下校の車窓から
「ねえ、君はあそこに座れる?」
帰りの電車。
つり革につかまって揺られていると、隣で先輩がぽつりと言った。
視線の先を追うと、ドア横の端っこに「優先席」のステッカー。
今、そこは一つだけぽっかり空いている。
「……座ろうと思えば座れますけど」
「“思えば”ね」
先輩は少し笑って、ステッカーを顎で指した。
「じゃあ質問を変えよう。君は“座りたい”? それとも“座るべきじゃない”って感じ?」
いきなり面倒くさい二択を押しつけられた気がした。
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「正直に言うと、ちょっと座りたいですけど」
「けど?」
「けど、優先席なんでやめておきます」
「出た、“なんでやめておきます”」
先輩は楽しそうに目を細める。
「君みたいなタイプ、絶対にいると思ってた」
「悪い意味ですか、それ」
「悪くないよ。むしろ一番多いんじゃないかな。“本当は座りたいけど、座ったら悪い気がするからやめておく人”」
「まあ……そうかもしれません」
僕はステッカーを見つめる。
『お年寄りや体の不自由な方、妊娠中の方、小さなお子様連れの方などに席をお譲りください』
いつも見慣れている文言だが、先輩に指摘されると、急にそこだけ浮き出たみたいに目に入ってくる。
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「ところでさ」
先輩が続ける。
「優先席って、“だれのため”の席だと思う?」
「さっき書いてあった人たちのためじゃないですか」
「そう。“書いてあった人たち”。じゃあその人たちが乗ってない間は?」
「……普通に座っていいと思いますけど」
「でも君は座らない」
「……そこを突かれると弱いですね」
先輩は小さく肩をすくめた。
「私はさ、“優先席に座らない人”を見ると、ちょっと面白いなって思うんだよね」
「面白い?」
「うん。だって、どう見ても今日は空いてるんだよ。だけど“自分が座ったら怒られるかも”って、誰もいない“誰か”を怖がってる」
「誰もいない誰か、ですか」
「そう。実際に注意されるかどうかじゃなくて、“後ろめたさ”のほうを気にしてる感じ」
図星すぎて返しづらい。
「でも実際、優先席でスマホいじりながら爆睡してる若い人とか見ると、
“おいおい”って思いませんか」
僕は反撃に出る。
「思うねえ」
先輩はあっさり認めた。
「思うけどさ、それは“座ってるから”じゃなくて、“譲る気ゼロに見える態度”が透けてるからじゃない?」
「態度、ですか」
「うん。優先席ってラベルそのものより、周りが“どういう空き方・どういう座られ方をしてるか”で印象変わるじゃん」
先輩はつり革から手を離さないまま、ちらりと周囲を見渡す。
「今はさ、お年寄りも妊婦さんも、小さい子もいない。座ってた人たちは、みんなそれなりに静かにしてる。この状況で、君がちょこんと座ったところで、誰が被害を受けるのかなって思うわけ」
「……被害、というほどのものは確かにないかもですね」
「でしょ」
「じゃあ先輩は座らないんですか?」
僕が聞くと、先輩はすぐさま首を振った。
「私は立つよ」
「さっきの理屈、どこ行きました」
「理屈は理屈。気分は気分」
あっけらかんと言う。
「私も君と同じで、あそこに座ったときに向けられる“なんとなくの視線”がめんどくさいんだよね。“あれ、若いのに優先席座ってるな”みたいな」
「やっぱり気にしてるじゃないですか」
「うん、気にしてる。だからこそ、“優先席ってよくできた装置だなあ”って思うのよ」
「よくできた装置?」
「だってさ」
先輩はステッカーを改めて見やる。
「“ここは特定の人を優先する席です”ってラベルを貼るだけで、“座ってもいいけど、いつでも罪悪感は発生しうる場所”ができる」
「罪悪感前提の席って言い方、やめてください」
「でも、そうじゃない?」
先輩は楽しそうに続ける。
「“必要な人が来たら譲るべきだ”ってルールは建前として正しい。だけど、実際には“必要そうかどうか”をこっちが判断しないといけない」
「たしかに、“この人は対象なのかどうか”って、瞬間的に考えますね」
「でしょ。しかも、その判断に絶対の基準はない。見た目で分からない障がいもあるし、妊娠初期なんて外から全然分からない」
「だから“見た目で判断するべきじゃない”ってことになりますけど」
「でも現実には“見た目”でしか判断できない。そこに、“正しさ”と“遠慮”がごちゃっと絡む」
先輩は、わざとらしくため息をついた。
「結果、“よくわからないから最初から座らないでおこう”って人が増える。
君みたいに」
「否定できないのが悔しいですね」
「でも」
僕は少し考えながら言う。
「優先席に健康そうな人がずっと座ってて、明らかにしんどそうな人が近くに立ってるのって、やっぱりモヤっとしません?」
「するね」
先輩はすぐにうなずく。
「“譲らないほうが悪い”って思っちゃう?」
「……思います」
「それはまあ、自然な反応だと思うよ」
先輩は少し真面目な声になる。
「問題はさ、“誰かが立たされていること”じゃなくて、“譲れるはずの人が譲ろうとしていない態度”じゃないかな」
「つまり、座ってること自体が悪いんじゃなくて、状況が変わったときに動かないのが問題だと」
「そうそう。優先席って、“ここに座るな”じゃなくて、“ここにいる人は、状況を気にしてくれ”っていうお願いなんだと思うんだよね」
「じゃあ、座ればいいんですかね、さっきから」
僕は空いている一人分のスペースを見やる。
「“状況を気にする人”なら座ってもいい?」
「少なくとも、“誰が来ても絶対譲りません”って人よりはマシだと思うよ」
先輩はふっと笑う。
「ただ、さっきも言ったけど、それとは別に“周りの目が面倒くさい”っていう問題がぶら下がってる」
「見えない正義マンが怖い問題ですね」
「そう、それ」
先輩はしみじみとうなずく。
「本当に困ってる人がいないときでも、“優先席に座ってスマホいじってる若者”っていう図そのものに、勝手に意味が生まれてしまう」
「写真撮られてSNSに上げられそうなイメージありますもんね」
「そうそう。“マナーの悪い若者”ってラベリングされる」
ステッカーの横に、さらに目に見えないラベルが貼られる感じだ。
「結局さ」
先輩はつり革を持ち直しながら言う。
「優先席って、“弱い人を守る仕組みというより、“周りの人間に“お前はどうするんだ”って問いを突きつける場所”なんだと思う」
「問い、ですか」
「うん。立ってても座ってても、“それでいいの?”って、誰かに見られてる気がする」
「見られてるというより、自分で自分を見てる感じもしますけど」
「それ、いい言い方だね」
先輩は少し笑った。
「もしかしたら、“正しさvs遠慮”って、外からの圧より、自分の中の目線がきついのかもね」
「自分で自分に優しくないってやつですか」
「そう。君とか、特にね」
いちいち刺さる。
次の駅で、目の前の席のおばあさんが立ち上がり、降りていった。
優先席は二つ分、ぽっかり空いた。
少し間をおいてから、先輩が言った。
「……座ってみる?」
「え、先輩がですか?」
「ううん、君が」
「急に実験台にしないでください」
「いいじゃん。もし本当に必要そうな人が乗ってきたら、君なら譲るでしょ」
「まあ、譲りますけど」
「だったら、座ってても座ってなくても、やることはそんなに変わらないんじゃない?」
言われてみれば、その通りだ。
少しだけ迷ったあとで、僕は空いた優先席の端にそっと腰を下ろした。
周りの視線が一斉に刺さる……ということもなく、車内はさっきと変わらず、揺れているだけだ。
「どう?」
先輩が小声で聞いてくる。
「……思ったほど、何も起きませんね」
「だいたいそういうもんだよ」
先輩は立ったまま、ちらりと車内を見渡した。
「“いつでも立てる準備をしておく”っていう意識さえあれば、座るか立つかはそんな重大な違いじゃないのかもね」
「それを言い切るには、まだちょっとドキドキしますけど」
「そのドキドキ込みで、“優先席”なんじゃない?」
先輩はそう言って、ドア上の路線図に目をやった。
次の駅まで、少し時間がある。
僕はなんとなく、足元のステッカーを見下ろした。
“優先席”というラベルと、そこに座っている“自分”というラベル。
どちらも、そんなに重くないのかもしれないし、思っている以上に、重く受け取っていたのかもしれない。
こんな取りとめのないことを考えながら、僕たちは揺れる車内で次の駅を待った。




