第三章 氷の裁判官が見せる熱
汝は知るや。冷徹な仮面の奥底で、静かに狂い咲く執着の熱を。
ヴァルハイト公爵城の地下に設えられた、私専用の特別調合室。
無機質な石壁に囲まれた空間に、フラスコや硝子管が放つ澄んだ光と、薬品の独特な香りが満ちていた。
「エレノア、本当にその実験を自ら行う必要があるのか?」
腕を組み、実験台のすぐ脇で険しい表情を浮かべているのはルシアン様だ。
彼ほどの男が、私が試薬を混ぜ合わせる手元を片刻も逸らさず見つめている。その視線があまりに強烈で、指先に余計な力が入ってしまいそうだった。
「はい。密室殺人に使われたのは、熱によって気化し、体内で速やかに分解される特殊な『変性神経毒』です。被害者の遺服に残留した極微量の成分を再結晶化させなければ、法廷で裁判官(ルシアン様)を納得させる客観的証拠にはなりません」
「……証拠なら、私がお前の言葉をそのまま採用すれば済むことだ」
「それではダメです。あなた様の『絶対的な公平さ』に傷がつきます。私はあなた専属の鑑識官……あなたに泥を塗るような真似はさせません」
私がきっぱりと告げると、ルシアン様は息を呑み、薄い唇を強く結んだ。
氷の裁定者と呼ばれる彼が、私の言葉一つでこれほどまでに感情を揺らす。その事実が、胸の奥を甘く、くすぐったく締め付けた。
「……頑固な女だ。だが、万が一にもお前の身体に害が及ぶことだけは許さん」
「大丈夫です。薄めた抽出液に試薬を滴下するだけですから――」
私が硝子管から一滴、反応溶媒を落とした、その瞬間だった。
チリ、と小さな異音が鼓膜を打つ。
不純物の混入か、あるいは犯人が仕込んだ二重の仕掛けか――フラスコ内の液体が一瞬で黒く変色し、想定外の急激な発熱反応を起こした。
「……っ!? しまった、不純物による急激気化――!」
ポンッという鈍い破裂音とともに、フラスコから有毒な白煙が吹き上がった。
目の前が真っ白に染まり、危険を察知して息を止めようとした瞬間――。
「エレノア!!」
強い力で肩を抱き寄せられ、視界が激しく回転した。
ルシアン様が私の体を強引に抱き込み、自らの背中で爆ぜた薬品と煙を完全に遮断したのだ。
ドサリ、と重い音を立てて二人は床に倒れ込む。
私が庇われたのだと気づいた時には、ルシアン様が私の上に覆いかぶさる格好になっていた。
「ル、ルシアン様……! お怪我は!? 煙を吸い込んで……っ」
慌てて彼の顔を覗き込もうとしたが、私の首元に彼の額が力なく押し当てられた。
彼の荒い吐息が直接肌に吹きかかり、背中に回された腕が、あばら骨が痛むほど強く私を抱きしめる。
「……馬鹿者が」
低く、地鳴りのように響く掠れた声。
彼の体から、尋常ではない熱が伝わってくる。冷たいはずの「氷の公爵」の体温が、私を焼き尽くさんばかりに熱い。
「私の前で……二度と己の身を危険に晒すな」
「ルシアン様……手が、震えて……」
私の背中を抱きしめる彼の大きな手が、微かに、けれどはっきりと震えていた。
彼が顔を上げると、そこに広 me があったのは、いつもの冷徹な裁定者の顔ではなかった。乱れた漆黒の髪の間から覗く青い瞳には、露骨なまでの恐怖と、狂おしいほどの執着が煮煮たぎっていた。
「分かっていないな、エレノア。……お前が傷つくくらいなら、証拠などどうでもいい。私の地位も、誇りも、この命すらも……お前一人の命に比べれば無価値だ」
「な……何を、おっしゃって……」
「お前は私を公平だと言うが、今の私はお前に関してだけは一切の理性を失う。お前が奪われたら、私はこの世界ごとすべてを裁き、滅ぼしてしまうかもしれん」
息が詰まる。
それは、冷酷な公爵が初めて剥き出しにした、歪で、重すぎるほどの愛の告白だった。
ルシアン様の手が私の髪に指を絡め、ゆっくりと顔を近づけてくる。
逃げることなんて、最初から考えられなかった。彼の瞳に宿る熱に射抜かれたまま、私はただ吸い寄せられるように、彼の唇を受け入れていた。
重なる唇から伝わるのは、痺れるような熱と、押し殺していた感情の激流。
有毒な煙が換気口から抜けていく地下室で、私たちは互いの体温だけを確かめ合うように、深くて甘い接吻を交わし続けた。
「……汝、我が真実となれ。お前を失うことだけが、私の生涯唯一の敗北だ」
解き明かされる事件の裏で、氷の裁判官の心は、もう二度と元には戻らないほど熱く溶けていたのだった――。




