノエル様と並んだ。客間の隣の小部屋は扉が開いていて、こちらから椅子が見える。歩き出そうとしたところで、ユベール様が一歩前へ出た。
「待て。私との話が、まだ終わっていない」
ノエル様の手に力が入った。
私は握り返してから、自分で振り向いた。
「私のお返事は、先ほど申し上げました。残っているのは、皆様への訂正です」
ユベール様が私の手を見た。
返した指輪は、もうそこにない。代わりにノエル様の手を握っている。そのことを初めて見たように、彼は目を動かさなくなった。
「君は、私といるときは、そんなふうに……」
その先は続かなかった。
私は待たなかった。彼が言いたいことを察して、言いやすいように笑ってみせるのは、もうやめたのだ。
伯母様がユベール様の前へ立った。
「アデルが承知したと、あなたは仰ったわね。違ったのでしょう」
「もう少しすれば、落ち着くと思っていたんです。気を悪くしたままにしておくより、皆様に祝っていただけば――」
「私は、アデルが望んだと思ったから喜んだのよ。こちらの皆様にも、あなたからお伝えになって」
伯母様はご婦人たちのほうを向いた。
ユベール様は唇を結んでいたが、誰も話を変えてくれなかった。やがて、復縁は決まっていませんでした、と言った。最初の報告より、小さな声だった。
私は聞き終えてから、ノエル様へ向き直った。
彼は急かさずに待っていた。目が合うと、繋いだ手を少し持ち上げる。私が頷いたので、今度こそ二人で小部屋へ入った。
* * *
長椅子の前で手を離した途端、足の力が抜けた。
腰を下ろすと、ノエル様も隣へ座った。開いた扉の向こうには、母と伯母様の姿が見える。私はそちらを一度見て、それから両手で頬を押さえた。
「突然、申し訳ありま――」
「先ほど、言いそびれ――」
同時に話し始め、同時に止まった。
どうぞ、と譲ろうとして、また声が重なる。とうとう私が笑ってしまい、ノエル様も肩を落として笑った。
「先に、僕から一つだけ。僕はいま、とても嬉しいんです。でも、あなたは大丈夫ですか。先ほど、泣きそうなお顔をしていたので」
「怖かったです。今も、少し。でも、嬉しいです。あなたが笑ってくださったから」
答えているうちに、頬へ添えていた手の力が抜けた。ノエル様は、急に笑うのをやめなくてもよいとわかったように、口元を緩めた。
私も笑い返した。怖かったことまで、なかったことにせずに済むのがありがたかった。
「本当は、もっと落ち着いて言うつもりでした。あなたが帰ってしまうと思ったら、怖くなって」
「帰ろうとしていたわけでは……少し、離れようとはしました。僕が知らない間に、やり直すことをお決めになったのかと」
彼の声が低くなった。
先ほど窓際で目を伏せた顔を思い出した。あのとき、この人も傷ついていたのだ。
呼び止められてよかったと思うと、また涙が出そうになった。
「戻りません。あの方とは、もう結婚しません。私は、あなたがいらっしゃる日を楽しみにしていたんです」
彼は私の言葉を聞きながら、少しずつ笑顔になった。
「僕は、何度伺えば、会いたくて来ているとわかっていただけるだろうと考えていました」
「お友達のお引っ越しの報告だと思っていました。少しは、それを聞きたいとも思っていましたが」
「報告できることがなくなったらどうしようと、最近は困っていました」
そんな心配をしていたのだ。
私が次に話すことを考えている間、彼も会いに来る理由を探していた。嬉しくなって笑うと、ノエル様はようやく安心したように背中を椅子へ預けた。
「あなたが僕の話を覚えていて、続きを聞いてくださるのが嬉しかったんです。友人を訪ねる日が決まったときも、帰る道で、まずあなたに言おうと思いました」
「私も、早くお聞きしたかったです。寂しそうだったので、どうなったか気になって」
ノエル様がこちらを向いた。
私は膝の上の指を見つめかけ、それをやめた。ここまで言ったのだから、もう少しだけ、彼の顔を見て話したかった。
「笑っていらっしゃるあなたが好きです。でも、いつも愉快なお話をしてほしいわけではないんです。楽しくない日にも、お会いしたいです」
彼は何か言おうとして、すぐには声を出さなかった。
やがて、大きく息を吐き、片手で口元を覆った。耳の赤さが、頬へまで広がっていく。
「もう、十分嬉しかったのに」
小さく漏れた声に、私まで頬が熱くなった。
彼は手を下ろすと、今度は自分から、私の手の近くへ指を置いた。私はその上へ手を重ねた。先ほどよりも、指の温かさがはっきりわかった。
「僕も、あなたに笑っていてほしいです。でも、笑えない日に会えなくなるのは嫌です。嫌なことがあったら、僕にも話してください」
「話が長くなるかもしれません」
「それでは、座ってお聞きします。お茶も用意して」
私が笑うと、彼も笑った。
すべて上手に話せると約束されたのではない。それでも、この人となら、途中でわからなくなったら尋ね、言い足りなければ続きを話せる気がした。
そういう日を、私も一緒に作りたかった。
「今度のお休み、私と出かけてくださいませんか」
最初に言いたかった言葉を、改めて口にした。
ノエル様はすぐに頷き、来週の日曜ならと答えた。それから少し考え込み、頷くだけでは足りなかったように私を見た。
「いえ、僕からも。来週の日曜日、僕と出かけてください。あなたをお誘いするつもりで、何日も前から空けてありました」
「はい。私も、何も予定を入れていません」
顔を見合わせた。
同じ日を空けて、同じ家へ行く口実を探して、お互いのことを考えていた。そのことがわかるたび、まだ嬉しくなれる。
母が扉のところへ来たのは、私たちが何を話しても笑ってしまうようになった頃だった。
「そろそろお食事ですって。お話の続きは、そのあとでもよろしいかしら」
「お母様、ノエル様と隣の席にしていただけますか」
「アデル様と、隣の席にしていただけますか」
今度はノエル様と、同じお願いが重なった。
母は一度だけ目を丸くし、それから伯母様へ頼んでみるわと言って戻っていった。ノエル様が私を見て、また笑う。
「先ほどから、お願いしたいことがよく合いますね」
「今夜は、ずっと隣にいていただきたいです」
言った私のほうが恥ずかしくなった。
ノエル様は手を握り直し、それは今夜だけでしょうか、と尋ねた。
私は首を振った。声に出すと、また皆に聞こえるくらい嬉しい声になりそうだったので、今度だけは頷いてもらうまで、彼の顔を見つめていた。
* * *
あの晩、ユベール様は食事の前に帰った。
後日、母を通して謝罪が届いたが、私は結婚しないという返事を変えなかった。共通の知人の中には、人前であそこまで言わなくても、と仰る方もいた。その方のお茶会には、それから呼ばれなくなった。
寂しくないわけではなかった。子供の頃から知っている人だったからだ。
けれど、あそこで黙って笑うほうを選んだら、私はノエル様に、本当のことを言わないまま帰らせていたかもしれない。次に会ったとき、彼の目を見られなくなることのほうが、ずっと嫌だった。
伯母様は、あの場で先に喜んでしまったことを謝ってくれた。
私は、望んだ結婚だと思って祝ってくれたのはわかっていると答えた。ただ、私が違うと言ったときには、先に私の話を聞いてほしかったとも伝えた。
伯母様は頷き、次はあなたから聞くわ、と言った。
一月後、私とノエル様は、その伯母様の家で婚約の報告をすることになった。
日曜の外出は楽しく、その次のお誘いは私からした。ノエル様は家にも何度も来て、父に結婚の許しを求める前に、私へ結婚したいと言ってくださった。
返事をしたとき、二人とも途中で笑ってしまったことは、両親には詳しく話していない。
その日の集まりは、両家の家族と伯父母だけだった。
食事の前、ノエル様は私の隣で、いつになく背筋を伸ばしていた。何か忘れたのかと小さく尋ねると、彼は私のほうへ身をかがめた。
「いま、お話ししても?」
「もちろんです。私、先ほどから待っていました」
ノエル様が笑った。私の手へ自分の手を添え、皆のほうを向く。
彼が言葉を始める前に、私は一歩、彼と並ぶ位置へ出た。
「私たち、婚約しました」
声が、また重なった。
父が笑い、ノエル様のお母様が、息子から何度も伺っておりますと言った。母は私を見て頷き、伯母様は今度こそ、と両手を合わせた。
「おめでとう、アデル。おめでとうございます、ノエル様」
「ありがとうございます」
今度は、迷わず言えた。
隣のノエル様も同じ返事をしている。嬉しそうな声を聞いたら、顔を見ずにはいられなかった。彼もこちらを向いていて、目が合った瞬間、二人で笑った。
食卓へ移るまで手を離すのが惜しく、椅子へ座ってからも、私は少し彼のほうへ寄った。
「お祝いされるのは、お好きですか」
ノエル様が小さく尋ねた。
私は頷き、テーブルの下で、彼の指先へ触れた。
「あなたと一緒なら。まだ、何度でも言っていただきたいです」
彼は私の手を包み、誰にも見えないところで、嬉しそうに握り返した。
向かいの母から、何を話しているの、と声が飛んできた。私は顔を上げ、大好きな方と婚約できて嬉しいと話しています、と答えた。
ノエル様が赤くなった。
私はその顔を見て、いっそう幸せになった。今夜も、きっと帰る頃には頬が痛い。
笑うのを少し控えようかと思ったところで、彼が、僕も同じです、と皆に聞こえる声で言ったので、もう諦めて笑ってしまった。
面白かったら、評価・ブックマーク頂けるとうれしいです。




