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エスカレーター倫理学

放課後、駅ビルに向かう連絡通路はいつもどおり混んでいた。


「先輩、見てください、アレ」


隣を歩いていた後輩が、前方のエスカレーターを指さした。


「『エスカレーターでは歩かないでください』って書いてあるのに、

みんなちゃんと右側空けてますよ。矛盾してません?」


今日も元気に純粋な爆弾を投げてくる。


「……帰り道で考えるテーマじゃない気がするんだけどな」


「帰り道だからこそですよ。毎日通りますし」


そう言って、後輩は得意げに顎を上げた。


◇ ◇ ◇


エスカレーターの前まで来ると、自然と列が二つできている。


左側は「乗る人」の列。

右側は「歩く人」が追い抜いていくためのスペース。


そして頭上には、機械的なアナウンス。


『エスカレーターでは立ち止まってご利用ください──』


「ほら、公式には“歩くな”って言ってますよね」


後輩が言う。


「でも文化的には“片側空けるのが正しい”みたいな空気あるじゃないですか」


「まあ、あるな」


なんとなく左側の列に並びながら答える。


「先輩はどっち派ですか?“公式ルール重視”と“空気重視”」


「いきなり二択にすんなよ」


「じゃあ、グラデーションでもいいです」


後輩は真顔で言う。


「先輩の“エスカレーター倫理観”の濃度を教えてください」


「そんなジャンル初めて聞いたわ」


◇ ◇ ◇


列がじわじわ進む中で、少し考える。


「別に、片側空けなくてもいいとは思ってるよ。本来は『二列で立ち止まって乗る』のが正しいんだろうし」


「でも実際には?」


「……なんとなく右側は空けちゃうな」


「出ました、“なんとなく”」


後輩が目を細める。


「“自分ではこう思ってるけど、身体は空気に従ってしまう現象”ですよね」


「そんな立派な名前ついてないからな」


「いま付けました」


胸を張るな。


◇ ◇ ◇


エスカレーターに乗り込む。

僕は左側に、後輩はその後ろに続いた。


右側は、時々スーツ姿の人が早足で駆け上がっていく。


「でも」


後輩がぽつりと言う。


「“歩かないでください”って言っているのに、“歩きやすいように片側を空ける”って、なんか、公式と慣習がグルになってズルしてる感じしません?」


「グルって言い方やめろ」


「だって、注意されてるのに、注意が成立しない形に整えてるんですよ?」


「……まあ、たしかに」


右側を見やる。


アナウンスが「歩かないで」と言うたびに、誰かが小走りで駆け上がっていく。

それを誰も止めないし、異様だと思いもしない。


「じゃあ、どうするのが正しいと思ってるんだ?」


「私ですか?」


後輩は少し黙ってから、言った。


「“全員で二列で立つ”か、“もう堂々と歩いていいことにする”かのどっちかです」


「極端だな」


「中途半端が一番危ないですよ。“公式にはダメだけど、暗黙的にOK”って、いつ怒られるのか分からないゲームじゃないですか」


「それは、まあ……分かるけどさ」


◇ ◇ ◇


エスカレーターを降りて、コンコースを歩く。

後輩はまだ納得していない顔だ。


「でも、二列で立っちゃうと、急いでる人が困るだろう」


言いながら、なんとなくフォローを入れたくなる。


「電車ギリギリとか、乗り換えとか」


「それはそうですけど」


「だから“片側空ける”って、“急いでる人には配慮しましょう”っていう、ある種の優しさじゃないか?」


「……優しさ、ですか」


後輩は首をかしげる。


「優しさというより、“想定されてる怒りに先回りしてる感じ”しません?」


「どういう意味」


「片側をふさいで立ってたら、後ろから『すいません通して』って言われるかもしれないじゃないですか」


「まあ、言われるな」


「それが、ちょっと怖いから、最初から空けておく、みたいな」


「ああ……」


言われてみれば、たしかにあるかもしれない。


「別に“急いでる人のために空けてあげよう”というより、“トラブル防止のために空けておこう”っていう。どっちかというと、防御っぽい優しさですよね」


「防御的優しさって、新ジャンルだろ」


「いま作りました」


さっきからジャンル生産工場かお前は。


◇ ◇ ◇


「じゃあさ、先輩」


今度は後輩が逆質問してくる。


「先輩は、“全部二列で立つべきだ派”と、“片側空けるのも文化だから尊重すべきだ派”のどっちですか?」


「その二択しかないのかよ」


「いったん二択にしてください」


理不尽なアンケートだ。


少し考えてから、答える。


「どっちかというと、“全部二列で立つべきだ派”かな」


「意外ですね」


「だって、危ないだろ。エスカレーターって、本来歩くように設計されてないんだし」


「じゃあなんで右側空けるんですか」


即座に刺さる矛盾。


「……空気、かな……」


「出ました、“空気には勝てない”」


後輩がクスクス笑う。


「つまり先輩の中では、“正しいと思う自分”より、“空気に従う自分”のほうが強いってことですね」


「そういう言い方しないでほしい」


「でも事実じゃないですか」


否定できないのが腹立つ。


◇ ◇ ◇


「私はですね」


後輩はあっけらかんと言う。


「一人だったら、普通に二列で立ちます」


「お、意外と真面目」


「でも、後ろから明らかに急いでる人が来たら、さっとどきます」


「結局どっちもやってんじゃん」


「状況に応じて、です」


後輩は得意げだ。


「“ルール”と“慣習”と“目の前の人”のどれを優先するか、その場で決める感じですね」


「器用だなあ」


「先輩は?」


「僕は……基本的に自動で右側空けてるから、たぶん“空気オートモード”だな」


「省エネ設定ですね」


「省エネって言うな」


◇ ◇ ◇


駅ビルの端まで来て、ガラス張りのテラスに出る。

夕方の光が、ビルの窓に反射して眩しい。


「でも、先輩」


後輩が柵にもたれながら言う。


「“正しさ”って、どこで決まるんでしょうね」


「急にスケール上げるなよ」


「だって、エスカレーターの“公式ルール”も、“片側空ける文化”も、それぞれの正しさがあるじゃないですか」


「まあ、そうだな」


「公式ルール的には、“歩かないほうが正しい”。安全だし、設計通りだし」


「うん」


「文化的には、“片側空けるほうが正しい”。急いでる人に道を譲るのは親切だし、

それが“空気”として定着してる」


「うん」


「じゃあ、私たちがエスカレーターに乗るときに、どっちの“正しさ”に従うかって、何で決めてるんでしょうね」


「え?」


「“安全を優先する自分”なのか、“親切を優先する自分”なのか、“空気を優先する自分”なのか」


後輩は指を三本立てる。


「その配分って、人によって違うじゃないですか」


「まあ……たしかに」


「でも、お互いにその配分は見えないんですよ」


「たしかに」


「なのに、“エスカレーターで片側ふさいで立ってる人”を見た瞬間──」


後輩は、何かを見つけたみたいに言う。


「“あ、この人は空気を読めない人だ”って認定しちゃったりする」


「……耳が痛いな、それは」


「その人は単に、“公式ルールに忠実な人”かもしれないのに」


「正しいのに嫌われるパターンだな」


「そうです。“正しさの方向性が違うだけ”なのに、そこで価値観がぶつかっちゃう」


後輩は、柵の向こうの道路を見下ろしながら続ける。


「なんか、もったいなくないですか」


「もったいない?」


「だって、“空気より公式ルールを優先する人”と、“公式ルールより空気を優先する人”がいて、どっちもそれなりに筋は通ってるのに」


「うん」


「ただエスカレーターの上で立ち位置が違うってだけで、“あいつムカつく”って終わっちゃうの、ちょっとさみしいなって」


「……さみしい、ね」


言われてみれば、そんな些細なことで他人を心の中で減点しているとき、俺はその人の事情を何一つ知らない。


足を怪我しているのかもしれないし、社内で「エスカレーターでは歩くな」と叩き込まれているのかもしれない。


それでも、一瞬でラベルを貼ってしまう。


「空気読めないやつ」とか。

「急いでる人の気持ちを考えないやつ」とか。


◇ ◇ ◇


「じゃあさ」


僕は聞く。


「どうするのが一番マシだと思ってる?」


「エスカレーター倫理観の達人として、ですか?」


「誰がそんな称号やった」


後輩は苦笑しながら、それでも少し考えてから言った。


「うーん……」


「うーん?」


「“自分の正しさを押しつけない範囲で、自分の優先順位に従う”」


「急にふわっとした」


「だって、相手の事情は分からないですもん」


後輩は肩をすくめる。


「私は二列で立つのがいいと思ってるし、歩く人が危ないのも嫌だから、基本はそうします」


「うん」


「でも、どうしても急いでる人がいたら、ちょっとどきます」


「さっきも言ってたね」


「で、その代わり──」


後輩は少し笑って付け足した。


「“どいてあげた自分はえらい”とかも、思わないようにします」


「……そこまでセットなのか」


「だって、“正しさを振りかざすのが一番めんどくさい”って、この前先輩が言ってましたよね?」


「あー……言ったかも」


きっと、どこかの帰り道で。


◇ ◇ ◇


しばらく二人して黙る。


下の階から、またアナウンスが聞こえてくる。


『エスカレーターでは立ち止まってご利用ください──』


「で、先輩は?」


後輩が訊く。


「これからどうするんですか、エスカレーター」


「急に人生相談みたいなテンションやめろ」


苦笑しつつ、少しだけ本気で考える。


「とりあえず、右側を空ける前に一瞬だけ悩もうかな、とは思った」


「一瞬だけ?」


「“このまま二列で立ってていいかな”って。それで、後ろに誰もいなかったら、普通に二列で立つ」


「ほう」


「後ろから足音がバタバタしてきたら、たぶん反射で空けちゃうだろうけど」


「空気オートモードから、“ちょっとだけマニュアルモード”になったわけですね」


「まあ、そんな感じ」


後輩は「いいですね、それ」と笑った。


◇ ◇ ◇


駅ビルを出て、またいつもの通学路に戻る。


さっきまでのエスカレーターの喧噪が嘘みたいに、この道は静かだ。


「でもやっぱ、めんどくさいな」


思わずこぼれる。


「何がです?」


「“正しさ”と“空気”と“人の事情”のバランス取るの」


「めんどくさいですよ」


後輩は即答した。


「でも、めんどくさいからって毎回投げちゃうと、そのうち“全部空気で決めよう”ってなっちゃう気がするんですよね」


「それは……ちょっと嫌だな」


「ですよね」


後輩は前を向いたまま、少しだけ笑う。


「だからまあ、“めんどくさいって分かってるのに、ときどき立ち止まって考える人”ぐらいで、ちょうどいいんじゃないですかね」


「どこで立ち止まるかが問題だな」


「エスカレーターでは立ち止まってくださいって言われてますし」


「うまくまとめた顔するな」


そんな他愛のないやり取りをしながら、僕たちは、エスカレーターのない坂道を、ゆっくりと歩いて帰った。

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