悪・即・何?
「ねえ、君さ」
商店街の角を曲がったところで、先輩が急に立ち止まった。
コンビニの前のワイドショー付きモニターをじっと見ている。
『人気インフルエンサー、脱税の疑い──』
「悪いことだから犯罪なのか、犯罪だから悪いことなのか。どっちだと思う?」
今日もいつもの発作がはじまった。
「……帰り道で考えるテーマの重さじゃないですよ、それ」
「帰り道じゃなかったらどこで考えるのさ。教室で言ったら先生に変な目で見られるでしょ」
それは否定できない。
「で、君はどっち派?“悪いことを集めて法律にした”派か、“法律に書かれたから悪いことだ”派か」
「二択にされましても」
「いいじゃん、直感で」
先輩は楽しそうだ。
「どっちかというと……悪いことだから犯罪になる、ですかね。みんなが『これはダメだ』って思うことを、法律にした感じで」
「ふむ。教科書的にはきれいな答え」
先輩は少しだけ頷いてから、口角を上げた。
「でもさ、その理屈でいくと、“悪いけど犯罪じゃないこと”って、あんまり存在しないことにならない?」
◇ ◇ ◇
コンビニの脇を歩きながら、先輩が指を折っていく。
「例えばさ。友達のノート、写真撮らせてもらって丸写しするとか」
「いきなり身に覚えのありそうな例を出さないでください」
「それ、悪いと思う?」
「……あんまり褒められたことじゃないですけど、犯罪とまでは言えない気がします」
「でしょ。他にも、“その人が傷つくって分かってて、わざときつい一言を言う”とかさ」
「うわ、そっちのほうが嫌ですね」
「人としてはだいぶ悪いけど、警察が来るかって言われたら来ないじゃん」
「来ないですね」
「ということは、“悪いこと”の中でも、法律はごく一部しか拾ってないってことにならない?」
「……まあ、そうですね。たしかに」
「じゃあ逆に」
先輩は今度は逆向きに指を折る。
「“悪くないのに犯罪になっちゃうこと”って、何か思いつく?」
「悪くないのに、ですか」
歩きながら考える。
「赤信号の横断とかは……危ないから、まあ悪い側ですもんね」
「状況によるけどね。夜中に誰もいない横断歩道で、車も来てないときに、ちょっと走って渡るとか」
「それ、完全にやったことあります」
「でしょ。あれ、法律的にはアウトっぽいけど、“人として絶対に許されない”ってほどではない気もする」
「うーん……」
たしかに、「死ぬほど悪い」とまでは思っていなかった自分がいる。
◇ ◇ ◇
「整理するとさ」
先輩は、スマホのメモ画面を出して、簡単な表を書き始めた。
「“悪い/悪くない”と、“犯罪/犯罪じゃない”を組み合わせると、こんな四つができるわけだ」
画面には、簡単な四象限の図。
1.悪い & 犯罪
2.悪い & 犯罪じゃない
3.悪くない & 犯罪
4.悪くない & 犯罪じゃない
「①は分かりやすいよね。万引きとか暴力とか、典型的なやつ」
「完全にアウトですね」
「④も分かりやすい。ふつうに授業受けて、ふつうに部活して帰る。これはセーフ」
「ど真ん中の生活ですね」
「問題は②と③だよ」
先輩はニヤっと笑う。
「さっきの“ノート丸写し”“人をわざと傷つける発言”なんかは、②の“悪いけど犯罪じゃない”ゾーン」
「……耳が痛いほうですね」
「あとは、恋人と付き合ってる途中で、裏で別の人ともやり取りしまくるとか」
「先輩、例えが生々しいですよ」
「こういうのは倫理的にはだいぶ赤寄りだけど、警察はノータッチでしょ」
「ですね……」
「で、③。“悪くないのに犯罪っぽい”ゾーン」
先輩は少し考えてから、言った。
「例えばさ、“駅のホームで混雑してて、前の人に押されて、線の内側からちょっとはみ出ちゃう”とか」
「あー……」
「形式的にはルール違反だけど、その人に“悪意”はほとんどない。むしろ被害者寄り」
「それを捕まえるのは、たしかに変な感じがしますね」
「あるいは、“よかれと思ってやったのに、ルール的にはアウトだった”ケース」
「例えば?」
「迷子の子どもがいて、駅員さんを探しに行く間、一瞬改札をまたいで声かけちゃうとか」
「えっと、それは……“無賃入場”みたいな扱いになりうるってことですか」
「極端な話ね。もちろん現実には事情を聞いてくれるだろうけど、ルールだけ見るとグレーな行動って、けっこうある」
「……なんか、急に息苦しくなってきました」
◇ ◇ ◇
駅のエスカレーターを上りながら、僕は手すりに寄りかかった。
「結局、“悪いことだから犯罪”でもあり、“犯罪だから悪い”でもあり、どっちもあるってことですか?」
「うん。だからこそ、“ごっちゃにしないほうがいい”って話かもね」
先輩は、エスカレーターの上で振り返る。
「法律って、“みんなの最低ライン”なんだよ。“ここから先は国が罰つけてもいいよね”って合意の」
「最低ライン、ですか」
「逆に、“いい人でいたいライン”は、もっと高いところにあるじゃん」
「たしかにそうですね」
「“人としてどうかと思うけど、捕まりはしない”って行動は、その間のゾーンにうじゃうじゃある」
先輩はスマホの図を指でなぞる。
「だからさ、“犯罪じゃなきゃ何やってもいい”って言い出す人は、法律を『倫理のフルセット』だと思ってるし」
「逆に、“悪いこと=全部犯罪になるべき”って人は?」
「それはそれで、息苦しすぎる世界だよね。全部法律で縛るってことだから」
たしかに、それは嫌だ。
◇ ◇ ◇
改札を抜けて、いつもの帰り道に出る。
少し風が冷たい。
「じゃあ、さっきの脱税のニュースはどうです?」
さっきのモニターを思い出して、聞いてみる。
「“悪いことだから犯罪”なんですか、“犯罪だから悪いこと”なんですか」
「いい質問じゃん」
先輩は少しだけ真面目な顔になる。
「税金って、“みんなで社会を維持するためのお金”でしょ。道路とか、学校とか、病院とか」
「はい」
「だから、“本当は払うべきなのにごまかしました”は、まず倫理的にアウト。ズルい」
「ですね」
「で、そのズルさが社会全体にとって困るレベルだから、“じゃあ国が罰つけます”って枠に入れた結果が『脱税は犯罪』」
「ということは、先に“悪さ”がある感じですか」
「税金に関しては、そういう考え方に近いかなあ」
先輩は空を見上げる。
「でも、“軽い交通違反”とかになると、“危ないことを減らすために、とりあえずルール作って罰つけました”寄りで、“悪さ”というより“調整”に近いところもある」
「じゃあ、分野によっても違うんですね」
「うん。“悪いから犯罪になったもの”と、“秩序の都合で犯罪として扱われてるもの”が混ざってる」
「ややこしいですね」
「世界ってだいたいややこしいよ」
サラッとまとめないでほしい。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いたあと、先輩がふいに言う。
「でさ。君自身は、“どこで線を引いてる”?」
「線、ですか?」
「“法律的にはセーフだけど、自分的にはやらない”ラインと、“法律的にはアウトだけど、正直やっちゃったことがある”ライン」
「さらっと犯罪歴の告白を求めないでください」
「いや、そこまでじゃなくてさ。例えば、“店のトイレ借りたとき、何も買わないのはちょっと悪い気がする”とか」
「あー……それは、分かります」
「法律的には問題ないけど、自分の中で“こうしたい”っていうルールがあるでしょ」
「ありますね。トイレだけ借りたら、ガムくらいは買おうかな、みたいな」
「そういう“小さい自分ルール”の積み重ねが、その人の倫理観なんだと思うよ」
先輩は、歩道橋の階段の前で立ち止まる。
「法律は、“みんなの最低ライン”。倫理は、“自分のありたい像”」
「ありたい像、ですか」
「うん。だから、“犯罪じゃないから大丈夫”って自分に言い聞かせてるときは、たぶんどこかで、自分の“ありたい像”を誤魔化してる」
「……耳が痛いです」
「私もだけどね」
先輩は、少しだけ笑って続けた。
「逆に、“ルールだから全部悪”って思い込みすぎると、今度は“他人を裁くための物差し”になっちゃう」
「それも、しんどいですね」
「でしょ」
◇ ◇ ◇
歩道橋を上りながら、僕はふと思う。
「先輩は、どうしてそんなに気にするんですか。悪いことと犯罪の差とか」
「ん? 気になるからだけど」
「それだけですか」
「それだけだよ」
先輩はあっさりと言う。
「でもさ」
階段を上りきったところで、先輩が振り返った。
「“これは悪いけど犯罪じゃないからセーフ”って言葉、きっと大人になればなるほど便利になるじゃん?」
「……たぶん、そうですね」
「だから、“便利な言い訳”にする前に、一回くらいはちゃんと考えておきたいなって」
その言い方が、妙に真面目で、僕は少し黙る。
「君もさ」
先輩は歩き出しながら言う。
「“悪いことだから嫌だ”って感覚と、“法律だから嫌だ”って感覚、ごちゃごちゃにしないで取っておくと、案外あとで役に立つかもよ」
「……宿題みたいに出すのやめてください」
「出してないよ。一緒にバカみたいな話してるだけ」
そんなふうに言われると、反論しづらい。
◇ ◇ ◇
いつもの角を曲がって、いつもの並木道に入る。
さっきまでニュースで見ていた“脱税”は、画面の向こうの遠い出来事みたいだったのに。
今はなんとなく、自分の小さな「やりたくないこと/やってしまうこと」のほうが気になっている自分に気づく。
「……とりあえず、ノートの丸写しはやめようかなって思いました」
ぽつりと言うと、先輩が笑った。
「いいんじゃない?それはたぶん、法律じゃなくて、君の“ありたい像”の問題だし」
「はい。耳が痛いので、この話はここまでで」
「了解。次はもっとくだらないテーマにしよっか」
「次もけっこう真面目になる気しかしないですけど」
そんな他愛のないやりとりを交わしながら、僕たちは今日も、法律と倫理の境界線をちょっとだけ踏み越えたり踏みとどまったりしながら、いつもの帰り道を歩いた。




