あたたかい/つめたい戦争
「先輩、また変なこと考えてません?」
コンビニの角を曲がったところにある自販機の前で、先輩が立ち止まった。
赤と青のランプがずらっと並んでいて、上には「あたたかい」「つめたい」の表示。
先輩はそれをじっと眺めている。
「変って言うのは失礼じゃないかな。ちゃんとした疑問だよ」
「じゃあ、そのちゃんとした疑問ってなんですか」
「これさ」
先輩は指先で、自販機の「あたたかい」の表示を軽くつつく。
「この“あたたかい/つめたい”って、誰の基準なんだろうね、って」
「ああ……そういう方向ですか」
また面倒くさいスイッチが入ったようだ。
「僕らの感覚じゃないんですか? 普通に考えて」
「“普通に考えて”が一番怪しいんだよねえ」
先輩はそう言って、少し楽しそうに笑った。
「例えばさ」
先輩は自販機から半歩離れて、全体を眺めるみたいに視線を滑らせる。
「今は冬だから“あたたかい”側のランプが多いけど、これってメーカーかお店か知らないけど、とにかく誰かが『このくらいの温度なら、みんな“あたたかい”って思うでしょ』って決めてるわけじゃん」
「まあ、そうですね」
「でもさ、人によって“あたたかい”の感覚って違うじゃない?」
「熱いお茶が好きな人もいれば、ぬるいのが好きな人もいる、みたいな」
「そうそう。猫舌の人からしたら“あつい”は“危険”だしね」
先輩は、青い「つめたい」の方を指さした。
「“つめたい”のほうもそう。夏にキンキンのジュース飲みたい人と、そこまで冷えてなくていい人がいる。でも、この自販機の中では『はい、これが“つめたい”ね』って、一種類しかない」
「厳密に言い出したらキリがないですよ。みんながバラバラの温度を要求したら、商売にならないですし」
「だから“提供される感覚”を、だれかが決めるしかないんだろうね」
「提供される……感覚?」
「うん。缶コーヒーそのものだけじゃなくて、“それを飲んだときに君がどう感じるべきか”、まとめて売ってる感じ」
「ちょっと話が飛びましたね」
僕は一応ツッコミを入れる。
「飲み物だけじゃなくて、その温度に対する“感じ方”まで売ってるって、どういうことですか」
「そんなに変なこと言ってるつもりはないんだけど」
先輩は自販機の表示をもう一度見上げる。
「ほら、“あたたかい缶コーヒーを飲んでホッとひと息”って、よくあるじゃん。あれって、“このくらいの温度なら安心できるよね”っていう、経験のテンプレートを一緒に渡してるんだと思うんだよね」
「テンプレート」
「うん。本当は人によって、今日は熱いのが飲みたい日もあれば、ぬるいのがちょうどいい日もあるはずでしょ。でも自販機の前に立ったとき、そんなに細かく自分の気分を確かめないじゃない」
「たしかに、『あ、あったかいの飲みたいな』くらいですね」
「そう。だから“あたたかい”ってランプが光ってると、自分の方の感覚をその表示に合わせちゃうんだよ。『今日はこれくらいの温度で満足することにしよう』って、無意識に」
「……それ、ちょっと怖い言い方ですね」
「怖いってほどでもないよ。ただ、“あたたかさ”っていう体験のほうが、自分の内側じゃなくて、自販機の側から先に提示されてるのが面白いなって」
「じゃあ先輩は、自販機に温度を決められるのが嫌なんですか?」
「嫌ってわけじゃないかな。私も普通に買うし」
先輩は肩をすくめる。
「ただ、“あたたかい/つめたい”って表示を見た瞬間に、こっちの感覚のほうを自動的に調整してしまうのが、ちょっと不思議だと思わない?」
「どういう意味です?」
「たとえばさ」
先輩は、自販機の赤い「あたたかい」の文字を指差す。
「ここに“あたたかい”って書いてある缶コーヒーが、実際にはちょっとぬるかったとするじゃない」
「ありますね、たまに。ぬるいホット」
「そのとき、どう思う?」
「まあ、ちょっとガッカリします。“あれ、なんか微妙だな”って」
「“あたたかいって書いてあるくせに、この程度かよ”みたいな?」
「そんな言い方はしませんけど……まあ、近いです」
「でしょ」
先輩はうなずく。
「つまり、飲む前からもう“基準”を受け入れてるわけ。『ここにあるホットは、こういう感じのホットであるべきだ』って」
「……たしかに、ちょっとそうかもしれません」
「逆に言えば、“あたたかいって書いてあるから、このくらいの温度で満足するべきだ”って、こっちのほうが調整されてしまうこともある」
「本当はもっと熱いほうが好きなのに、“まあ自販機だし、こんなもんか”って納得しちゃう感じですか」
「そうそう。“あたたかさ”っていう主観的な体験が、自販機側であらかじめパッケージにされてるというかね」
「でも、それって悪いことなんですかね」
僕は少し考えてから言う。
「だって、どこかで基準が決まってないと、いちいち『今日は何度がいいかな』なんて考えないといけなくなりますし」
「悪いとは言ってないよ」
先輩はあっさり首を振る。
「世の中、大半のことは“ある程度のところで決め打ち”してくれたほうが楽だし。わざわざ一人ひとりに最適な温度を合わせてくれなんて、現実的じゃないでしょ」
「ですよね」
「ただ、“自分の感覚”だと思っているもののなかに、最初から“誰かが決めた感覚”が混ざってるっていうのが、ちょっとおもしろいなと思っただけ」
「誰かが決めた感覚」
「うん。この自販機を作った人とか、設定温度を決めた人とか、『日本人ならこのくらいがちょうどいいでしょ』って統計を取った人とか。そういう“見知らぬ誰かの平均値”が、“あたたかい/つめたい”になってるわけ」
そう言われると、この自販機が急に“誰かの考えの結果”に見えてくる。
「つまり先輩は、自販機に温度を決められてるんじゃなくて、“誰かの感覚の平均みたいなものを飲まされてる”って言いたいんですか」
「言い方がちょっと物騒だけど、概ねそうだね」
先輩は少し笑った。
「もちろん、それで充分幸せならそれでいいと思う。“あったか〜い”って思いながら飲めるなら、それで十分だし」
「じゃあ、先輩はどうしたいんですか」
僕は聞いてみた。
「自販機の前で、『今日の僕の“あたたかい”は何度かな』って考えたいタイプですか」
「いや、それはそれで面倒くさいかな」
即答だった。
「たださ。ときどきでいいから、“今、自分は本当にあったかいものが欲しいのか、それとも冷たいものが欲しいのか”くらいは、自分に聞いてもいいかもね、って思うだけ」
「それ、自販機いります?」
「いるよ。自販機は“選択肢の棚”としては優秀なんだから」
先輩は「あたたかい」と「つめたい」がぎっしり並んだ列を眺める。
「ほら。ここに並んでるのは、どれも“誰かが用意したあたたかさ/つめたさ”だけど、その中からどれを選ぶかくらいは、自分で決められるじゃん」
「まあ、それはそうですね」
「だったら、せめてその瞬間くらい、“自分は何を飲みたいのか”をちゃんと考えてみるのも悪くないかなって」
先輩はそう言って、すっと百円玉を取り出した。
「で、先輩は今日はどっちなんですか」
僕がそう言うと、先輩は「あたたかい」の列と「つめたい」の列をしばらく行ったり来たりしてから、ぽちりと赤いボタンを押した。
「あたたかいココア、かな。今日は」
「“誰かの平均的ココア”ですね」
「そうだね。でも、今は“平均的”くらいがちょうどいい気分なんだよ」
出てきた缶を両手で包みながら、先輩は続ける。
「本当に疲れてるときとか、どうでもいいことで悩んだ後とか、“自分だけの特別な何か”より、“だいたいみんなこういうので落ち着いてるんだろうな”って温度のほうが、安心できることもあるじゃん」
「……それは、なんとなく分かります」
「でしょ」
先輩は缶を一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「こうやって『あたたかい』って書かれたものを飲んで、“ああ、あったかいな”って言えるうちは、まあ大丈夫かなって思えるしね」
「じゃあ、僕も何か買いますか」
僕は「つめたい」の列の中から炭酸を選びながら言う。
「先輩の話を聞いてると、逆に“ちゃんと冷たいもの”を飲みたくなりました」
「ちゃんと冷たいかどうか、後で感想聞かせてよ」
そんなやり取りをして、僕も缶を開ける。
喉を通る炭酸は、たしかに“そこそこ冷たい”くらいで、キンキンというほどではなかったけれど、不思議とそれで十分な気がした。
こんなとりとめのない会話をして、自販機の明かりを背に、僕たちはいつもの帰り道を歩き出した。




