9話 西南戦争勃発ー兄上、あなたは、愚直すぎる。義に厚すぎる。しかし、私は、私の道を選びます
明治十年二月。東京の街路に号外が舞った。
――鹿児島、挙兵す。
それは、のちに西南戦争と呼ばれ、薩摩同士が刃を交え、兄と弟がそれぞれの道を選ぶことになった。
その大きな文字は瞬く間に広がり、辻々で人々が立ち止まり、声を潜めた。最大の火種とされていた薩摩がついに立った――その知らせは都の空気を震わせ、「また戊辰の戦になるのでは」と囁く声が絶えなかった。
すぐに太政官に緊急の召集がかかり、陸軍の将官、官僚、そして海軍の高官らが広間に集められた。中央には海軍卿・川村純義。薩摩出身にして、今は新政府の海軍を率いる人物であった。その隣に座すのは海軍大輔・西郷従道。いま挙兵した西郷隆盛の実弟である。
「薩摩の士族、三万余。熊本に迫る構えにございます」
陸軍参謀の声が響くと、広間にざわめきが走った。鉄道と街道を使って兵を送り、熊本鎮台を救う――将官たちの声はすぐに戦略を巡って交錯した。
川村は机に手を置き、低く言った。
「兵を陸で送るはよかろう。されど戦を繋ぐは兵ばかりではない。銃も弾も、腹を満たす米も運ばねばならぬ。海を使わずして、長き戦は持ちませぬ」
参謀の一人が渋い顔で返した。
「これは内乱にございます。海軍の出番はございません。兵站も陸路で足りましょう」
川村の眼差しが鋭く光った。
「米俵ひとつ絶えれば、城の兵は飢えて倒れる。弾薬ひとつ届かねば、銃はただの棒になる。戦は兵だけで成らぬ。海を軽んずれば、勝つ戦も負ける」
場が静まり返った。その時、岩倉具視が深くうなずき、決定が下された。
「三菱の社船を徴し、米と弾薬を九州へ送るべし」
こうして、社船三十八隻を用いた大規模な輸送が命じられた。川村は署名をし、その墨痕の黒が歴史の頁を染めた。
会議を終えた後、若い士官が従道に問いかけた。
「大輔殿、ご心中はいかほどか……」
従道は歩みを止めず、短く答えた。
「わしは公務に殉ずるのみ。兄は兄、わしはわしの道を行く」
それだけを残し、彼は沈黙した。その重さに、士官は息を呑んだ。
――数日後、横浜の港。
岸壁には徴用された社船が並び、甲板には米俵、塩袋、火薬箱が積まれていく。荷役の人夫が汗に濡れ、船倉の奥へと次々と担ぎ込む。港は兵ではなく、物資で溢れていた。
水兵たちはその光景を見つめながら、口々に呟いた。
「なぜ我らは艦で戦わぬのか……」
「荷を運ぶだけが務めとは」
川村は彼らの前に立ち、言葉を投げた。
「この俵ひとつが、熊本の兵の命を繋ぐ。戦わずとも、これもまた戦ぞ。誇りを持て」
水兵たちは唇を噛み、やがて姿勢を正した。戦場に立つことは叶わぬが、海の上で国を支えるのだと自らに言い聞かせながら。
徴用された三菱の社船には、米俵や塩袋、乾物、砲弾の木箱が次々と積み込まれていった。荷役に駆り出された人夫たちが汗を流し、板張りの桟橋を揺らしながら肩で担ぎ上げる。船倉にはすでに乾いた藁が敷かれ、俵を崩さぬよう幾重にも積み重ねられていた。
川村純義は岸壁に立ち、その様子を食い入るように見つめていた。彼の胸には重い確信があった。
――戦を決めるのは、剣でも銃でもない。腹を満たす米俵こそが兵を支える。
熊本城に籠もる兵が飢えれば、銃を握る力すら失う。ゆえにこそ、この食料輸送が勝敗を分けるのだと。
だが、港に集う水兵たちの表情は冴えなかった。
「なぜ我らは銃を取らぬのか。せめて陸に上がって守りたいものを守りたい」
若い水兵の呟きに、別の者が応じた。
「我らの任は荷を運ぶだけだと。戦わずして戦を支える、それが海軍か」
不満の声は小さくとも、確かにあった。
川村は彼らの前に立ち、声を低く張った。
「戦は一人ではできぬ。前に立つ兵の影に、米を担ぐ者、銃を繋ぐ者、船を操る者がある。わしらが運ぶ一俵が、熊本の兵の命を繋ぐ。忘れるな、海軍が支えておるのは、この国そのものじゃ」
その言葉に水兵たちは顔を上げた。戦わぬ悔しさは消えぬ。だが、自らの務めの重さを胸に刻む者もいた。
――やがて船団は南へ向かった。
蒸気を吐き出す煙突から黒煙が立ち、社船は波を分けて進む。甲板には米俵が山と積まれ、海風に吹かれて白い粉が舞った。船倉の暗がりには火薬箱が並び、士官が火種を持ち込まぬよう監督していた。
途中、荒波に揺さぶられ、甲板に積んだ米俵が崩れ落ちそうになった。水兵と人夫が必死に押さえ、縄で縛り直した。船は呻きながらも進み、やがて長崎に着岸した。そこから荷はさらに小船へと移され、熊本鎮台を支えるべく運ばれていった。
船室の片隅で、西郷従道は黙して双眼鏡を強く握りしめていた。指先が白くなるほど力がこもっている。その双眼鏡に、九州の地が見えた時、思わず言葉を結んだ。
「兄上、あなたは、愚直すぎる。義に厚すぎる。しかし、私は、私の道を選びます」
熊本から届く報は熾烈であった。薩軍は城を囲み、弾丸は絶え間なく飛び交う。だが、政府軍の兵は飢えることなく持ちこたえた。船団が運んだ米と弾薬が、彼らを支えたのであった。
川村はその知らせを受け、深く息を吐いた。
「わしらの俵が、あの城を生かしたか」
だが同時に、胸の奥には苦い思いが渦巻いていた。
「戦場に立たずして名は残らぬ。我らの務めは影に過ぎぬのか」
従道はその隣で静かに立ち、言葉を交わさなかった。彼の沈黙は、兄との戦に挑む苦悩を映していた。
戦後、「西南戦争において海軍は国内の反乱に初めて本格的に動員された」と記録は残った。だが、現場の水兵たちに刻まれたのは「戦わずして支えた悔しさ」であった。川村の胸にもまた、その思いは深く残った。
――それでも彼は信じていた。
「この悔しさが、海軍を鍛える。いずれ国を護る日が来る」
蒸気の白い雲が空に溶け、戦なき戦を担った者たちの影が、静かに歴史の頁に刻まれていった。




