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王子様をお姫様だっこする最強令嬢 ~王太子殿下の理想の“強い女性”を目指して十年鍛えたら、大会を総なめしていました

作者: こはく
掲載日:2026/03/26

 婚約者の理想の女性になろうとして十年鍛えた結果、私は体術大会で優勝し、剣術試合で騎士を薙ぎ倒し、気づけばあらゆる大会を総なめにし、ついでに王太子殿下をお姫様抱っこで救出することになった。


 どうしてこうなったのか。


 話は十年前にさかのぼる。


 カリナ・フェルドールは、幼いころからまっすぐだった。


 そして、そのまっすぐさは時として、少々、いやかなり、とんでもない方向へ突き進む。


 たとえば、六歳のころ。

 王家によって婚約者に定められ、はじめて王城で王太子ルシアンと顔を合わせた日のことである。


 父には「緊張しても騒がず、勝手なことはせず、おとなしくしているように」と何度も念を押されていた。


 ところが、顔合わせの部屋へ向かう回廊で、前方の大きな窓が強風で音を立てて開いた。驚いた侍女が悲鳴を上げ、そのそばに飾られていた背丈ほどもある花瓶がぐらりと傾く。


 誰もが、割れる、と思った。


 だが次の瞬間、幼いカリナはとことこと前へ出て、両腕でその花瓶を支えていた。


「大丈夫ですか?」


 真剣な顔で侍女にそう言って、自分より大きな花瓶を押し戻す。

 周囲の大人たちが凍りつくなか、ただ一人、まだ幼い王太子ルシアンだけが目を丸くしていた。


 ルシアンは、淡い金の髪に、静かな青灰色の瞳をしていた。

 顔立ちは驚くほど整っていて、けれど鋭さよりも先に、やわらかな優しさが目を引く王子だった。


「……君が支えたの?」

「はい」

「重くなかった?」

「少し重かったですが、皆さまに当たったら危ないかと思いまして」


 そう言って、カリナは小さく首をかしげた。

 自分より大きな花瓶が倒れかけていたのに、まず気にしたのは周囲のことだったらしい。


 その時ルシアンは、幼いながらに、胸の奥がふっと熱くなるのを感じていた。


 けれど、その熱の正体が何なのか、まだ彼自身にもよくわかってはいなかった。


 それでも別れ際、ルシアンは不思議なくらい自然に言ったのだ。


「君みたいな人が、僕は好きだ。婚約者が君で、うれしい」

「……え?」

「強いのに、それを振りかざさないで、誰かのことを先に考えられる人。君は、きっとそういう人になるね」


 その言葉に、カリナの胸はとくんと跳ねた。


 君みたいな人が、僕は好き。


 その瞬間、幼いカリナの世界は、少しだけきらきらした。

 頬の奥が熱くて、胸が落ち着かなくて、どうしてだかわからないのに、もう少しだけこの人のそばにいたいと思った。


 ――たぶん、あれが初恋だった。


 王太子殿下のその一言は、幼い彼女の心に、あまりにも鮮やかに刻まれた。


 そして、運命を決定的に変えたのが、八歳の春だった。


 王城の庭園で開かれた小さな茶会のあと、カリナは花壇の向こうで、ルシアンが従兄弟の公爵子息たちと話しているのを偶然耳にした。


「殿下は、どのような女性がお好きなのです?」


 からかい半分、興味半分の問いに、まだ少年だったルシアンは少し困ったように微笑んだ。


「そうだな……可憐で守ってあげたくなるような方も素敵だけれど、僕は、強さを秘めた女性が好きだ。つらい時にもすぐ折れたりせず、自分の足でしっかり立てるような人がいいな」


 その場にいた令息たちは「殿下らしい」と微笑み、離れた場所にいた令嬢たちは頬を染めた。


 しかし、植え込みの陰でそれを聞いていたカリナの胸には、まったく別の意味で衝撃が走っていた。


 ――ルシアン殿下の理想の女性。


 それは。


 強さを秘めた女性。


 つらい時にも折れず。

 自分の足でしっかり立つ。


 ……体幹ですね。


 幼いカリナはそう理解した。


 なるほど、とカリナは思った。


 厳しい鍛錬の最中でも音を上げず、

 どれほど脚が震えても体幹を崩さず、

 最後まで自分の足で立ち続ける女性。

 しかも、それを他人に見せつけず、あくまで内に秘める。


 それが、ルシアン殿下の理想なのだ。


 なるほど。


 つまり、強くなれということだ。

 しかも、秘めなければならない。


 幼いカリナは、その場で固く決意した。


 大好きなルシアン殿下の理想の女性になる。

 絶対に、殿下の隣にふさわしい婚約者になる。


「承知しました、ルシアン殿下」


 誰にも聞こえないよう、小さく呟いて、ぎゅっと拳を握る。


 それから十年。

 カリナは王立高等学院に通う令嬢として、礼儀作法も舞踏も刺繍も完璧にこなしながら、裏では死ぬほど鍛えた。


 体術。剣術。護身術。体幹。持久力。反射神経。

 朝も夜も積み重ねた。


 手には豆。

 服に隠れる背や腕の内側には、薄い傷がいくつか残った。

 秘めるためにも、顔だけは絶対に傷つけないと決めていた。

 脚は長くしなやかに締まり、腰は強く、背筋は一本芯が通ったように伸びた。


 成長したカリナは、中肉中背で、女性としては平均よりやや背が高かった。

 無駄な筋肉で膨らませたのではなく、研ぎ澄ませた刃のような身体をしていた。

 顔立ちはきりりと端正で、華やかというより凛然。舞台に立てば男役すら似合いそうだと噂されるような、どこか凛々しい麗しさがある。

 髪は深い栗色。光を受けるとやわらかく艶を返し、まとめたときのうなじはすっきりと美しかった。立ち姿には妙な隙のなさがあった。


 鍛えれば鍛えるほど、理想へ近づいている気がした。


 ルシアンの優しさに触れるたび、カリナの想いは深くなり、そのぶん鍛錬にも熱が入った。


 たとえば、菓子を落としてしまった下働きの少女が青ざめていた時。

 ルシアンは誰にも気づかれぬよう自然に話題を変え、少女を叱責から庇った。

 そのさりげなさに胸を打たれた日のカリナは、いつもより庭を十周多く走った。


 たとえば、緊張で言葉に詰まったカリナを、ルシアンが急かさず、笑わず、ただ静かに待ってくれた時。

 最後まで聞いたうえで「君の言葉で聞けてよかった」と言ってくれたその日、カリナは木剣を握る時間を一刻増やした。


 たとえば、雨の日。

 庭師が濡れたまま働いているのを見て、ルシアンが自分の外套を迷いなく差し出していた時。

 王太子なのに、そういうところにためらいがないのだと知った日、カリナは体幹の鍛錬を倍にした。


 優しくて、穏やかで、少し頼りなく見えるほど物腰が柔らかいのに、他人を見捨てない。

 そういうところを知るたびに、もっと隣に相応しくなりたいと思った。


 婚約者として過ごす時間が増えるほど、その願いは切実になっていった。


 好きになるほど、鍛錬には拍車がかかった。


 名前を呼ばれた日は走り込みが増えた。

 優しく微笑まれた日は素振りが増えた。

 褒められた日は眠る前の体幹訓練が増えた。

 手を取られた日は筋力の鍛錬まで増えた。


 恋心とは、案外、筋肉に出るものなのかもしれないと、カリナはわりと本気で思っていた。


 剣術を教えた歴戦の老騎士は、ある日、額の汗を拭いながら唸った。


「お嬢様は筋が良すぎる。剣を教えておるつもりが、時々こちらが教えられておる気分になるわい」


 体術の師である元傭兵隊長の女性は、訓練のあとに肩をすくめた。


「カリナ様、あなた令嬢にしておくの、だいぶ国の損失ですよ」


 護身術を見てくれていた百戦錬磨の神官騎士は、ため息交じりに十字を切った。


「できれば一生、あなたに襲われる側には回りたくありません」


 だが、カリナは真剣な顔で頷くだけだった。


 すべては、強さを秘めた女性になるためである。


 とはいえ、あくまで秘める。

 なぜなら殿下は、「強さを秘めた女性」がお好きだからである。


 ゆえにカリナは、特に殿下の前では、うっかり怪力を見せそうになるたびに気をつけた。

 重い荷物を片手で持ちそうになれば、慌てて両手に持ち替える。

 落ちてくる花瓶は、見ないふりをしながらぎりぎりで受け止める。

 階段を踏み外しかければ、本来なら回転着地できるところを、必死で淑女らしく持ち直す。


 ――もっとも、すべてを隠し通せていたわけではない。


 王立高等学院の庭園の池のほとりで、侯爵令嬢セシルたちがカリナを取り囲んだ日のことだ。


 理由は単純である。

 カリナへの妬みだった。


 王太子の婚約者。

 穏やかで美しいルシアンの隣に立つ令嬢。

 しかも最近では、何かと王太子の視線がカリナへ向いているように見える。

 それが面白くなかった。


「まあ、カリナ様。足元に気をつけませんと」


 にこやかな声とともに、池に向かって背を押される。


 だが、カリナはびくともしなかった。


 そよ風でも吹いたのかと思う程度だった。

 十年鍛えた体幹にとって、令嬢の一押しなど、春先の弱い風圧にも及ばない。


 むしろ押した側のセシルのほうが体勢を崩し、きゃっと悲鳴を上げて池へ落ちかける。


 反射でカリナの腕が動いた。


「危ないですよ」


 ひょい。


 次の瞬間、セシルは池に落ちる代わりに、カリナの腕の中にいた。

 しかも見事なお姫様だっこで。


「…………」


「ご無事でよかったです」


 至近距離で、涼しい顔のままそう言われ、セシルは真っ赤になった。


 周囲の令嬢たちがざわつく。


「今、片腕で抱き上げましてよね……?」

「しかもあの近さで、髪ひとすじ乱れませんでしたわ……」

「待ってくださいまし、心の準備ができておりませんのに」

「だめですわ、あれは反則です……胸がもちません……」


 その日を境に、嫌がらせの空気は妙に変わり始めた。


 階段で足を引っかけられれば、カリナはくるりと軽やかに一段下へ着地し、振り返ってにこりと笑う。


「ここは危険ですね」


 そう言って、逆に足を滑らせかけた相手へすっと手を差し出し、まるで淑女をエスコートする騎士のように支えた。

 エスコートされた令嬢は頬を真っ赤にしたまま、しばらくその場を動けなかった。


 冬の学院庭園でコートを隠されても「意外と平気です」と平然として、寒さに震えていた相手にさらに自分の上着をかけた。

 かけられた令嬢はその場で言葉を失い、立ち尽くしたまま耳まで真っ赤になった。

 後日「汚してしまったので、代わりに」と新しい上等な外套を贈ってきた。

 なお、返しそびれた元の上着は、しわひとつなく整えられた上で密かに額装されたとか、されなかったとか。


 花瓶を落とされれば、片手で受け止めて花を傷めぬようそっと卓へ戻した。

 その時に生けられていた花は、後に押し花にされ、令嬢たちの間でひそかに出回ったという。


 回廊で令嬢が上級生の子息にしつこく絡まれていれば、静かに間へ入り、「お困りのようです」とやんわり、だがまったく退けない圧で助けた。

 助けられた令嬢はもちろん、その場で圧倒された子息まで妙に落ち着かない顔をして、その後しばらくカリナの後ろ姿を二人して目で追うようになった。


 セシルたちは最初こそ悔しがっていたが、いくらも経たないうちに、お茶会のたびにこそこそと囁き合うようになった。


「今日の立ち姿、ご覧になって?」

「見ましたわ。完璧でしたわね。あまりに絵になっていて、絵師を呼びたくなりましたわ」

「先日の回転着地も……」

「おやめになって。思い出すだけで胸が騒ぎますの」

「わたくし、昨夜も反芻してしまいましたわ」

「ずるいですわ。そういう尊い記憶はきちんと共有していただかないと」


 気づけば、カリナの周囲には“凛花会”なるものができていた。

 表向きは淑女の親睦会。

 実態はカリナをひそかに見守り、尊び、勇姿を語り合う会である。

 令嬢たちの間では、ひそかに姿絵が描かれ、しおりや小箱にその横顔を写した意匠が出回り、静かな人気を博していたらしい。


 だがカリナ本人はまるで気づかず、婚約者であるルシアンにどうすればもっと見合う女性になれるか、そればかり考えていた。


 そして十八歳の春。

 カリナの十年をひっくり返す事件が起きる。


 王城の回廊を歩いていた彼女は、角の向こうからルシアンの声を聞いた。

 側近候補たちと話しているらしい。


「殿下は、やはり芯のある女性がお好きなのですか」


「ああ。精神的な強さを内に秘めた人がいいな。つらい時にも折れず、自分を見失わず、感情に呑まれて誰かを傷つけたりせず、自分の足で立てるような人が好きだ。そういう方を、尊敬する」


 カリナの足が止まる。


 精神的な強さを内に秘めた女性。


 肉体的な強さではなく、精神的な強さ。

 その言葉が、遅れて胸の奥へ落ちてきた。


 カリナの世界が、すっと静かになった。


 では私は。

 私は十年間、いったい何をしていたのだろう。


 ルシアン殿下の理想の婚約者になるためにやってきた

 体術も剣術も体幹も、全部、違ったのではないか。

 肉体的な強さを秘めることばかり考えて、肝心の意味を取り違えていたのではないか。


「……そうだったのですね」


 誰にも聞こえないほど小さく呟いて、カリナはその場を去った。


 数日後、彼女はルシアンに頭を下げた。


「殿下。私は、殿下のお隣に立つにふさわしい女性にはなれませんでした。ですから……婚約の解消をご検討ください」


 穏やかなルシアンの顔が、珍しく固まった。


「どうして、そう思うの」


「詳しくは申し上げられません。ですが、私がこれ以上お隣にいるべきではないのです」

「それは、君の気持ちがもう僕のところにない、という意味?」

「……殿下」

「違うなら、そう言ってほしい」

「私は……殿下の思うような女性には、なれませんでした」


 まっすぐに言われて、ルシアンはかえって言葉を失った。


 近頃、カリナが騎士団関係者と親しいという噂を耳にしていた。

 放課後、訓練場近くで熱心に言葉を交わしていたことがある。

 騎士団の若手と並んで歩いていたのを見た者もいる。

 そんな断片ばかりが胸を刺す。


 けれど、カリナが人知れず何かを積み重ねていること自体は、前から薄々気づいていた。


 茶会でふと触れた指先が、思ったより少しだけ硬かったことがある。

 長く立っていても、姿勢が少しも崩れない。

 何気なく身をひるがえした時、妙に隙のない動きをしたこともあった。


 何をしているのか、気にならなかったわけではない。

 けれど彼女が自分から語らないのなら、無理に聞くつもりはなかった。

 婚約者であっても、踏み込ませたくない領域くらいあるだろうと、ルシアンは思っていた。


 そこまで言うということは、もしかしたら彼女には別に心に決めた相手がいるのだろうか、と胸の奥が冷えた。


「……わかった。すぐには答えられない。いったん持ち帰らせてほしい」


「はい」


 その後、ルシアンは苦しんだ。


 はじめて会った日のことを思い出す。

 自分より大きな花瓶に迷いなく駆け寄った小さな少女。

 危ないからと動いた、あのまっすぐさ。

 茶会のたびに一生懸命で、少しずれていて、でも誰かのために迷わず頑張れるところ。

 そこが、ずっと好きだった。


 もしカリナが本当に別の誰かを愛しているなら、その幸せを願うべきではないか。

 けれど、手放したくない。

 彼女がいない未来など、考えたくもない。


 一方カリナは、婚約解消を申し出たことで、ふと肩の力が抜けた。


 ――もう、強さを秘める必要はないのでは?


 そう気づいた彼女は、以後少し自然体になった。


 すると、王都で開かれた春季武芸競技会の体術大会で優勝した。

 決勝で地面に倒れた猛者が、仰向けのままカリナを見上げて呟く。


「あなた……まさか、武神マルスの生まれ変わりでは……?」


 さらに親善剣術試合でも並みの騎士をなぎ倒した。

 最後に木剣を落とした相手が、半泣きでその場にひざまずく。


「弟子にしてください、カリナ様……! いえ、ご指南だけでも……!」


 ついでに春季馬術競技会でも、白馬を駆って優勝した。


 障害を越えるたび、深い栗色の髪が風に舞う。

 まっすぐ前を見据えて手綱をさばく姿は、あまりにも鮮やかで、もはや令嬢というより若き騎士のようだった。


 最後の柵を飛び越えた瞬間、白馬の背で静かに身を起こしたカリナの姿に、観客席は一瞬しんと静まり返った。

 その直後、悲鳴のような歓声が上がる。


「白馬に乗ったカリナ様が、あまりにも神々しすぎて、しばらく息ができませんでしたわ……」


 しかも、それだけでは終わらなかった。

 その勢いのまま、なぜか弓術競技でも優勝した。

 放たれた矢はすべて吸い込まれるように的の中心へ突き立ち、審判が二度見したほどである。


 令嬢たちはますます瞳を輝かせた。


「カリナ様、素敵……」

「もはや殿方より殿方では……」

「いえ、あの可憐さであの強さ。新時代ですわ」

「国宝ではなくて?」


 ルシアンは頭を抱えた。

 婚約解消を願われただけでもつらいのに、知らなかった彼女が次々現れる。

 体術に剣術、馬術に弓術。

 気づけば彼女は、武芸競技の類をことごとく総なめにしていた。

 しかもそのどの姿も、どうしようもなく魅力的だった。


 そんなある日、王太子ルシアンが視察先で賊に攫われた。


 薄暗い倉庫に縛られたルシアンは、静かに息を吐いた。

 両手首は荒い縄で柱に固定され、足元には抜き身の短剣が転がっている。

 賊たちは、夜明け前には始末してしまえばよいと、隠しもせず話していた。


 時間を稼ぎ、隙を探る。

 しかし護衛たちは賊に分断され、この場にいる見張りは五人。

 このままでは、本当に朝を迎えられないかもしれなかった。


 その時だった。


 ばんっ、と扉が蹴破られた。


 木片が飛び散る。

 逆光の中に立っていたのは、しなやかな体つきの一人の令嬢。


「少々遅れました、殿下」


「……カリナ?」


 賊たちが笑った。


「女が一人で何を――」


 最後まで言えなかった。


 カリナが一歩踏み込んだ瞬間、最前列の男が床に沈んだ。

 息を呑む間もなく、二人目の腕がねじ上げられ、音もなく投げ飛ばされる。

 さらに踏み込む。深い栗色の髪がふわりと舞い、裾が花びらのような弧を描いた。


 その足運びは、まるで舞台の上の舞のように軽やかだった。

 ひとたび爪先が床を払えば、そこにあったはずの距離がするりとほどけて消える。

 しなやかにひねられた腰から、まっすぐに拳が走る。

 優美ですらある動きの中で、その一撃だけがひどく鮮やかで、迷いなく急所を射抜いた。


 三人目は蹴りで壁へ叩きつけられた。

 四人目は振り上げた腕を取られ、そのまま体勢を崩して床へ沈む。

 最後の一人が息を呑んで後ずさった時には、もう遅かった。踏み込んだカリナの拳が、ためらいなくその鳩尾を打ち抜く。


 髪が舞う。

 足が舞う。

 そのたびに視線を奪われ、見惚れているうちに、五人の賊はすべて床に沈んでいた。


 美しかった。

 思わず息を呑むほどに。

 けれど、それは人を魅せるための美ではない。

 すべてが、最短で相手を制圧するためだけに磨き上げられた、花のように華やかで、刃のように冴えた美しさだった。


 あっという間に五人の賊を制圧すると、カリナはルシアンの前に膝をついた。


「ご無事ですか」


「……ある意味、今、一番心にきている」


「はい?」


「いや、なんでもない」


 縄を解いたあと、カリナはルシアンの腕を取った。


「もう大丈夫です、殿下。私が参りました」


 低くきっぱりと言い切られて、再びルシアンの胸がどくりと鳴った。


「うっ……心臓が……」


 すぐさまカリナの顔色が変わる。


「殿下、心臓が!? 一大事! ご無礼いたします!」


「え、ちょっ――」


 次の瞬間、ルシアンはお姫様抱っこされていた。


「失礼いたします。搬送は迅速に行うべきかと」

「待って、カリナ、身がもたない」

「!? やはりお身体にお怪我を……!?」

「そういう意味ではなく……!」


 顔を真っ赤にして両手で顔を覆うルシアンを抱えたまま、カリナは真剣そのものだった。


 彼女はずっとこんな強さを抱えていたのか。

 それを隠して、自分の隣に立とうとしてくれていたのか。


 手のひらの豆も、妙に隙のない立ち姿も、時折ひやりとするほど鋭い身のこなしも、全部これだったのか。


 胸の奥で、何かが決まった。


 無事に城へ戻ったその夜、ルシアンはカリナを呼び止めた。


「待って。話を聞いてほしい」


 カリナが足を止める。


「君の気持ちを尊重しようと思った。本当に君に想う相手がいるなら、その人と幸せになってほしいとも考えた。だから婚約解消も、真剣に検討した」


「殿下……」


「でも、やっぱり無理だ」


 ルシアンは一歩近づいた。

 普段は柔らかく穏やかな彼が、珍しくはっきりとした目をしている。


「幼い頃、花瓶を支えた君を見た時から、すでに僕は君に惹かれていたんだ」

「……え?」

「まっすぐで、素直で、少しずれていて、とても可愛い君が好きだった」

「少しずれていて、ですか」

「そこも含めて」

「……はい」

「そして今日、強くて、たくましくて、誰かを守るために迷わず前に出る君を見ても、やっぱり好きだと思った」


 カリナが目を見開く。


「君は、まるで騎士のようだな」


「ナイト、ですか」


「ああ。誰より勇敢で、誰より真っすぐだ」


 ルシアンは息を吸い、言った。


「だから僕も、君に見合う男になりたい。次は、君ばかりに戦わせない」


 カリナの喉が小さく動く。


「……ですが私は、殿下のお望みの“精神的に強い女性”には」


「何を言うんだ」


 珍しく食い気味に否定され、カリナはきょとんとした。


「君は、前からずっと強い人だよ。苦しいことがあっても誰かを責めたりせず、取り乱しもせず、自分で考えて立っていようとした。それを精神的に強いと言わずに、何と言うんだ」


 言われて、カリナはしばらく黙った。


 やがて小さく、しかしはっきりと問う。


「では……婚約解消は」


「認めない」


 即答だった。


「そんな」


「君が嫌だと言っても、そこは譲れない」


「殿下は押しに弱い方かと思っておりました」


「普段はそうかもしれない。でも、これだけは譲れない」


 その頑固さに、カリナはようやくふっと笑った。


「では、撤回いたします」


「本当に?」


「はい。ただし」


「ただし?」


「明日から朝の鍛錬にご参加ください。私に見合う男を目指すのでしょう?」


 ルシアンは数秒、固まった。

 そして苦笑する。


「……君は本当に、可愛い脳筋だな」


「はい?」

「いや、好きだという意味だ」


 翌朝、王太子が王城の中庭を涙目で走らされているのを見て、凛花会の令嬢たちは深く頷いたという。


「やはり、カリナ様のお隣に立つにはあれくらい必要ですわね」

「ええ。殿下、どうか頑張っていただきたいですわ」


 そして当のカリナは、朝日を浴びながら振り返り、少し息の上がった婚約者へ手を差し伸べた。


「殿下。まずは体幹からです」


 その笑顔が可愛くて、強くて、眩しくて。


 ルシアンはやっぱり、どうしようもなく彼女が好きだと思った。

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